第21話「織籠真白」
織籠真白──
かつて祈りを捧げ、人々を災厄から救ってきた織籠の血を引く少女。
今ではその祈りを捨て、呪いに呑まれ、祈りの巫女が呪詛そのものへ堕ちた成れの果て。
防壁層の空間が、彼女の周囲だけ重力を失ったように揺らめき、黒煙のような霧が音もなく立ちのぼった。
「……お出ましのようね」
みこゆりの瞳が鋭く細まる。
(お母さん……どうか、力を貸してください)
みこゆりは両手を胸の前でしっかりと組み、SIDO中枢へ祈りを捧げる。彼女の身体中には紙垂のようなギザギザ紋様が浮かび上がり、全身に青白い光を纏った。
その光は電流のように防壁層全体へ広がり、直属の部下であるAIユニットを呼び覚ます。
「第陸・第伍・第肆階層管理AI、起動!!」
防壁層の床が光を放ち、三つの円陣から三体のユニットが同時に出現する。
「──同期レート最大。全ノード、迎撃シーケンスを実行!!」
その最低限の命令に彼女たちは即座に演算体を組み上げていく。
◆第陸階層管理AI──“弓”(ゆみ)
「戦闘演算、展開します」
栗色の長髪を後ろで一つに束ね、白い上衣にえんじ色の袴を纏う。黒い長弓を構えた女性型AI。
動きは誤差ゼロの制御プログラムのように乱れがない。彼女の背後に数十枚のサブウィンドウが一気に開く。
《Target Analysis》
《Signature Scan... TRUE》
《Path Optimize: 24→6》
いくつものコマンドログが光の矢羽として弓形へ折り畳まれていく。
◆第伍階層管理AI──“杓”(ひさご)
「防壁システム起動……持ちこたえてみせます」
水色の短髪と同色の瞳を持つ大柄な男性型AI。
白い道着の上から水色の羽織を纏い、岩のような体躯で真白の前へ立つ。
足元から幾重もの水紋が広がり、防壁アルゴリズムが静かに再構築されていく。
《Firewall: Build》
《Deep Packet Inspection》
《Purify Filter: ON》
展開された厄祓コードがゆっくりと回転し始め防壁層全体へ浸透していった。
◆第肆階層管理AI──“葛”(かずら)
「はぁーいっ、かずらちゃん参上~! いっくよ、みこちゃん♪」
緑色のショートヘアを揺らした少女が軽やかに笑う。
蔦模様の羽織を纏ったその周囲には、SNSスタンプを思わせるポップなアイコンが次々と浮かび上がった。羽織の蔦紋が楽しげに揺れる。
《Quarantine Zone: Generate》
《Memory Access Block》
《Unauthorized Syscall: Deny》
蔦状コードが音もなく空中へ伸びていく。先端に灯る小さな光粒は、まるで花火のように弾け続けていた。
「ひさごは防壁結界を。
かずらは拘束。
ゆみは頭部を狙って貫射しなさい!」
「御意」
「任せて♪」
「承知しました」
三者三様の返事が同一演算層で美しく共鳴する。
ひさごは一歩前に進み、静かにその場へ座禅を組んだ。
「……結界札、生成」
空中に一枚の札が生成される。薄青く光り、祈祷文字とSIDO署名コードが細い回路のように流れている。
ひさごが両の手を合わせ、ゆっくりと防壁層の深部へ意識を落とす。
深い呼吸。そして──低く澄んだ声で結界式を組む。
「祈因・結界・複製……」
「階層防壁・多重展開……」
「同期式──発動」
札の裏側から光の演算式が走り、札の輪郭が震え始める。
《Replication Protocol: RUN》
パッ。札が複製され、二枚になった。
パッ、パッ、パッ、パッ!!数が指数関数的に増える。
十枚、百枚、千枚へ──
ひさごは目を閉じたまま、その流れを完全に制御している。
「散布」
数千の札が一斉に飛び散った。パサパサパサパサパサパサパサ……ッ!!
