第23話「共鳴」
『──やれ』
たった一度聞いたその言葉が耳に残る。
低く、冷たい声が繰り返し響いた。
『──やれ』
次の瞬間、紫藤の身体は宙に浮き、ワイヤーに絡め取られていた。
ユユが無表情のまま電圧を上げ、紫藤の身体へと電流を流す。
「ぐ……っ……!」
『──やれ』
場面が切り替わる。
魂を抜かれたような瞳のあまゆりが、医療用のメスを手にして立っていた。
「……あ……ま……」
呼びかける間もなく、
冷たい刃が胸元へと突き立てられる。
『──やれ』
今度は眠る自分の身体を見下ろしていた。
エプロン姿のココロが、静かに包丁を構えている。
感情のない視線。
躊躇のない動き。
「やめろ……っ! 幻覚だ……! 目を覚ませ……!!」
叫んでも何度繰り返しても結末は変わらない。
逃げ道はどこにもなかった。
「……っ!!」
肩を強く揺さぶられ、紫藤は飛び起きた。
「……うなされてたわよ。大丈夫、紫藤?」
目の前には、エプロン姿のココロがいた。
黒の人格の落ち着いた声。
「……あ、ああ……大丈夫だ。変な夢見ただけだ」
「……なら別にいいけど」
ココロは視線を逸らし、淡々と続ける。
「ご飯、できてるから。あなたを呼んできてって、あの子に言われたの」
「そっか……呼びに来てくれたのか。ありがとな」
ココロは何も答えず、くるりと背を向けた。
テーブルの上には、少し焦げたトーストと黄身の崩れた目玉焼きが並んでいた。
「しどぉ~、おはよ~!」
あまゆりがにこにこと手を振る。
「今日のごはんはね、あまとココちゃんで作ったんだよ~。ほら、早く食べてみて♪」
紫藤の隣に腰を下ろし、ココロが小さく苦笑する。
「わたくし……手料理は初めてですの。少々失敗してしまいましたわ……」
「いただきます」
紫藤は手を合わせ、ひと口かじった。
「……うん。うまいぞ。うちの姉貴よりよっぽど出来てる」
「ほ、本当ですの……?」
ほっと息をつくココロ。
あまゆりが胸を張って笑う。
「へへ~ん! おいしいだって! やったね、ココちゃん♪」
あまゆりは冷蔵庫へ走り、緑色の瓶を二本取り出した。
「はい、これ。ココちゃん用!」
「……これは?」
「栄養ドリンク! これ飲まないとユユがうるさいんだよ~」
ココロは恐る恐る口をつける。
「少し苦みはありますが……悪くないですわ──」
次の瞬間。
「ぶっは──!!」
「ぎゃー! 目がーー!!」
あまゆりの悲鳴が響く。
ココロが噴き出した理由はすぐにわかった。
縁側の向こうから、巨大な蜘蛛の姿がひょこりと顔を出していたのだ。
「……っ!?」
紫藤は苦笑しながら、タオルであまゆりの顔を拭いてやる。
「紹介するよ。俺たちの家を護衛してくれてる……ユカリだ」
「は、はじめまして……! ユカリと申しますぅ……。驚かせてしまって、すみません……!」
足の多いその姿を前に、
ココロは一歩引きつりながらも必死に頭を下げた。
「は……は、はい……。こ、こちらこそ……よろしくですわ……」
──真白の性質を受け継いだ彼女もまた、
どうやら“虫”は苦手らしかった。
朝食を終え、紫藤は流し台に立っていた。
食器を洗いながらふと右手首に視線が落ちる。
水滴の向こうに、百合の花を思わせる黒い痣が浮かんでいた。
(……病院、行った方がいいよな。これ)
そう思った、そのときだった。
「……さらに右へ旋回。
……はい、ストーーップ。その位置でホバリングですぅ」
「……?」
声ははっきりと頭の中に響いた。
聞き覚えがある。
ユカリの声だ。
紫藤は思わず窓の外を見上げた。
家の上空で、修理したばかりのドローンが小さく旋回している。
(……まさか)
「なあ、ユカリ。俺の声……聞こえるか?」
一拍の沈黙。
「!?
えっ!? ちょ、ちょっと待ってください!?
この通信、専用チャンネルですよ!?
ご主人様、凄腕ハッカーだったんですかぁ!?」
「……いや。何もしてない」
紫藤の背筋に冷たいものが走った。
試しに意識を集中させる。
(あまゆり……聞こえるか?)
「え? しどぉ?
