火事
人を殺した。
そのことに対する罪悪感は思った以上に小さかった。
それよりも、祖父を失ったことで、心に大きな穴が開いたようだった。
自分で殺しておいて何を今さらと思うが、自分の知らないうちに祖父の存在は大きな心の支えになっていたのだろう。
祖父をそのままにしておくわけにはいかず、道場の裏に丁寧に埋めた。
それから道場の中で大の字に寝そべり、自首でもしようかと考えていたとき、卓袱台の上から白い封筒の角が覗いているのに気が付いた。
それはどうやら遺書のようで、そこにはこう書かれていた。
達也
お前がこれを読んでいるということは、儂はお前に負けたということか。
だからと言ってお前が気に病む必要はない。
儂の命はもう長くなかった。
儂の体のことは儂が一番理解している。
だからこれからは自由に生きろ。
今までお前に剣ばかり振らせ、他には何も与えてやれなかった。
その代わりと言っては何だが、道場や遺産なんかはお前にすべて譲ろう。
まぁ、大したものではないが…。
お前は強くなった。
身に付けた力は、お前の好きなように使え。
怒りに任せて力を振るおうが別にかまわん。
それどころか儂は、お前に怒りを感じてほしい。
お前の笑顔が見れなかったことだけが、儂の心残りだ。
最後に…
口下手な儂だったが、最後にこれだけは伝えておきたい。
達也、愛している。
「俺も愛してるよ、じいちゃん……」
気付けば夜になっていた。
月明かりが優しく俺を照らしていた。
あれから3年、今では日常になった学校の帰り道。
隣には橘奈央が歩いている。
一緒に帰ろうとしているわけではないが、いつも俺の帰るタイミングに合わせてくるので、これもまたいつも通り。
普段はほとんど山で自給自足のような生活をしているが、日用品などはスーパーに買い出しに行ったりする。
今日もその買い出しの日だ。
ちなみにそのお金は祖父の遺産だが、今のところ使い道はこの買い出し以外特にない。
かといってお金がないわけではなく、逆に有り余るほどあるのだが、俺は剣が振れればいいのであまり手は付けていない。
「さて、今日は何を買うべきだったか…」
洗剤やらシャンプーやら、以外にスーパーに頼っているものは多い。
「なになに?何なら私が選んであげよーか?」
橘が嬉しそうに思考の邪魔をしてくる。
「断る」
「もう、冷たいんだから…」
少し落ち込んだ素振りを見せつつも、いまだに表情は笑顔のまま。
普段からこんなやり取りをしているから、慣れているのだろう。
俺も別に悪意はないから、気にしないでいてくれるのはありがたい。
「達也はもうちょっと周りの人と関わったら?」
「お前が俺のことを気にかけてくれるのはありがたいが、俺は今の生活で満足しているからいいんだ。それに、お前もいるしな」
何の気なしに言った言葉だったが、橘は頬を紅く染めていた。
「もぅ、そうやってはぐらかすんだから…」
そんな会話をしていると、少し遠くで黒煙が立ち上っているのが見えた。
「あの辺は住宅街だったよな?」
「私は達也のことを本気で心配して…、でもやっぱりお節介なのかな…って何?あぁうん、工場とかはなかったと思うけど」
「ちょっと行ってみるか」
これがよく聞く野次馬根性ってやつなのだろうか。
そんなことを考えながら近づいていくと、段々騒がしくなってきた。
予想通りといえば予想通り、鉄筋コンクリート造りの五階建てのアパートが火事になっている。
外観は正直言ってボロボロで、今にも崩れそうだ。
しかも四階のベランダに幼い女の子が取り残されているときた。
「ママ、ママ!助けて!熱いよぉ!」
「あぁ!シズカ!誰か、うちの子を助けてください!お願いします!」
母親らしき女が泣き喚いている。
母親なら、命を犠牲にしてでも我が子を助けに行くくらいの気概を見せろと思うが、世の中の母親は皆こんなものなのだろうか。
それにしても、こんなに野次馬がいるのにだれも助けにいかないのか。
やはり目の前で火事が起こっていても、どこか他人事なんだろうな。
命を大事にするのは当たり前だ。
それを責めるのは出来ない。
そもそも俺だって、そんな野次馬の一人でしかないのだから。
そんなことを考えていると、後ろから橘が声をかけてきた。
「そこで話してたんだけど、消防車がくるまであと20分くらいかかるって…。道が渋滞してる上に、この辺道が細くて入り組んでるからだろうって…」
20分。
確実にあの子は助からない。
はぁ、と一つため息をつくと、俺は口を開く。
「橘、ちょっとこれ持ってろ」
そういって橘に学生カバンを押し付ける。
「え?ちょっと達也どうするつもり?」
心配そうに聞いてくる橘の質問を振り切り、俺は崩れ落ちそうなアパートに駆け込んで行った。
今思えば、祖父が死んでから、俺の時間は止まっていた。
剣の鍛錬には身が入らず、相手になる人もいない。
世の中にはもっと強い人がいるのかもしれないが、それを探す気力も起きなかった。
こんなことなら、年老いて体が衰える前に死にたい。
そういう考えも少なからずあった。
まぁちょっと思っていたより早いけどな、なんてことを考えながら四階にたどり着く。
袖で口元を抑えながらベランダにたどり着くと、女の子は倒れていた。
一瞬焦ったが、まだ息はある。
そっと抱えると、俺はベランダから声を上げる。
「誰かこの子を受け止めてくれ!」
やはり正義感が強い人はいるのか、数人の男が進み出る。
準備が整ったのを見ると、俺は位置がずれないように女の子を落とした。
悲鳴が上がったが、うまく受け止めたようだ。
女の子が目覚めるかどうかは、もう俺の知ったことではない。
「君も早く飛び降りるんだ!」
ま、そうなるよな。
まだ死ねないか。
死を諦めかけたとき、アパートの中から気配がした。
気のせいかと思ったが、やはり誰かいる。
「待ってくれ!まだ誰かいるみたいだ!」
そういって再びアパートの中に舞い戻る俺の姿を見ていた人々の中から、ポツリと声が漏れる。
「アパートに住んでいる住人はもう全員逃げ出したはずだが…」
それが聞こえた女子学生は、怯えた表情でただ祈るしかなかった。
俺は四階の、ベランダとは反対側の壁際に来ていた。
アパート内部がどんな構造だったかはもはや分からない。
「気配の主はこいつか?どう見ても人じゃないな」
俺の目の前には、細長い木の箱があった。
なぜか火はその箱を避けているように見える。
箱を開けると、そこには一本の刀が収められていた。
美しい朱の鞘と、丁寧な作りの柄。
刀身は透き通るようで、波紋もまた美しい。
この刀を見た瞬間、懐かしい感覚に襲われた。
あぁ、この刀で斬り合いたい。
まだ生きなければ。
久しぶりに、生きる目的を見つけることができた。
しかし、無情にも。
ついに耐え切れなくなったアパートは崩れだし、俺の意識もろとも飲み込んだ。
「達也!」
そんな声が聞こえたような気がした。