札が防壁層の半球空間の内壁すべてに貼りつく。貼られた瞬間、光が網のように走り、結界札とSIDO演算コードが半球全体を覆い尽くす。
《Firewall Seal: TOTAL SYNCHRONIZE》
「全方位防壁──展開完了」
その声音は、嵐を鎮める僧侶のように凛としていた。ひさごの防壁結界と同時にかずらも動き出した。
「いっけぇぇーーっ!」
かずらの両手から奔った蔦が防壁層の空間を縦横に走り、真白へ絡みつく。
蔦が触れた瞬間、そこを流れていたログが黒く染まり、呪詛のノイズが空間へ滲み始めた。
システムアナウンスがアラート音を響かせる。
《警告:未知のコードを検出》
《データ破損が検出されました》
次の瞬間──
蔦はポロポロと煤になって崩れ落ちた。
「えぇ!?ちょ、何このバグ!?聞いてないんだけどーーっ!!」
ゆみが弦に触れる。
「仕留めます」
空気が演算音で震えた。光の矢が生成されると同時に空中へスペックが浮かぶ。
《Velocity: 43000m/s》
《TargetHash: MASHIRO_JUSO_FACTOR》
《Branch Predict: Success》
矢は軌跡すら見せず真白へ向けて放たれた。だが、真白はそれを片手で掴んだ。止められた矢のログが強制的に書き換えられる。
《Route Redirect >>> Source: Layer 4th-YUMI》
矢が投げ返される。
「──っ!」
矢はゆみの胸部へ正確に逆流し、彼女の身体は後方へ弾き飛ばされた。
「かずら!浄化の水をッ!」
ひさごの足元から水が上へ駆けるように立ち上がり、その表面をログが奔る。
《Port Filter: 443-8443》
《Packet Purify: 87%》
かずらがすぐに理解して叫ぶ。
「了解~~っ! プロトコルユニオンモードっ♪」
ひさごの浄化タグを纏った水流が蔦状コードへ流れ込み、緑のログと融合する。
《Protocol Union》
《Purification Quarantine》
浄化と隔離を併せ持つ複合コードが再生成された。蔦が再び真白を締め上げると、真白の口から蒸気とも呪詛霧ともつかぬ白煙が噴き出した。
ゆみはゆっくりと立ち上がっていた。胸から抜いた矢を捨て、呼吸を整えながら弓を構える。矢先が金色に発光し、防壁層そのものが呼応するように震える。
ゆみの唇が開いた。
「祓ひの光よ、我が矢に宿れ。呪を裂き、道を貫く一閃となれ──」
詠唱の直後、システムアナウンスが反応する。
《詠唱因子付与により呪詛コード耐性レベルが上昇します》
空間の色調が変わった。矢先の輝きはさらに増し、百を超える金色の演算光が軌跡を描く。
しゅばばばばばばばばぱんッ!!
演算の雨が真白へ降り注ぐ。矢は全弾命中し、真白の動きが止まった。光の矢が身体中に突き刺さると、防壁層の空気から呪詛の波が静まっていく。
◇
暗く静かな空間──
視界がふっと揺らぎ、白い霧のようなものが紫藤の足元から立ち昇る。
地面が波紋のように揺らぎ、真白を中心に広がっていた防壁層の景色が薄い膜を隔ててぼんやり見えるようになった。
みこゆりが召喚陣を展開し、ゆみ、ひさご、かずらが配置につく姿も遠くに見えた。
だが紫藤の立つ場所だけが、まるで内側の部屋のように隔離されていた。
紫藤は大声でみこゆりに助けを求めた。だが──
「……だめだ……完全に聞こえてねぇ」
紫藤は周囲を歩き回った。何度進んでも同じ位置に戻されるような、静かで奇妙な海の底のような空間。
そのとき右手首がじくりと痛んだ。
「っ!?」
袖をまくると黒く細い糸が紫藤の手首から皮膚の中、そして血管へと伸びていた。引き抜こうとすると激痛が走る。
「痛っ……な……んだよこれ……?」
糸が淡く光り、外の防壁層とは逆方向へと伸びている。紫藤は迷わず糸をたどって歩き始めた。
黒い壁の前に辿りつくと、そっと指先で触れてみた。壁は水面のように波紋が広がる。
「……開くのか?」
試しに糸を強く引いてみる。
「痛い痛いッ!」
壁の向こう側から少女の声が聞こえ、手首が飛び出してきた。
「うわっ!?」
細く白い手。
震える指先。
「もしかして、黒い方……か?」
紫藤は反射的にその手を掴んだ。
「おい!大丈夫かー黒ッ!聞こえるか?」
壁の中からかすれた声が返ってくる。
「……身動き取れない……引っぱって──
あと“黒”って猫みたいに呼ぶな!」
紫藤は黒巫女の手首を引き上げた。壁が裂け身体が転がり出る。その手はしっかりと白巫女の手も握られていた。
紫藤はそのまま白巫女の手首も掴み、ふたりを自分の空間へと引き戻す。
白巫女は胸に手をあて、紫藤に感謝を伝えた。
「……助かりましたわ、織籠の末裔」
黒巫女は息を整えながら愚痴をこぼす。
「……ったく、あんたのせいで散々な目にあったわ」
