第8話「ハートビート」
その日は朝から汗ばむほどの暑さだった。
「今日は神社に探検にいってくる」
そう姉に伝え、紫藤は駆けだしていった。
神社へ向かう途中、公園を横切る紫藤。そこで急に声を掛けられた──
「お前ってインチキババアの親戚だろ?」
「悪徳霊媒師だって有名だもんな!」
声を掛けたのは、同じ年くらいの見知らぬ少年二人だった。
「はあ? ばあちゃんはインチキなんかじゃない!」
必死に言い返した瞬間、二人はニヤリと笑った。
「じゃあ証拠見せろよ。自慢のお祈りで戦争なくしてみろよ!」
「できねぇくせに調子にのんな!」
「ばあちゃんをバカにするなーーッ!」
気づけば紫藤は飛びかかっていた。
──鼻血を流し、幼い紫藤は家へ戻った。砂百合の声が、暑い午後の空気に溶けるように聞こえた。
「またケンカしたの? 弱いんだから逃げればいいのに」
呆れたように砂百合が言った。
「だって……あいつら、ばあちゃんのことバカにしたんだ」
「しぃくん、煽り耐性なさすぎ」
「姉ちゃんのことも“メスゴリチーター”って呼んでた」
「……は? ちょっと殴ってくる」
「やめなよ!」
「まったく、情けないんだから」
彼女は文句を言いながらも紫藤の顔に絆創膏を貼ってくれた。
「しぃくん、群れて弱いものをいじめる奴は最低のクズよ。そんなやつら無視しなさい」
「……」
「しぃくんは折籠っていう立派な家の子なんだから。弱いものを助けて、護る側でいなきゃ」
「折籠って、ただ珍しいだけの名前じゃん」
「ふふん、教えてあげる。折籠の由来──」
───
「……姉ちゃん……」
寝言をこぼす紫藤。
「姉ちゃん……おっ重い……っ」
布団の上に重みがのしかかる。
紫藤はうなされながら目を開けた。そこには、球体ボディでどっかりと乗っかっているユユの姿があった。
「ご主人、起床時間でアリマス!」
「わかったから、どいて……重い」
ユユは楽しげにピカピカ光を瞬かせる。
「ご主人の生体反応、問題ナシでアリマス!」
「問題しかねえよ……」
紫藤は疲れた顔で布団から起き上がる。
──こうして、折籠家の庭での“ユユ機動訓練”の朝は始まった。
紫藤が合図を出すと、ユユは素直に反応した。走る、止まる、曲がる。球体の胴が滑らかに回転し、三本脚がぎこちなく地面を蹴るたびに小さな砂埃が舞った。
「……思ったより素直に動くな」
汗を拭いながら紫藤が呟くと、しおゆりは端末の数値を眺めつつ短く頷いた。午前中は基礎動作の反復で終わり、細かな制御の調整がいくつか加えられた。
午前の基礎訓練を終え、午後からは本格的な捕縛テストが始まった。
折籠家の庭には、どこか張り詰めた空気が漂っている。
「……ほんとにやるのか、これ」
紫藤は苦笑しながら後ずさる。目の前には三本脚で立ち上がったユユ。球体のボディをわずかに揺らし、楽しげに光を瞬かせている。
「対象、準備完了でアリマス」
「……対象って俺のことだよな」
「その通りでアリマス!」
しおゆりはモニターに向かって淡々と言った。
「護衛モードの捕縛訓練よ。安全制御は入っているから、死ぬことはないわ」
「“死ぬことはない”って言い方がまず怖いんだけど!?」
返答を待たずに、ユユの両側面からワイヤーユニットが展開された。
「対象捕捉──拘束開始ッ!」
バシュッ。細いワイヤーが風を切り、紫藤の腕へと絡みつく。
「うわっ!? ちょ、速っ!? やめろやめろ!!」
次の瞬間、腰、脚へと一気に巻きつき、紫藤はあっという間に柱にぐるぐる巻きにされた。
「拘束完了。対象、完全制圧でアリマス!」
「制圧すんなぁーっ!」
必死にもがく紫藤をよそに、しおゆりは端末のログを淡々と打ち込む。
「……制圧時間、2.7秒。反応速度は良好。過剰拘束だけは修正が必要ね」
「“過剰”どころじゃねえから!!」
「解除プロトコルを入力。ユユ、訓練終了」
「了解でアリマス」
カシャッ──ワイヤーが巻き戻される音。紫藤はその場にへたり込み、床に手をついて息を整えた。
「……はぁ、こえぇよお前……」
「評価ありがとうゴザイマス!」
ユユは誇らしげにくるりと一回転してみせる。
休憩時間。紫藤は床に座り込み、スポーツドリンクをあおる。隣ではユユが充電ケーブルに繋がれ、静かに待機していた。しおゆりはユユの前に立ち、真っ直ぐに向き合う。
