第9話「傀儡」
「……シドウ」
闇の中で呼ばれ、紫藤は息を呑んだ。
すぐそばにしおゆりがいて、その表情は血の気を失っていた。
「どうした、しお……?」
返事の代わりに、鋭い閃光。
視線を落とすと、自分の腹に異様な熱と痛み――目の前には無表情な赤目の人形。
その右腕が刃に変わり、深々と紫藤の腹部に突き刺さっていた。
「が……はっ……!」
喉からかすれた声が漏れる。
倒れかける紫藤の名を、しおゆりが必死に呼ぶ。
「シドウ──!」
――「ご主人、起床時間でアリマス!」
はっと目を開けると、胸の上にどっかりとユユが乗っていた。
額には冷や汗がにじみ、胸の奥はまだ痛むような気がして、呼吸が整わなかった。
「はあ……まじ焦った……」
ユユを押しのけながら起き上がり、寝ぐせ頭をかきむしる紫藤。
リビングに入ると、しおゆりは端末を覗き込みながら冷ややかに言い放つ。
「……顔色が悪いわね」
「なんか、能面みたいな人形に殺される夢を見た」
「能面……?」
「ん?なにか気になるのか?」
「……いいえ、別に」
しおゆりの微妙な間に違和感を覚えた、その時――照明がチカッと瞬いた。
「……あれ?」
古い家だから電球が切れかけか、と紫藤は替えの電球を取りに席を外す。
しおゆりはふと蛍光灯の点滅パターンに視線を止めた。
規則性のある明滅――自然な劣化ではあり得ない。
その瞬間、端末が甲高いアラート音を発した。
画面には膨大なログと警告メッセージが洪水のように流れ込む。
「不正侵入……!」
しおゆりは即座にLANケーブルを引き抜き、システムを隔離。端末に高速で診断を走らせる。
ほどなくして紫藤が戻ってきた。
「今の音、なんだ……?」
しおゆりは冷静に答える。
「外部から侵入を試みられたわ。でも遮断した。感染は確認されていない」
紫藤は息を飲む。
「……マジかよ」
しおゆりは端末に流れる数字を指さす。
「昨夜からの十二時間で、二億三千万回。外部からの侵入試行が繰り返されていた」
紫藤は顔を引きつらせる。
「……に、二億三千万……!? そんな馬鹿な……」
しおゆりは淡々と続ける。
「それでも中枢には到達できなかった。ただ――」
モニタの片隅には、一行だけ文字化けしたメッセージが残っていた。
記号とアルファベットが混ざり合った、読めない一文。
紫藤は眉をひそめ、低く呟いた。
「……なんだ、これ」
夜の帳が降り、家の中は静まり返っていた。
紫藤は机に突っ伏し、半ば眠気に沈んでいる。
ふいに――部屋の照明がチカッと瞬いた。
「……またかよ。電球、やっぱ寿命なんじゃ……」
苦笑しながら見上げると、廊下の電灯も同じリズムで点滅していた。
縁側に出ると、街灯までもが規則正しく明滅している。
まるで目に見えない何かが、街全体の電気を指揮しているかのようだった。
「おい、しお。外までチカチカしてるぞ」
呼びかけると、背後で端末を操作していたしおゆりの声が返る。
「……やっぱり。自然な電圧変動じゃない」
彼女が画面を示すと、ログに新たな文字列が浮かび上がっていた。
[SIDO/HEARTBEAT] ALERT — 微小振幅検出
紫藤は眉をひそめる。
「……SIDO? さっきから出てくるけど、それって一体なんだ?」
しおゆりが答えようとする前に、紫藤の胸の内にある別の記憶がむくりと顔を出した。
「そういえば――あのとき、姉貴が俺のクロアに入れたアプリ。画面に座標が出て、横に“SIDO”って文字が出たんだ」
しおゆりがふっと顔を上げる。
「覚えているのね」
紫藤は続きを吐くように言った。