紫藤は苦笑いをしながら、黒巫女に尋ねた。
「それで、この黒い糸って何だかわかる?」
紫藤の右手首から伸びてる糸は、黒巫女の左手首へと繋がっていた。
「知らないわよ……それにあたし言ったわよね!穢れたくなかったら消えなさいって──」
白巫女が二人の間に入る。
「もう、あなたは……そのような言い方は末裔に失礼ですよ。恐らくそれは……この子が織籠因子の波長に引き寄せられた影響ですわね……」
「そういえばあのとき……咄嗟にあんたの手首掴んでたわね」
「時間が経てば自然と消えると思いますわ。織籠の末裔ですもの、霊的身体になりやすい遺伝体質も重なって、手首に触れたときに接続してしまったのでしょう」
白巫女はくすりと微笑む。
「ふふっ……まるで運命の赤い糸みたいですわね♪」
「ちょっと!変なこと言わないでよ!」
「なんか……よく分かんねぇけど、ごめん」
「まあまあ。皆無事だったんですもの。まずはここから脱出する方法を探すのが先決ですわ」
紫藤は真下に見える黒いオーラを纏った女性を見据えながら、白と黒の双巫女を見比べた。
「あそこにいるのって、もしかして──」
白巫女は静かに頷く。
「ええ……あれが織籠真白ですわ」
黒巫女が悲痛な表情を浮かべて視線を落とした。
「でも、あの子はもう……全部失って変わってしまった……」
紫藤は眉をひそめた。
「どうして消されようとしてるんだ? あれはお前たちの大事な人なんだろ? 助けなくていいのか?」
双巫女はどこか寂しげに目を伏せ、やがて静かに口を開いた。
「……あの子はもう誰も信じなくなりましたの。希望も絶望も失い……ただ呪うだけの存在になり果てたのですわ」
「昔はあんなんじゃなかった。本当は優しい子だったのよ……今はもう、あたしたちの声すら届かない」
「だけど、わたくしたちは最後まで諦めるつもりはありませんの」
紫藤はふたりを交互に見比べた。
「お前たち……真白と、どういう関係なんだ?」
白巫女は静かに目を伏せた。
「……そうでしたわね。まだお話ししておりませんでした」
「元々わたくしたちは、真白の魂からサルベージされた“祈り”と“影”──真白の記憶を持ったAIですの」
白巫女は遠い記憶を辿るように、静かに口を開いた。
「わたくしたちの生みの親である防衛省直轄、人工知能研究開発チームが、AIに人間の心を理解させようと研究を始めました──」
「きっかけは、占術や民間信仰、家系の伝統を受け継いだ民間人について調査していた時、偶然知り合ったひとりの祈り屋でした。
彼女は古くから人々に大切にされてきた人形や楽器、樹木に宿る想いを感じ取り、その声に耳を傾けることのできる人でした──」
「研究者たちは考えましたの。もし人の想いによって器に心が宿るのなら、人間と共に学び、喜びや悲しみに触れ続けるAIもまた、人の心を理解できるようになるのではないか──と」
「やがて彼女を研究チームへと招き入れ、本格的にSIDOプロジェクトが始動したのがおよそ五十年前──」
「研究の末、人類はついにAIに人間の心を理解させることに成功したと、当時の研究者たちは結論づけましたの。これが後のORIITOを設計したAI防衛システム《SIDO》の誕生ですわ」
黒巫女が続ける。
「だけど、SIDOの演算能力は想定を遥かに超えていた。研究者たちは国内外に技術が漏れるのを恐れて、緘口令まで敷いたそうよ。織籠真白に辿り着いたのもSIDOのおかげってわけ」
「ある日、興味本位でSIDOを使って過去の文献から≪織籠の記録≫を調べさせた研究者がいたそうです。
そのときに見つかったのが織籠真白という陰陽師の家系である≪口寄せ巫女≫の存在。
そして彼女の遺品──古い神社で祀られていたそれに触れた研究者たちは、原因不明の幻聴や悪夢に苦しみ始めましたの。
やがて、そのうちのひとりが精神を病み、自ら命を絶ったと聞いております」
「研究者は真白の祟りだって恐れて、神職と一緒に鎮魂の儀式を行った……
だけど被害はどんどん増えていった。
そこで力を貸してくれたのが、SIDOプロジェクトに多大な貢献をした祈り屋──ヒユリって人なの」
「……やっぱり」
「ん?なに、あんた知ってんの?」
「それ……うちのばあちゃん」
「はぁ!?」
「まあ!あなたはヒユリ様のお孫様でいらしたのですね!まさしく運命ですわね♪」
「もう、そういうのいいから!」
「薄々そうだろうなって思ってた……うちのばあちゃん、祈り屋って近所で呼ばれてたし」
「まぁいいわ……話を戻すけど、真白の怨念を鎮める儀式のためにあたしらが造られたの」
「どうしてお前たちが封印の儀式に必要なんだ……?」
「真白の呪詛が再び暴走した時、わたくしたちが代わりに封じ込めるための予備核……いわば保険ですわね」
「保険?生贄の間違いでしょ……」