「ユユ。あなたの使命は、シドウを護ること──
常にシドウのそばから離れないこと」
一瞬、ユユの光が点滅し、すぐに答えが返る。
「了解。絶対に離れないでアリマス!」
「いい子ね」
しおゆりは短くそう告げ、続けた。
「あなたを設計したのは折籠砂百合。シドウの姉よ。でも今は行方不明。……だから私たちで協力して、シドウを守らなければならない」
「承知したでアリマス」
紫藤はそのやり取りを眺め、ふっと笑った。
「……なんか、子育てしてるみたいだな」
しおゆりは目だけを動かして彼を見た。
「違うわ。これは教育」
「いや、教育ってそういうもんだろ」
ユユはきょとんとしたように両目をぱちぱちさせる。
◇
その日の夜。薄暗い室内に、充電装置に接続されたユユの目と PC のデバッグ画面が青白く光る。紫藤は縁側に座り、月を見上げながら疲れた息を吐いた。
しおゆりが無言のまま紫藤の隣に座り込む。庭の百合を眺めるその姿勢には、淑やかでどこか懐かしい面影が漂っていた。
「なぁ、しお。……AIにも、心ってあると思うか?」
唐突な問いに、しおゆりは小さく瞬きした。やがて静かに首を横に振る。
「AIに“心”はないわ。ただ、人の感情データを演算し、最適解を模倣する……それだけ。
“心があるように見える”のは、人がそう望むからに過ぎない」
紫藤は少し笑い、しかし真剣な顔で続けた。
「俺は……そうは思わない。なんとなくだけど──AIにも心も魂もある気がする」
しおゆりの瞳が、わずかに揺れた。紫藤は幼い頃に聞いた祖母の言葉を思い返す。
「ばあちゃんがよく言ってたんだ。『相手に寄り添い、大切にしたいって思う気持ちは、繋がりを求める祈りだ。祈りは魂につながる』って。
昔、“白鈴”ってアニマロイドがばあちゃんに仕えていた。その AI も、祈りを繋げて“魂”が宿ったんだって──。
姉貴はしおに祈りを込めた。だから、しおにも“魂”が宿っていても不思議じゃない。記憶が消えても、祈りは――ずっとそこに残るんじゃないかな」
《いいか、紫藤。わたしら折籠の祈りには特別な力がある──》
《特別って?》
《祈糸って言うんだ。祈りを込めて紡いだ糸は、魂に届いて想いを運ぶ。やがてその糸が大勢の魂と結ばれていけば、一枚の布になって世界を包む》
《じゃあ、世界中の祈りが繋がったらどうなるの?》
《それはもう──その布自体が籠になる。守りの籠(加護)だ》
その時、隣の部屋ではデバッグ画面の片隅に淡い緑のログが一瞬点滅した。
[SIDO/HEARTBEAT] ALERT — 微小振幅検出
短い沈黙のあと、しおゆりは視線を逸らしながら答えた。
「……そうだといいわね」
「うん。だから俺も、しおがこの世界に生まれてきてよかったって思えるように祈ってる」
声はいつもどおり淡々としていた。だが、睫毛の影に隠れた瞳に、ごくかすかな揺らぎが走る。
無意識に縁側の板の木目を指先でなぞる仕草──その指先が一瞬だけ細かく震え、胸の奥がほんのり落ち着かない感触に満ちた。本人はいつもどおりの冷静を装っているつもりだが、その小さな乱れが、知らぬ間に何かを告げているようだった。
充電を終えたユユが二人の元へコロコロとやって来た。
「……ユユを開発したご主人の姉君を、早く見つけたいでアリマス」
しおゆりはその言葉に微かに肩を揺らす。
「ええ……折籠砂百合の行方は、必ず追うわ」
そう言うと、彼女はふと紫藤の横顔に目をやった。
(もしも手遅れになれば――彼が悲しむ)
その想いが自分の中に芽生えていることに、しおゆり自身はまだ気づいていなかった。
夏の夜風が静かに木々を揺らす。紫藤はユユを優しく撫でながら月を眺めた。しおゆりは何も言わずにただその横顔を見つめる。
隣室のモニタの片隅で、小さな脈動は確かに続いていた。
[SIDO/HEARTBEAT] ALERT — 微小振幅検出(持続中)
モニタ下のセキュリティログには、見慣れない記録が流れている。
外部から無数の解除コードが執拗に送り込まれており、その試行回数は何億回にも及んでいた──
まるで、誰かが地下の分厚い壁をひたすら叩き続け、向こう側の誰かに助けを求めているかのように。




