2章15節
祝2000PV!!
皆さま、ありがとうございます。
毎日17:30投稿
境界喰らいは、もはや“獣”ではなかった。
鹿の頭部は天井を擦り、枝分かれした角が歪んだ影を壁に落とす。
胴は人型に近いが、関節の位置がどこかずれている。
そして――両腕。
蛇だった。
鱗に覆われた太い腕が、意思を持つかのように蠢き、
牙の並ぶ口を開閉させながら、三人を囲む。
「……ちっ」
ツダが短く舌打ちする。
既に息は荒い。
革鎧のあちこちが裂け、血が滲んでいた。
ユイは無言のまま、矢を放つ。
だが――
**当たらない。**
正確には、当たっても“意味がない”。
矢は蛇の腕を貫くが、
次の瞬間、肉がうねり、穴が塞がる。
「再生……いや、食われてる」
ツダが呟く。
境界喰らいは、
“境界”そのものを喰らう魔物だ。
肉体と肉体。
攻撃と無効。
損傷と回復。
その境目を、無意味にする。
――中層の最後。
ここを越えられない冒険者が、どれほどいたか。
ヤヒロは、盾を構えながら後退していた。
脚が、重い。
腕が、痺れている。
盾はまだ耐えている。
だが、問題はそこではない。
**攻め手がない。**
衝撃波反転。
切断。
幻痛毒。
どれも、“決定打”にならない。
蛇の腕が、しなり――
視界が、反転した。
叩きつけられる衝撃。
盾で受けたはずなのに、床を転がる。
「ヤヒロ!」
ツダの声。
だが、追撃。
蛇の腕が、地面を抉りながら迫る。
ユイが矢を放つ。
蛇の顎を貫く。
それでも――止まらない。
**盤面が、詰んでいる。**
ヤヒロは、膝をついた。
息が、うまく吸えない。
このままでは、
誰かが死ぬ。
――いや。
ここで負ければ、
**全員、最初からだ。**
時間がない。
エリクサーは、上層にある。
ユイの母は、待っていられない。
「……くそ」
そのときだった。
盾の内側で、
何かが、**疼いた。**
――棍棒。
オークロードの死体から得た、
あのレアドロップ。
【特性:眷属召喚】
忘れていた。
いや、
**忘れたふりをしていた。**
三人で戦うことに集中していた。
頼らない戦いを、選んでいた。
だが――
今は違う。
これは、
**切り札を切らなければならない盤面だ。**
「……来い」
ヤヒロは、盾を地面に突き立てた。
盾が、低く鳴る。
喰らう音。
吐き出す音。
**空気が、裂けた。**
赤い光が、地面に滲む。
次の瞬間――
**赤狼が、現れた。**
筋肉質の体躯。
燃えるような毛並み。
眼は、獲物だけを捉える。
「……っ!」
ツダが、目を見開く。
「それ、今まで使ってなかったよな!?」
「……忘れてた」
「忘れてた!?」
赤狼は、迷わない。
蛇の腕に、飛びかかった。
牙が、鱗に食い込む。
**ブチリ、と音がした。**
蛇の腕が、千切れる。
境界喰らいが、初めて――
**明確な悲鳴を上げた。**
鹿の頭が、仰け反る。
その隙を、逃さない。
「今だ!」
ツダが、前に出る。
槌が、関節を砕く。
ユイの矢が、連続で飛ぶ。
膝。
喉。
眼。
必中。
赤狼は、吠え、
もう一方の蛇腕に噛みつき、引き裂く。
ヤヒロは、立ち上がった。
盾を構える。
**攻勢だ。**
切る。
弾く。
反転する。
衝撃が、境界喰らい自身に返る。
幻痛毒が、効き始める。
存在しない痛みが、
存在する肉体を縛る。
鹿の頭が、左右に揺れる。
ツダの槌が、頭部を打ち抜く。
**ひびが、入った。**
「……終わらせる!」
ユイの声が、初めて強く響く。
矢が、雨のように降る。
そして、境界喰らいの巨体が、完全に動きを止めた。
鹿の頭部が砕け、
蛇の腕は地面に落ち、
人の胴は、形を保てず崩れ落ちる。
次の瞬間――
死体は、光の粒となって霧散した。
中層では見慣れたはずの光景。
それでも、エリアボスの消滅は、どこか重い。
静寂が戻る。
赤狼はすでにいない。
戦闘が終わったことを告げるように、召喚の痕跡すら残さず消えていた。
「……終わった、か」
ツダが、ゆっくりと息を吐く。
ユイは弓を下ろし、周囲を警戒しながら近づいた。
地面に、残されたものがあった。
淡い緑色の光を帯びた、革製の防具。
脚防具だ。
「ドロップだな」
ツダがモノクルをかける。
光がレンズに反射し、
装備の情報が読み取られていく。
「……おい」
一瞬、言葉が詰まった。
「エピックだ」
ヤヒロが、はっと顔を上げる。
「脚装備。真樹の皮レギンス、だってよ」
ツダは、淡々と続ける。
「特性は、食いしばりだ。致命的な一撃を、一度だけ耐える」
その言葉が、空気を変えた。
ユイが、無言でヤヒロを見る。
「もう一つ、姿勢安定制御」
「踏み込み、受け、反動といった戦闘時の体幹制御を自動補正する」
ツダはモノクルを外した。
「……当たりだ。中層最後のボスに相応しい」
ヤヒロは、しばらく動かなかった。
視線は、
自分の脚を覆う、擦り切れた革に向いている。
コモンのレギンス。
ここまで、ずっと使い続けてきた。
何度も裂け、
何度も縫い、
盾と一緒に、ここまで来た。
「……履けよ」
ツダが、短く言う。
「今さら遠慮する意味はない」
ヤヒロは、ゆっくりとうなずいた。
装備を外す。
真樹の皮レギンスを手に取った瞬間、
ひやりとした感触が、脚に伝わる。
履いた。
――違う。
立っただけで、
姿勢が、安定する。
地面に吸い付くような感覚。
盾を構えると、
重心が、自然と前に来る。
「……」
ヤヒロは、無言で一歩踏み出す。
ぶれない。
次に、盾を振る。
余分な力が、抜ける。
「すげえな……」
思わず、声が漏れた。
ツダは頷いた。
「今まで、脚が弱点だった」
「盾は強くなっても、受け止める土台がなかった」
ユイが、静かに言う。
「……これで、死ににくくなる」
ヤヒロは、苦く笑った。
「一回だけ、だろ」
「それでも、だ」
ツダは、真剣な目でヤヒロを見る。
「一回耐えられるってのは、大きい」
「生き延びる可能性が跳ね上がるってことだ」
ヤヒロは、脚を見下ろした。
新しい防具。
新しい命綱。
そして――
自分は、
これを得るために、何をした?
境界喰らいを倒した。
人を殺した。
盾を喰わせ、強くなった。
報酬は、確かにここにある。
だが、胸の奥に、小さな重さが残る。
ユイが言う。
「……行こう」
ヤヒロは、顔を上げた。
「上層だ」
ツダが、わずかに笑う。
「そうだな」
中層は、終わった。
ここから先は、
選ばれた者しか進めない場所だ。
そして――
そこで待つものは、
これまでより、確実に凶悪になる。
三人は、上層へ向かう境界線を越え歩き出した。