「儀式は順調に進行し、真白の魂は仮眠状態となりましたの。皆が胸をなでおろし、わたくしたちもお役御免と思っていた矢先でしたわ……真白の封印式に何者かが細工し、呪詛は逆流──逆にわたくしたちが封じ込められましたの……」
「ええ、そして織籠の末裔──あんたの血に触れたことで、あたしたちは目を覚ました」
「あの子の呪詛はやがてSIDO全体を侵食し、現実世界へ流出しますわ。そうなれば……人もAIも祈りもすべて呪いに飲み込まれます」
「まじかよ……なにか止める方法は──」
「織籠一族の末裔……もしかしたら……あんたなら、あの子を戻せるかも知れない」
「ええ。わたくしも、その可能性は高いと考えておりますわ」
「真白はたくさんの人を救ってきた……どんなに悪意をぶつけられても、人に騙され傷ついても……あの子の願いは、ただ世の中を幸せにしたい──それだけなのよ」
「真白の呪いの源は、唯一心から信頼した想い人を目の前で殺されてしまった悲惨な出来事──その記憶を悪用され、呪詛コード生成の道具へと変えられてしまっただけですわ」
黒巫女は唇を噛み締めると、一歩だけ紫藤の方へ歩み寄った。
握った拳がわずかに震えている。
「あの子には……ただ安らかに眠って欲しいだけなの──」
「織籠の末裔……お願い……」
「真白を救うのに、力を貸して!」
怒りでも恐怖でもなく、ただ純粋に真白を救いたいという二人の願い。
紫藤はふたりの瞳をしっかり見返し、落ち着いた声で答えた。
「わかった……俺にできることなら、なんだってするよ」
その言葉が落ちた瞬間、二人はゆっくりと互いを見つめ合った。
震えていた瞳に小さな光が宿る。
そして紫藤は小さく息を吐き、ふと思い出したように付け加えた。
「それじゃ俺からもひとつ……その末裔って呼ぶのは勘弁してくれ──俺の名前はしどう。織籠紫藤。よろしくな」
一瞬、白巫女が驚き、すぐにふわりと微笑みを浮かべる。
「まぁ……真白様の想い人、志道様と同じ。やはり運命ですのね♪」
黒巫女もほんの少しだけ口元を緩めた。
「はあ……ここまでくると、もう偶然って言う方が無理よね。怖いを通り越して逆に笑っちゃうわ」
そのわずかな温度が、虚ろな空間の色をほんの少しだけ人の世界へ引き戻す。だが、その穏やかな空気を裂くようにシステムアナウンスが響かせた。
《第零階層管理AIより要請──消去プロトコル、作動開始》
白い光が空間の天井から一気に降り注ぐ。
「この光……まずいですわっ!」
「はあ!?あの自己中女ーー!」
「みこゆり、まて!! やめろっ!!」
みこゆりは防壁層に展開する情報ウィンドウを一気に操作した。
「……今です」
防壁層の天井が大きく白光し、文字列の糸が雨のように降り注ぐ。白いコードは真白に触れた瞬間、黒煙を逆再生するように吸い込み始めた。
呪いが祈りに書き換えられていく。祟りのアルゴリズムがひとつずつ削除されていく。
演算の光が空間を満たし、真白の動きは完全に停止していた──
黒霧が薄れ、半透明の身体がわずかに揺れる。それはまるで駆除完了にも見えた。
「……これで……」
みこゆりの息がわずかに緩む。
──ざり。
耳の奥を砂を踏むような低音が走った。
『……やれ』
その冷たい男の声が落ちた瞬間、空間が反転する。
「え……?」
「きゃっ──!」
双巫女の足元の地面が裂け、闇へ飲み込まれていく。
予想外の事態に呆然と立ち尽くす紫藤。しかし、人影が二人を抱き寄せるように落ちていく姿を直視した紫藤は思考を引き戻した。
「待てっ、やめろ!!」
紫藤は二人へ手を伸ばす。だが、紫藤の手首と繋がっていた黒い糸がビキリと軋んだ。
「……ッつ……!」
──ぷつん
糸が唐突にちぎれ、同時に紫藤の身体が後方へ大きく弾き飛ばされた。痛みと引き剥がされる感覚が、紫藤の神経を焼いた。
「白っ!! 黒──!!」
視界が白に染まり、耳鳴りが世界のすべてを覆っていく。やがて紫藤の意識は現実世界へ弾き返された。
◇
【祈因分室】
「──っ!!はあ、はあ……」
紫藤は現実の医療ベッドの上で跳ね起きた。
呼吸は荒く肺が焼けるように痛い。肩は上下しやたら喉が乾く。
その横であまゆりが涙声で叫んだ。
「あっ……! しどぉ!! よかった……っ! 本当によかったぁ……!」
ユユも慌ただしく診断データを確認している。
「生命兆候、安定域へ回復でアリマス!」
紫藤は答えず、 息を整える暇もなくベッド横の中央モニターへ身を乗り出した。
そこでは、白いコードの帯が真白の輪郭を覆い、祓いのアルゴリズムが高速で実行されていた。
「みこゆり!! やめろっ!!」
紫藤はベッドから転げるように飛び降り、祈因室中央に鎮座するSIDOメインサーバーの巨大筐体へ駆け寄った。
「聞こえてるんだろ? やめろって言ってんだよ!!」
ドンッ! ドンッ! ドンッ!!