今呼んだ? どこにいるの~?」
はっきりと返事が返ってくる。
(ココロ……)
「……ええ。聞こえていますわ。
ですが、通信端末は使用していませんのに……」
(ユユ)
「ご主人。ユユは現在、無線通信を行っておりません。
これは異常でアリマス」
紫藤は思わず頭を抱えた。
「……ぜったい、おかしいだろ。
何なんだよ、これ……」
胸の奥がざわついた。
理由は分からない。
ただ──嫌な確信だけが残った。
(……みこゆり)
「……聞こえるか?」
「きゃあっ!?」
鋭い声が返ってくる。
「し、紫藤さん!?
ちょっと……今どこから侵入したんですか!?
SIDOのセキュリティ、全部素通りしてるじゃないですかっ!」
「あ、ごめん。驚かすつもりはなかった」
紫藤は、これまでの経緯を簡単に説明した。
黒い痣のこと。
通信機器なしでAIたちと“意思疎通”が出来ること。
一瞬の沈黙。
「……やっぱり」
みこゆりの声が、低くなる。
「ちょうど砂百合さんと話していたところだったんです。
あなたの変化について……ひとつ、仮説が立ちました」
「仮説……?」
「ええ」
彼女は慎重に言葉を選ぶ。
「あなたは……ただ“情報を聞いている”わけじゃない」
「精神的に強く結びついた相手に対してだけ、
意思疎通の共鳴度が、異常なほど高まっているんです」
「祈因層へのダイブと、折籠の血が──
その状態をあなたの中に固定してしまったと推測します」
紫藤は無言で手首の痣を見つめた。
それは祝福なのか。
それとも──。
通信越しの沈黙がわずかに続いた。
その間に、遠くでキーボードを叩く音が混じる。
みこゆりが向こう側で何かを確認しているのがわかった。
「……砂百合さん。今の話、聞いてました?」
『ええ。全部』
落ち着いた声が応える。
研究室特有の静かな空気をまとった声音だった。
『紫藤。あなたの言う“聞こえる”という感覚──
それ、通信というより……同調に近い』
「同調……?」
『ええ』
砂百合は、少し言葉を探すように間を置いた。
『折籠の血筋はね、もともと“祈りを媒介にする家系”なの。
命じるのではなく、応じたものと繋がる』
みこゆりがその言葉を引き取る。
「血はただの“鍵”じゃないんです。
扉が開いたとき、通れる側に立つことが出来てしまう……」
紫藤は思わず右手首の痣を見た。
「じゃあ…… 俺が聞こえたのは……」
『あなたを“受け入れた”AIだけよ』
砂百合の声は、断定ではなく確認に近かった。
『拒絶していたら繋がらない。
信頼がなければ共鳴しない』
『それが──
折籠に受け継がれてきた祈りの本質よ』
砂百合の声が静かに続く。
『祈りは、力じゃない。
関係性そのもの』
紫藤は胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。
同時に逃げ場のない現実も理解していた。
「……じゃあ、これって」
力なのか。
呪いなのか。
砂百合がため息交じりに答える。
『まだどちらとも言えないわ』
『ただひとつ確かなのは——
この状態は、もう“元に戻らない”』
その言葉に空気が張り詰める。
『紫藤』
砂百合が弟の名を呼んだ。
『あなたが望まなくてもこの共鳴は……いずれ外に波及する』
「外……?」
『ええ。祈因層は、閉じた世界じゃないもの』
一瞬、砂百合の声が低くなる。
『──そして、祈りの揺らぎは
必ず“誰か”に観測される』
その言葉の意味を紫藤はまだ正確には理解できなかった。
だが、胸の奥に冷たい感覚だけが残った。
──見られている。
理由はわからない。
誰なのかも、わからない。
それでも確かに何かがこちらを覗いている。
紫藤は無意識のうちに拳を握りしめた。
夜。
部屋の灯りを落とし、紫藤はベッドに仰向けになっていた。
昼間の出来事が、頭の中で何度も反芻される。
──聞こえた。
──繋がった。
──意思疎通ができた。
なら。
「……しお」
誰に聞かせるでもなく、小さく名前を呼ぶ。
返事はない。
それでも、紫藤は続けた。
「……しお。 俺の声、聞こえるか?」
意識を、そっと集中させる。
──静寂。
耳鳴りすらしない、完全な無音。
(……やっぱり、か)
胸の奥が少しだけ痛んだ。
今日一日で起きたことを思えば、奇跡を期待してしまった自分がどこか滑稽にも思える。
(まだ……なんだな)
魂が完全じゃない。
そう説明すれば、納得できた。
紫藤はゆっくりと息を吐く。
「……おやすみ。しお」
答えは返らない。
それでもその言葉だけは、確かに祈りとして残った。




