2章20節
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火山灰が、静かに降っている。
夜営の火は、最低限。
赤く揺れる炎が、岩壁に歪んだ影を落としていた。
ヤヒロは、盾を拭いていた。
血でも、溶岩でもない。
ただの、灰。
それでも、
やけに丁寧だった。
「……」
ユイは、
少し離れた場所で弓の弦を張り直しながら、
その様子を見ていた。
ヤヒロの動きは、正確だ。
手順も、無駄がない。
中層を越えてから、
むしろ洗練されたと言っていい。
だからこそ。
「……ヤヒロ」
ユイが、呼ぶ。
「なに?」
すぐに返事が返ってくる。
遅れも、苛立ちもない。
いつも通りの声。
「……さっきの」
言葉を、選ぶ。
「……三人目」
ヤヒロの手が、
一瞬だけ止まった。
「ああ」
すぐに、動きは再開される。
「あれがどうかした?」
平坦だ。
ユイは、
弓から視線を外さずに言う。
「……足、折れてた」
「うん」
即答だった。
「……逃げられなかった」
それも、事実。
ユイは、
一拍、置く。
「……止め、刺す前」
火が、小さく爆ぜる。
「……助け、呼んでた」
ヤヒロの手が、
今度は、はっきり止まった。
盾の表面に、自分の顔が映る。
歪んでいる。
「聞こえなかった」
そう言った。
嘘ではない。
たぶん。
「火山灰と、風で」
理由も、すぐに出てくる。
ユイは、ヤヒロを見た。
視線が、ぶつかる。
「……聞こえなかった、じゃない」
静かな声。
「……聞こうと、しなかった」
ヤヒロは、
何も言えなかった。
ユイは、責めない。
声も、強くならない。
ただ、
事実を置いただけだ。
「……前なら」
続ける。
「……一瞬、止まってた」
「……確認、してた」
ヤヒロは、
喉が、少しだけ鳴る。
「今は?」
「……止まらなかった」
沈黙。
遠くで、
溶岩が崩れる音がする。
ツダは、
少し離れた場所で、
気づいていないふりをしていた。
「悪いことだと思ってない」
ヤヒロが、言う。
「生き残るためだ」
「……分かってる」
ユイは、即座に返す。
「……私も」
だからこそ、その先を、言う。
「……でも」
ユイは、弓の弦を、指で弾いた。
張りすぎている。
「……ヤヒロ」
「……盾、強くなってる」
「……体も……動きも」
肯定を、重ねる。
そして。
「……心だけ」
一言。
「……追いついてない」
ヤヒロは、息を、吸った。
「それが、どうした!」
少しだけ、語気が強い。
ユイは、視線を逸らさない。
「……壊れる」
断言だった。
「……その前に、気づいて」
ヤヒロは、笑おうとして、失敗した。
「壊れたっていい!」
口に出した瞬間、自分で、驚いた。
ユイの、眉が、ほんの少しだけ動く。
「……それは嘘」
胸の奥が、ひやりと冷える。
ヤヒロは、盾を抱え込む。
「嘘じゃない!」
「……強くなってる」
「だから!」
「……だから、何?」
ユイが、被せる。
初めて、
ほんの少しだけ、感情が滲んだ。
「強くなったら、何を失っても、いいの?」
答えは、出ない。
ヤヒロは、視線を落とす。
火が、灰に埋もれそうになっている。
「寝る」
それだけ言って、立ち上がった。
背中が、少しだけ硬い。
ユイは、その背を、見送った。
止めない。
追わない。
ただ――
見えてしまった。
小さな亀裂。
誰にも気づかれないほど、
些細で、
しかし、確実な破綻。
(……このままじゃ……)
ユイは、
弓を、強く握る。
ヤヒロが、
慣れてしまう前に。
慣れてしまったあとでも。
引き戻せるのか。
その答えは、
まだ、分からない。
上層の夜は、
静かに、深まっていった。