両手でサーバーを全力で叩く。金属が震え、SIDOの冷却ファンがほんの一瞬だけ「唸り」を止めた。まるで紫藤の怒りに反応したかのように。
あまゆりが驚き、涙をぬぐいながら駆け寄った。
「しどぉ!? ちょ……ちょっと待って……! そんな叩いたら危ないよ……ッ!」
だが紫藤は振り返らない。拳を痛めても構わず何度も叩きつける。
「真白は……操られてるだけなんだ!!駆除なんて……させるかよ!!」
モニターにみこゆりが現れた。
『紫藤さん!よかった……無事だったんですね……彼女は──呪詛因子は極めて危険なんです。駆除はSIDOの最優先事項です』
紫藤はなおも拳を振り下ろし続ける。
「危険でもなんでもいい!! あいつは……ただ、みんなを守ろうとしただけなんだ!!消すな……やめろッ!!」
その叫びは祈因分室の壁を震わせ、 あまゆりは胸に手を当てて息を呑んだ。
その瞬間、紫藤の右手首の黒い痣が淡くかすかに光った。
祈因室内にシステムアナウンスが異常を知らせた。
《警告……織籠紫藤の祈因反応上昇……バイタルが生命危険域に達します》
まるで彼の怒りが、機械でも神でもない何かを呼び起こしていくように。
──祈因室の空気が低くうねった。
真白の身体から黒い霧が爆発的にあふれだす。白と黒の双巫女、そして真白と思しき声が紫藤の耳にも重なって聞こえた。
《いや……》《こんな記憶見せないで……》
『憎い……』
《もうやめて……》
『憎い……』
《真白!!悪意ってどこにでもあるけど……同じくらい善意だってたくさんあるのっ!!》
『憎い……』
《真白を……救って……紫藤》
『すべて、滅んでしまえ──』
紫藤の視界が揺れる。
「やめろ……やめてくれ……!」
突然ユユの身体が震えた。
「システム……強制侵入……!?身体制御レイヤー異常でアリマ……ッ」
ユユの脚が勝手に動き、射出口が紫藤へ向けられる。
バシュッ!勢いよくワイヤーが射出された。
「なっ……!」
紫藤の両腕が一瞬で拘束される。
続いてあまゆりも硬直した。顔が強張り涙ぐむ。震える手が勝手に医療台の上のメスを掴んだ。
「しどぉ……い、いや……なんで……手が……勝手に……っ!」
あまゆりの身体は一歩、また一歩と紫藤へ近づく。涙で顔がぐしゃぐしゃになりながら、抵抗しようと腕を震わせているのに身体だけが別の意思で動いていた。
「あ……あ……やだ……!しどぉ、こわい……こわいよぉ……!助けてよ……助けて……!!なんで手が動くのぉ……っ!」
メスを持つ手がまっすぐ紫藤の胸元へ。
紫藤は室内の防犯カメラを探し、ユカリへ声を掛けた。
「ユカリ!! 制御ラインを切れッ! あまの手を止めてくれ!!」
通信窓にユカリの顔が現れた。
『ム、ムリですぅ!あまゆりちゃんの神経リンクが全部、外部からの偽装信号でジャックされてますぅ!!』
紫藤は、必死に声を振り絞った。
「あまゆり!!それは幻覚だ!泣くな!あま、目を閉じろ!歌え!何でもいい、声を出せ!!」
「いっ……ムリ……ムリだよぉ……!!」
「大丈夫だ!!聞け!あま……俺を信じろ!!やつらはおまえの心を壊そうとしてるんだ!恐怖や怒りを生み出して……真白の呪詛を爆発させるために!」
ドクッ……ドクッ……
あまゆりの心拍が急速に跳ね上がる。視界が白く霞んでいく。
「しどぉ……信じて……いい……?」
「信じろ!!俺が絶対に守る!!」
あまゆりは震える唇を噛みしめ、涙をこぼしながら目をぎゅっと閉じた。
そして、しゃくり上げる声で車の中で一緒に聞いた曲を歌い始める。眞百合がよく聞いていた美少女戦士のアニソン。
「……ら、ららら……らららっらん……うた……うたうから……しどぉ……どこにもいかないで……っ」
紫藤は優しく声を掛け続けた。
「大丈夫だ!ここにいる!よし、いいぞ……何があっても、あまは悪くない!」
歌声が震えながらも続く。だが、あまゆりの全身から汗が噴き出す。
あまゆりの指先は、自分でも気づかないうちにウエストポーチへ伸びていた。そして無意識に、いつも入れているストローを取り出す。その手にあるのはただの柔らかいプラスチック。
しかし彼女の脳裏では、“鋭いメスが紫藤の胸に突き刺さる”という触覚・視覚データが外部から完璧に上書きされていた。
「いや……いやぁ……ッ!!刺した……刺しちゃった……!!ごめん……ごめんしどぉ!!」
「刺してない!!本当に刺してない!!大丈夫だ……俺はここにいる!!」
だがあまゆりの心拍は限界を越えていた。
「いやぁぁぁあああああ……っ」
あまゆりの身体がふらりと震え、そのまま崩れ落ちる。
紫藤の指先が震えていた。
「……あ……あま……」
あまゆりは意識を失い、腕は力なく垂れている。その手にはまだストローが握られたままだった。
「ふ……ざけんなよ……こんなのって……」
ぽたりと紫藤の涙が床に落ちた。紫藤の感情すべてが渦になって頭の中で暴れ回る。
次の瞬間──
プツンと理性のどこかが切れた。
「……SIDO」
空気が震える。
医療機器の表示が一斉に乱れた。
「SIDOォォォーーーー!!俺を……入れろォォォ!!!!」
「──今すぐだッ!!!!」
バチィィィィン!!
