1章18節
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「来るぞ!」
ヤヒロが叫ぶより早く、
背後で、風を切る音がした。
投擲。
盾を構えきれず、
肩口をかすめる。
痛みが、遅れて来る。
「――っ」
反転は、使えない。
迎撃すれば、確実に押し切られる。
「走る!」
判断は、早かった。
ヤヒロは通路を選ばない。
あらかじめ目を付けていた、
人が通らない側へ身体を投げ出す。
女冒険者が、迷いなく続いた。
速い。
音が、ない。
それなのに――
足取りは、確実だった。
後ろで、襲撃者たちが叫ぶ。
追ってくる。
距離は、詰まらない。
だが、離れもしない。
息が、苦しい。
肺が、焼ける。
曲がり角。
段差。
罠の残骸。
全てを、避けながら走る。
――そのとき。
「……今っ!」
女が、声を上げた。
床が、沈む。
思い出すあの嫌な感触。
「転移罠――!」
言い切る前に、
世界が、裏返った。
視界が歪み、
身体が、引き伸ばされる。
転移。
次の瞬間、
硬い床に叩きつけられた。
「……っ、は……」
息が、戻らない。
周囲を見回す。
広い。
天井が高く、
通路でも、部屋でもない。
石造りだが、
壁に傷が少ない。
――静かだ。
あまりにも。
モンスターの気配が、ない。
人の気配も、ない。
耳鳴りが、やけに大きく聞こえる。
「……生きてる?」
女の声。
近い。
ヤヒロは、頷いた。
喉が、痛む。
「ここ、どこだ」
女は、周囲を見渡し、首を振る。
「……わからない」
「……でも安全、そう」
短い言葉。
だが、
それだけで、十分だった。
ヤヒロは、壁に背を預け、
ゆっくりと腰を下ろす。
盾を、床に置く。
初めて、手を離した。
腕が、震えている。
女も、少し距離を取って座る。
互いに、まだ信用はしていない。
だが、
今は敵でもない。
「助かった」
ヤヒロが言う。
女は、一瞬だけ視線を向け、
すぐに逸らした。
「……あえて踏んだ」
「いい。あのままなら、詰んでた」
しばらく、沈黙。
遠くで、水滴の落ちる音。
ダンジョンの、呼吸のような静けさ。
ヤヒロは、盾を見る。
光は、落ち着いている。
まだ、使える。
「少し、休もう」
女は、黙って頷いた。
二人は、
背中合わせにならない距離で、
それぞれ呼吸を整える。
追っ手はいない。
モンスターも、いない。
ダンジョンの中で、
あり得ないほどの、空白。
ヤヒロは、腰のポーチから小瓶を取り出した。
淡い緑色の液体が揺れている。
ポーション。
栓を抜き、一息に飲み干す。
喉を焼くような苦味のあと、
身体の奥から熱が広がり、鈍い痛みがゆっくりと引いていった。
肩の裂傷が、塞がっていく感覚。
女冒険者も、それを見てから同じように小瓶を口にする。
こちらは無色透明。
匂いも、ほとんどしない。
――質が違う。
「いいポーションだな」
ヤヒロが言うと、
女は一瞬だけ眉を動かし、肩をすくめた。
「……拾い物」
嘘ではない。
だが、全部でもない。
回復が終わるまで、しばし沈黙。
互いに、立ち上がらない。
距離も、詰めない。
それでも、
さっきまで命を預け合っていた事実だけが、
二人を同じ空間に留めていた。
「俺は、曳舟八紘。ヤヒロでいい」
名乗るとき、
会社名も、所属も、出さない。
今は、ソロだ。
女は、少し考える素振りを見せてから、短く答えた。
「……ユイ」
一拍。
それ以上は、何も付け足さない。
偽名だと、すぐ分かった。
だが、追及する意味はない。
「さっきの動き、助かった」
「……そっちの盾も」
視線が、盾に向く。
ほんの一瞬。
だが、明確な警戒。
「……普通じゃない」
ヤヒロは、笑わなかった。
「そうは見えないようにしてる」
「……賢い」
それだけ言って、
ユイは膝を抱えた。
ショートカットの髪が、僅かに揺れる。
目線は、通路の闇に向けられたまま。
「……あいつら」
「襲撃者?」
「……うん。作った。モンスタートレイン」
やはり、か。
「……恨まれる覚えは?」
「知ってるだろ」
短い返答。
それ以上、語らない。
ヤヒロも、深くは聞かない。
代わりに、盾を軽く叩いた。
コン、と低い音。
「……しばらく、出口は探せそうにない」
「……追っ手、待ってる」
「だろうな」
だからこそ――
今は、離れないほうがいい。
ヤヒロは、そう判断した。
「……利害は一致してる」
ユイが、ちらりとこちらを見る。
「生きて帰る。それだけだ」
少しの沈黙。
そして、
ほんのわずかに、彼女の表情が緩んだ。
「……じゃあ、しばらく一緒」
握手は、ない。
だが、
敵でも、ただの他人でもない。
そんな曖昧な関係が、
この静かな空間で、静かに形を持った。
ポーションの空瓶をしまいながら、
ヤヒロは立ち上がった。




