2章13節
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ツダは、そこで足を止めた。
それまで、軽口も分析も止めなかった男が、
ただ一言だけを落とす。
「……中層の最後だ」
その声には、いつもの飄々とした響きがなかった。
ヤヒロは、思わず盾を握り直す。
ユイも、視線を周囲へ走らせる。
空気が、違う。
森はある。湖もある。
だが、どちらにも属していない。
樹木は根を張らず、水面は風を拒み、
地面は踏み込むたびに、わずかに遅れる。
「境界だ」
ツダが続ける。
「富士の中層はな、ここで選別がかかる」
「……選別?」
ユイが短く返す。
「そう。ここを越えられた奴だけが、上層に行ける」
ツダは、モノクル越しに空間をなぞった。
「逆に言えば。」
「ここで足踏みする連中は、一生、中層止まりだ」
その意味を、ヤヒロは肌で理解した。
ここまでの戦いは、確かに厳しかった。
だが、まだ「逃げ」が成立していた。
数で来るなら引く。
不利なら夜を待つ。
人間相手なら、撤退もできた。
だが――
この場所は、違う。
逃げ道が、ない。
森と湖が絡み合い、
視界は常に半分が死角。
音は反射し、距離感を狂わせる。
「……来る」
ユイが呟いた瞬間だった。
水面が、盛り上がる。
いや――
水そのものが、持ち上がった。
湖の中央から、黒々とした何かが這い出す。
同時に、森の奥で枝が軋む。
二つではない。
一つだ。
鹿のような骨格。
だが、脚は蛇のように長く、節が多い。
角は枝分かれし、
樹皮と鱗が混ざり合っている。
腹部は水に沈み、
背は森に溶ける。
どこからが本体で、
どこまでが環境なのか、判別できない。
「……境界喰らい」
ツダが、低く名を呼んだ。
「中層エリアボスだ」
それは、鳴かなかった。
代わりに――
周囲の音が、消えた。
水音。風音。葉擦れ。
すべてが、吸われる。
「音を――」
ヤヒロが言い切る前に、
地面が叩きつけられた。
ドン、と鈍い衝撃。
次の瞬間、
音の塊が、空間を歪ませて迫ってくる。
「受けろ、ヤヒロ!」
ツダの叫び。
ヤヒロは、盾を構えた。
衝撃が、盾に直撃する。
骨が軋む。腕が痺れる。
だが――
「返す……!」
盾が、吠えた。
音撃反転を乗せた衝撃波反転。
圧縮された音が、逆流する。
境界喰らいの巨体が、わずかに仰け反る。
その一瞬。
ユイが動いた。
姿が、消える。
気配が、断たれる。
次の瞬間、
森の影から矢が現れた。
樹皮と鱗の隙間。関節。神経節。
狙いは、完璧だった。
だが――
致命には、届かない。
境界喰らいは、怯まない。
むしろ、
環境そのものが、牙を剥いた。
倒木が、滑る。
水柱が、跳ねる。
音が、乱反射する。
「まだまだ来るぞ!」
ツダが前に出た。
槌が、地面を叩く。
雑音を潰すように、リズムを壊すように。
「ここからが、本番だ」
ツダが笑う。
だが、その目は笑っていない。
「上層に行けるかどうかは――」
境界喰らいが、角を震わせる。
森と湖が、同時に唸る。
「こいつを、越えられるかどうかだ」
ヤヒロは、盾を構え直した。
ここから先は、中層ではない。
そして、
ここを越えた先に待つものが――
もっと凶悪で、
もっと理不尽で、
もっと“人を殺しに来る”存在であることを。
ヤヒロは、確信していた。
それでも。
「……行くぞ」
盾が、重く脈打つ。
食い足りない、と。
もっと奪え、と。
中層の終わりが、牙を剥いていた。