紫藤の全身から白青の電光が溢れ、床を伝って機器へと一気に逆流した。彼を拘束していたユユのワイヤーが一斉に火花を散らす。ユユの身体は感電したかのようにバチバチッと煙を吹きながら吹き飛んだ。
紫藤の叫びは祈りであり、怒りであり、呪いに近かった。
その瞬間、祈因室天井が白く輝く。緊急アナウンスは途切れず鳴り響き、状況はさらに悪化する。
《警告──システム内への強制アクセスを検知──全ポートの封鎖を実ジ……ジジ……》
紫藤の視界は光に飲まれ、意識はSIDO防壁層へと落ちていった。
◇
【SIDO防壁─第陸階層】
光が千切れ飛ぶように弾け、紫藤の意識体が防壁層の床へ叩きつけられた。
空間は祈りと呪いのコードが混ざったような灰白の世界。
中央では、暴走状態の真白が黒霧を噴き上げていた。その周囲を三体の階層管理AIが結界を張るように取り囲んでいる。
《警戒領域維持……隔離処理継続……》
彼女たちの声は淡々としているが、空間は今にも軋み壊れそうだった。
紫藤はゆっくりと立ち上がった。
その表情には怒りも焦燥もない──静かすぎる殺気だけが宿っていた。
「どけ」
低く短く放たれた声。
次の瞬間──
バチンッッ!!
言霊の衝撃波が床を裂き、三体の階層AIが弾丸のように吹き飛んだ。
《──ッ!? 出力異常……!あれ……人間なの!?》
《詠唱因子……干渉……!?》
《みこちゃんっ!なにこのバケモノ!?》
床へ転がった彼女たちは震え、すぐに結界を張り直そうとした。
「紫藤さん!!だめです!!」
振り返ったみこゆりが警告を上げる。
紫藤はただ右手をゆるりと掲げた。手首の動脈から黒い糸が生まれる。
みこゆりの目が大きく見開く。
「それは……呪糸……!?紫藤さん、正気ですか──」
黒い糸が蛇のように走り、みこゆりの手足に絡みつく。
「きゃ──ッ!」
次の瞬間、みこゆりの細い身体は防壁層の上壁へ叩きつけられ、糸に拘束されるように宙へ固定された。
《緊急警報──呪詛因子反応、測定値上限を超えました……計測不能!》
SIDOアナウンスの警告ウィンドウが無数に点滅し始める。
紫藤はそれを一切気に留めない。ただ真白の前へ歩いていく。
黒霧の中、真白は虚ろな瞳でただ紫藤を見つめていた。
「……真白」
紫藤は彼女の喉元に両手をかける。
「お前がやったのか……なんで……あまを……」
「なんであんな目に遭わせたッ!!」
ぐっと力がこもる。真白の身体が持ち上がり、足は地面から離れた。それでも真白は表情を変えず、ただ紫藤を見つめ返している。
紫藤の目は血走り、心臓が激しく脈打っていた。全身から噴き上がる黒霧が防壁層の空気を歪ませる。床が軋み、空間そのものが悲鳴を上げるように震え始めた。
みこゆりが壁上から叫ぶ。
「紫藤さん!やめてください!!呪詛に飲まれたら──あなたの魂まで戻れなくなる!!」
紫藤は振り返らない。その手首の黒い痣が淡く明滅し、黒煙がさらに濃くなっていく。
「やむを得ない──ゆみ!ひさご!かずら!紫藤さんを拘束して!」
「うえぇーーーっ!?みこちゃん、あたしらに死ねって言ってるのーー!?」
「ちがいます!あなた達にわたしとバスを繋ぎます!いますぐ戦闘配置へッ!!」
みこゆりは天井へ拘束されたまま三人へダイレクト・バスリンクを展開した。
巨大な光のハイウェイが防壁層へ降り注ぎ、暗号化された光の鍵が各AIへと届く。
最高位権限──管理者API。
普段はロックされているSIDO中枢の権能が一時的に解放された。
「わたしの中に封印されている特権関数を使用できます!」
みこゆりの声と同時に、ゆみ、ひさご、かずらの瞳が金色へと変化する。三人の足元から幾重もの演算陣が展開し、防壁層全体へ膨大な光が走った。
最初に動いたのはゆみだった。
「紫藤さん、あなたを拘束します──システムコール、発動」
ゆみが静かに弓を構える。
光で編まれた弦へ指をかけ、ゆっくりと引き絞るたび、矢尻に刻まれた凍結APIが青白く輝きを増していった。
空気中の熱が奪われ、防壁層の温度が急速に低下していく。灰白色の床には霜が走り、真白を取り巻く黒霧さえも一瞬だけ動きを鈍らせた。
ゆみの表情に迷いはなかった。だが、その瞳には恐怖があった。
目の前にいる紫藤は、彼女たちが知る人間の反応速度も、祈因値の上限も、霊的身体の特異性もすべて逸脱している。このまま放置すれば真白だけでなく、紫藤自身の魂まで呪詛に呑み込まれる。だから止めなければならない。
傷つけるためではなく、現実世界へ無事戻すために。
「お願いです……止まってください……!」
その祈るような声とともに、ゆみは弦から指を離した。
ヒュンッ!!