「その座標は勿来海岸の砂浜を指していて……そこでしおを見つけた……」
その言葉に、しおゆりの表情が一瞬だけ変わる。瞳の奥に、すり抜けるような光が走ったが、すぐに消える。
彼女は視線を逸らし、再び端末へと戻した。
「……SIDOは本来、“人間を護るためのAI防衛・統制システム”よ」
しおゆりは淡々と説明を続ける。だが紫藤には分かった。SIDOがクロアに座標と文字を出してから、彼が“しおを拾う”――あの出来事が始まったのだと。
「つまり、SIDOとしお、そして姉貴の研究がどこかで繋がっているのかもしれない」
紫藤の声は小さかったが確信に満ちていた。胸の中で何かが妙に納得して、同時に重くのしかかる。
しおゆりはその言葉を聞いても、すぐには反応しなかった。やがてわずかに息を吐き、言葉を落とす。
「私の記録は欠けている。多くを思い出せない。でも……あの夜以降、断片が戻ることがあった。SIDOが動いたからかもしれない」
紫藤は街灯の不気味な点滅を見つめながら、夜の闇が何者かの鼓動に合わせて震えていると感じた。
――今までの点と点が、ここでつながり始めている。
夜の静けさを切り裂くように、低い唸り声が響いた。
近所の飼い犬が、普段は吠えもしない時間に激しく吠え立てている。
「……どうしたんだ?」
不審に思った紫藤は、縁側に立って外を見やった。
街灯の下――そこに、ぎこちなく揺れる影があった。
細い手足、能面のように無表情な顔。赤い目だけが暗闇に浮かび上がっている。
「……なんだ、あれ……?」
その瞬間、しおゆりの瞳が細かく震え、鋭い声が響いた。
「――ユユ、防衛プロトコル起動。起きなさい!」
充電台からユユが跳ね起き、目が青白く点灯する。
「外部ノイズ検知でアリマス!」
紫藤は街灯下の影を凝視した。
「……あれは……人間、じゃない……」
しおゆりは端末を閉じ、視線を外へ投げた。
「……やっぱり、来た」
街灯の明滅の合間に立つ異様な影。
人の形を模した機械仕掛けの躯体。四肢は細く、関節はぎこちない。
だが赤い光が目のように点滅した瞬間、それがただの残骸ではないと知れる。
しおゆりの目のレンズが、自動的にフォーカスを合わせる。
ズームアップされた視界に、装甲の継ぎ目へ刻まれた古いマーキングが映る。
途端に、彼女の内部で何かが軋むように走った。
「……傀儡……」
ぽつりと漏れた声に、紫藤は目を見開く。
「しお……今なんて?」
しおゆりは小さく首を振り、戸惑いを隠せない声で答える。
「……分からない。けれど、あの機体を見たとき……自然とそう、声に出していた」
紫藤はその響きを胸の奥で反芻する。
「ドール……」
未知の言葉が、得体の知れない不安と重く絡み合っていく。
夜風が吹き抜け、金属が擦れるような音が近づいてくる。
ユユの身体が回転し、玄関側へと滑るように移動する。
「シドウ、気をつけて。――あれは、敵よ」
しおゆりがそう告げると、紫藤は無言で頷いた。
そして二人とも玄関へと移動する。
玄関の隙間から覗くと、黒いシルエットがギシギシと音を立てながら近づいてくる。
その脚取りはぎこちなく、それでいて獲物を狙う猛獣のような執拗さを孕んでいた。
「……来るぞ」
紫藤の喉がひきつった声を漏らす。
影はゆっくりと紫藤宅の敷地へと足を踏み入れる。
砂利が不自然に鳴り、庭の闇がその異形を迎え入れた。
その瞬間、ユユが玄関を飛び出した。
即座に両側面を展開し、金属が擦れる鋭い音を響かせる。
赤いセンサーランプが敵を捕捉し、威圧的な声が夜気を震わせた。
「警告! それ以上の立ち入りを禁ずるでアリマス!