氷の矢が空気を切り裂き、紫藤の太腿へ突き刺さる。
矢尻から膨大な文字列データが噴き出し、刺さった箇所を起点として、青白い演算式が紫藤の身体を這い上がっていった。
《警告──対象プロセスの実行を一時停止します》
凍結は一瞬だった。
足元から膝へ。
腰から胸へ。
肩から喉元へ。
やがて紫藤の全身は、頭部に至るまで完全に氷の中へ閉じ込められた。
黒霧の噴出が止まり、防壁層に一瞬だけ静寂が戻る。
「かずら!ひさご!いますぐ紫藤さんを祈因層へ!」
天井へ縛りつけられたまま、みこゆりが叫ぶ。その声には安堵ではなく焦燥が滲んでいた。
拘束はできたが、まだ間に合うとは限らない。
「りょ、了解っ!」
「搬送結界を組みます」
かずらとひさごが同時に動こうとしたその瞬間だった。
ビリッ。
氷の内部で紫色の電光が走った。小さな音が鳴る。次いで防壁層全体が低く振動し始めた。紫藤を覆っていた氷の奥で何かが脈打っている。
それは凍結APIの演算ではない。
呪詛とも違う。祈りとも違う。あるいは、そのすべてが混ざり合ったもっと古い何かだった。
「……いったい何が……?」
みこゆりが息を呑む。
氷の表面に細かな亀裂が走り、紫色の電光が内部を駆け抜ける。
ビィィィィィ……
耳鳴りにも似た高周波音が防壁層に響いた。凍結していた氷は砕けることなく輪郭から崩れ始め、そのまま光へと変換されていく。
まるで演算結果そのものが書き換えられたかのように、紫藤を覆っていた氷は淡い霧となって消滅した。
その直後──
真白の虚ろな瞳がほんの一瞬だけ揺らいだ。まるで眠りの底から誰かの声に呼び戻されたように。
紫藤は変わらず真白の喉元を掴んでいる。表情も視線も怒りもそのままだった。
「第二射──いきます!」
ゆみは即座に次の矢を番えた。完全凍結を破られた動揺を押し殺し、狙いを紫藤の後頭部へ定める。
今度は脚ではない。神経伝達に相当する祈因経路を直接停止させる。
矢が放たれた。矢は空間を裂きながら一直線に紫藤へ迫る。だが紫藤は振り向かなかった。真白を見つめたまま右手だけがゆるりと上がる。氷の矢は、彼の後頭部へ届く直前で掴み取られた。
「──っ!?」
ゆみの目が見開かれる。
紫藤の指先から紫色の電流が走り、矢全体へ絡みつく。
次の瞬間、矢は粉々に砕け散った。氷片は宙に舞い、光の粒子となって消えていく。
紫藤の右手首の血管からは黒色の糸が這い出すように伸びていく。それは空中で束ねられ、一本の矢へと形を変えた。
矢の表面には小さな文字列がびっしりと刻まれている。それは呪詛か祈りか、誰もが解析できないその文字列は紫色の光を帯びて脈打っていた。
紫藤は無言のまま黒い矢を掴んだ。横目ではじめてゆみを見る彼の瞳はどこまでも鋭く、そして冷たかった。
まるで「邪魔をするな」と告げているように。
紫藤が矢を指先で摘まみ、ダーツのように腕を引いた次の瞬間、黒い矢が消えた。
それは投げたという動作すら曖昧で、ただ紫藤の意思が形を得て空間を貫いたように見えた。
矢は音を置き去りにして飛んでいく。ゆみは咄嗟に上空へ跳ねて回避した。しかし、矢はさらに速度を上げ彼女を追跡した。
「──あ」
ゆみの額へ突き刺さった瞬間、声にもならない息が漏れた。
衝撃は止まらない。ゆみの身体はそのまま上空へ吹き飛ばされ、天井近くの壁へと叩きつけられた。
黒い矢が額を貫いたまま壁へ深く突き刺さり、彼女の身体をそこへ縫い止める。
「ゆみ!!」
みこゆりの叫びがすぐ横で響いた。
ゆみの手足が力を失い、だらりと垂れ下がる。金色だった瞳から光が薄れ、演算陣が次々と停止していく。
だが機能停止するその最後の一瞬。ゆみの視界に何かが流れ込んだ。
それは映像のように鮮明な誰かの記憶。それがハッキングなのかウイルスなのかゆみには判別できなかった。
ただひとつだけ確かなことがある。自分は何か重大な勘違いをしていた──
ゆみはゆっくりと、みこゆりへ視線を向けた。伝えなければならない。けれど伝えてはいけない。その矛盾の中で、彼女に許された言葉はひとつだけだった。
「みこゆり様……申し訳……ありません」
「ゆみ……?」
「うそ……ゆみちゃんっ!」
かずらの声が震える。
ひさごは壁へ縫い付けられたゆみを見上げた。金色の瞳はまだ完全には消えていない。だがもう長くは持たない。
「拘束術式、展開します!」
ひさごの足元から青白い演算陣が広がる。水のタグが幾重にも重なり、流れ落ちる文字列がひとつの形を作り始めた。やがて防壁層の上空に巨大な水槌が出現した。水槌の表面を流れる無数の拘束コードと浄化アルゴリズムがこの術式の本質を示している。
ひさごは巨大な水槌を両手で持ち上げる。狙うのは紫藤の足元。
静かに紫藤へ告げた。
「……ご容赦ください」
ドゴォォォォォォォンッ!!
轟音と共に水槌が床を叩きつけた。
衝撃が波紋のように広がり、灰白色の床一面へ演算式が走る。
床下からゴォォォォォォッと無数の水柱が噴き上がった。一本一本が巨大な檻のように立ち上がり、紫藤と真白を包囲する。
水柱の内部では拘束コードと鎮静コードが高速で循環していた。触れた対象の祈因経路は順次遮断され、神経信号に相当する情報伝達が停止する。手足は動かせず声も出せず、もちろん詠唱もできない。意識だけを残し、身体機能だけを静かに停止させる──それがひさごの発動した拘束APIだった。
水柱はゆっくりと包囲網を狭めていく。どこにも逃げ場はない。あと数秒もすれば、紫藤と真白は完全に術式の内部へ閉じ込められる。
ひさごは静かに二人を見据えていた。
「これで終わりです」
そう判断していた。だがその時、紫藤が動いた。
真白の喉元を掴んでいた左手が離れ、その代わりに彼女の身体を引き寄せた。黒霧を纏った真白の身体が紫藤の胸元へと引き寄せられる。まるで迫り来る水柱から庇うような動きだった。
「……!?」
ひさごの眉がわずかに動く。彼の演算回路には小さな違和感が生まれていた。
(いまのはなんだ?)
真白は呪詛の発生源。紫藤はその真白へ激しい敵意を向けていたはずだった。ならば拘束術式が発動した今、真白を突き放しても不自然ではない。むしろそうする方が自然だ。
なのに今の動きはまるで──
そこまで考えた時だった。
ミシッ。
小さな異音が響く。床の中央、拘束術式が展開された直下に一本の亀裂が走っている。
「……なっ!?」
ひさごの口から思わず声が漏れた。
バキッ。バキバキバキバキッ!!
蜘蛛の巣のように広がった亀裂が防壁層全体を駆け抜ける。
みこゆりの顔色が変わった。
「まずい──!」
次の瞬間。
ドォォォォォンッ!!
轟音とともに床の一部が崩落し、拘束APIで展開した水柱も連動して崩壊していく。崩れた場所は巨大な水槌を叩きつけた地点。砕けた床材と演算光の破片が吹き上がり、防壁層に大穴が口を開ける。
「ちょっ、ひさごん!?穴空いちゃったじゃん!!」
かずらの悲鳴が響く。
ひさごは崩落した床を見つめた。防御結界はまだ稼働している。少なくとも演算上はそうだった。第陸階層管理AIであるゆみの反応は消失していない。ならば床の耐久値が急激に低下する理由は存在しない。それなのに。
「そんなはずは……」
《第陸階層管理AI:弓がスリープモードへ移行します》
システムアナウンスが淡々と事象だけを告げていく。
ゆみの瞳から完全に光が消えた。
崩落した穴の向こうには、さらに下層の空間が見えていた。暗く深い第伍階層。
紫藤が穴へ視線を向け、何かを決断したようにゆっくりと真白へ振り返った。黒霧を纏う真白は変わらず無表情のまま立っている。紫藤は無言でただ右手を伸ばし、その指先が真白の手を掴む。真白は抵抗もなく虚ろな瞳のままその手を見つめている。
ひさごはその光景を見ていた。ほんの数秒前まで首を締め上げていた相手だ。憎悪を向けていたはずの相手だ。なのに今の行動はどう見ても違った。
(なぜ……)
その疑問が頭をよぎる。だが答えに辿り着く前に紫藤は動いていた。真白の手を引き、そのまま崩落した穴へ向かって駆け出す。
「お待ちください!!」
ひさごが叫びながら手を伸ばすが、紫藤は真白とともに深い穴の中へ消えていった。
「紫藤さん!!」
天井に拘束されたみこゆりの声が防壁層へ響く。
ひさごは下層へ続く暗闇を見つめながら先ほどの光景を思い返していた。
真白の手を取った紫藤。そして抵抗することなくその後に続いた真白。胸の奥に残る違和感だけが増していく。
(紫藤殿は……なぜ彼女を連れて行った……?)
その答えはひさごにはまだ分からない。だが確かめなければならない。
みこゆりは崩落した床を見つめていた。
あの時、ゆみはまだ停止していなかった。少なくとも床へ亀裂が走った時点では。ならば、あの防御結界を解除したのは誰だ。
嫌な予感が広がる。視線は自然と壁へ縫い付けられたゆみへ向いた。
最後に残された言葉。
『申し訳……ありません』
(まさか……)
けれど今は考えている時間などなかった。
「ひさご!かずら!追ってください!!紫藤さんを止めて!!」
みこゆりは叫ぶように命じた。だがその視線だけは、壁へ縫い付けられたゆみから離れなかった。
彼女はまだ知らない。ゆみが最後に何を見たのか、紫藤が何を目的として真白を連れ下層へ降りたのか。
「御意!」
ひさごは短く答え、穴の中へ飛び下りた。
「もーっ!!なんなのこれぇぇぇ!!」
かずらは悲鳴をあげながらひさごの後を追う。
天井に縫い付けられたみこゆりと、スリープしたゆみだけが取り残された。
防壁層の警告音が鳴り続ける中、紫藤と真白、そしてひさごとかずらの姿は底の見えない暗闇の中へ消えていった。