あなたは住居侵入罪に該当――ただちに後退を!」
しかし、赤い目の人形は無言のまま、ぎこちない動作でさらに歩を進める。
その刃に変形した腕が月光を反射した瞬間――
「……対象、敵性と判定。攻撃開始でアリマス!」
バシュッ――。
二本のワイヤーが唸り、ドールの四肢へ絡みつく。
だが、異様にねじれた関節が不自然な角度で回転し、拘束は難なく振りほどかれる。
「なっ……外れた!?」
紫藤が息を呑む。
敵の刃が振り下ろされる。
火花が散り、ユユの外殻が抉られるように削られた。
「ご主人、後退でアリマス――!」
ユユが必死に声を上げる。
その瞬間、しおゆりが一歩前へ出た。
目のレンズが光り、戦術データが彼女の視界に次々と浮かぶ。
「ユユ、左足関節が弱点。関節稼働域を超える角度で拘束して!」
「了解でアリマス!」
ユユは転がるように敵の懐へ潜り込み、ワイヤーを再射出。
今度は左足へ絡みつき、ぎゅうっと締め上げた。
きしり、と金属の軋む音が響き、ドールが一瞬よろめく。
だが赤い目がぎらりと光る。
機械の悲鳴のようなノイズを撒き散らし、力ずくで反撃を始める。
「しお! こいつ……普通じゃない!」
紫藤の声が震える。
しおゆりは冷静に答えた。
「……分かってる。これはただの斥候機じゃない――戦闘用個体よ」
夜の庭に、鋼鉄と電撃がぶつかり合う音が響き渡った。
ユユのワイヤーが極限まで引き裂かれるような抵抗を受け、悲鳴のような高音が走る。
「ユユッ!」と紫藤が叫び、球体が転がされて亀裂が入る。外殻から火花が飛び散った。
「ご主人……防御、継続困難でアリマス!」
低い電子声が漏れる。
紫藤が駆け寄ろうとするその時、ドールの視線が彼を捕らえた。
身を縮める間もなく、影が割り込むようにして――しおゆりが紫藤の前に立ちはだかった。
金属同士がぶつかる鈍い衝撃。火花が飛び、装甲が裂ける。
「下がって!」
しおゆりが叫ぶ。
「シドウに触れさせはしない。ユユ、まだ動ける?」
「予備電源へ切替、稼働率37%! 行けるでアリマス!」
「いい子。左後方へ回り込みなさい。私は正面を押さえる」
ユユが脚を絡め、しおゆりが正面を固める。
紫藤は庭の隅に立てかけてあったスコップを掴み、震える手で振り上げた。
「俺だって……守られてばかりじゃいられない!」
その渾身の一撃は、金属の重い響きを庭に刻んだ。
ガンという鈍い衝撃が伝わり、ドールの頭部が揺れる。赤いセンサーが一瞬だけ明滅する。
「……まだ、動くのかよ……!」
紫藤が息を呑む。
ドールは呻くようなノイズを撒き散らし、なおも立ち上がろうとする。だが、三人の意思が束ねられた瞬間――敵の動きは確かに鈍った。
――やがて、最後の一撃が決まる。
重い音が石畳を震わせ、頭部が地面に叩きつけられた。赤い光が揺らぎ、やがて消える。
「……やったのか……」
紫藤は荒い息を吐いた。
ユユが確認する。
「敵機、動作停止。稼働率ゼロを確認でアリマス」
しおゆりは短く頷いた。
「……終わった」
束の間の静寂が訪れた。だが、そこに不穏な小さな閃きが忍び寄る――
バチッ、と異様な電気音が響き、停止したはずのドールの関節が痙攣した。
頭部のセンサーに赤い光が再び走る。
「なっ……!?」
紫藤の血の気が引く。
壊れた外殻から火花を散らしつつ、ぎこちない動きでドールがよみがえる。
「不可解挙動! 稼働率ゼロから再起動――説明不能でアリマス!」とユユが叫ぶ。
「そんな馬鹿な……!」
紫藤の声は震えた。
しおゆりの表情がひきしまる。
「……自己修復機能……そんなの、“黒百合”にしか……」
夜の庭に、再び金属の軋む音が広がった。
安堵は跡形もなく消え、ただ異様な恐怖だけが残った。




