第17話「祈りの航路編Ⅱ」―Side Story―
機体を叩く風の音が、
まるで獣の唸り声のように変わっていた。
計器の針が踊り、センサー表示が赤く点滅する。
アポロのフライトシステムが補正をかけても、
突風に煽られた機体は大きく傾き、雲の中を翻弄されていた。
「くっそ! 風圧が強すぎる! これじゃ制御が効かねぇ!」
機体を揺らす衝撃で、しおゆりのコアリンクモニターが一瞬暗転する。
「姿勢制御プログラム、オーバーフローしてるわ。
高度を下げて、乱気流を抜けるのが最優先よ」
「ダメだ、下はもっと危険だ!海面が見えねぇ!」
コンソールの表示が次々と崩れていく。
方位ジャイロは誤作動を起こし、コンパスが狂ったように回転を続ける。
「完全に方角を見失った……
くそ、ラスティア!聞こえるか!?応答しろ!」
ジジジ……ジ……
『……ッ……ロ……風速……四十……電離……干渉……』
ジ──
音声が途切れ、画面がノイズで埋め尽くされる。
「通信、完全に切断された。……アポロ、いったん陸地を探すべきね」
「ああ……俺もそう思う。このまま突っ切ったら、燃料も持たねぇ」
アポロはスラスターを調整しながら、上昇スロットルを軽く押し込む。
黒雲の隙間から、稲光が閃く。
「高度を上げる気? 雷雲の中心に入るわよ!」
「構わねぇ!上から見れば、陸が見えるかもしれねぇだろ!」
その瞬間、稲光が一際強く走った。
轟音が空気を裂き、雷撃がアポロの左エンジンを直撃する。
「ッ……!! 左推進ユニット、焼けた!!」
コックピットに警告灯が乱舞し、
パネルから火花が散る。
「回路がショートしてる!電圧が急上昇──!」
「制御不能ッ……ッくそ、墜ちるぞ!!」
機体がスピンを始める。
アポロは必死に操縦するが、風圧と重力がそれを嘲笑うように機体を引き裂いていく。
「アポロ!姿勢を戻して!アポロッ!!」
「ダメだ……推進が死んでる……!」
エンジンの唸りが止まり、代わりに風を切る音だけが響いた。
機体が急降下し、雲を突き抜ける。
視界に広がるのは――黒く荒れ狂う海。
「くそっ……まだ、墜ちるわけには……!」
エネルギー残量が限界を示し、
コアの照度が一瞬だけ強く輝いた。
――海が、光った。
稲妻が海面を裂き、白い閃光が機体を包み込む。
そのままアポロは雲の底へ消え、
轟音を残して深い闇の中へと墜ちていった。
◇
海は、まるで何事もなかったかのように穏やかだった。
昨日まで世界を裂いていた嵐の痕跡は、どこにもない。
白い雲がゆっくりと流れ、
波の音が、まるで誰かの寝息のように静かに寄せては返していた。
その静寂の中で――微かに、声が聞こえた。
「……おき……さい……ロ……アポロ!」
遠くから呼ばれるような声。
音はゆらぎ、潮騒と混ざり合って、やがてはっきりと耳に届いた。
「――アポロ、起きなさい! 丸焼けになりたいの?」
──ピッ
≪システム起動……自己診断モード開始≫
≪自動修復チェック完了―― 稼働率98.7%≫
「……んぁ? ん、なんだ……朝か……?」
ゆっくりと視界が明るくなる。
太陽の光が眩しい。だが――身体が動かない。
「……おい、なにこれ。動けねぇぞ?」
機体の腹部を見下ろすと、
自分のフレームが太い縄でぐるぐる巻きにされていた。
足元には乾いた木の枝が山のように積まれている。
「……は?」
周囲には十数人の島民たち。
腰布を巻いた男たちが松明を持ち、円陣を組んでいる。
その中央、長老らしき老人が低く唸るような声で何かを唱え始めた。
「ちょっ、おい待て待て待て! なんで俺、焚き付けの真ん中なんだよ!?」
「状況を整理するわ。あなた、完全に“供物”として捧げられてる」
「供物!? 俺は機械だぞ!? たんに落ちただけだ!!」
しおゆりは淡々と応じた。
「でも彼らには、空から降りてきた光る鳥に見えたようね」
「鳥!? 俺のどこが鳥だよ!」
「……羽があるでしょ」
「へりくつ言うな! このままじゃ本当に焼かれる!」
長老が合図を送り、男の一人が松明を掲げた。
火の先が、乾いた枝の山に近づいていく。
「あっあっあっ、やめろって!!火はやめろ!!」
「アポロ、冷静に。ホログラム機能、まだ使える?」
「バッテリー残量……二十パーか。ギリいける!」
「いいわ、即席で“神”を作るの。私の指示通り出力して」
「なんだそりゃ?カップ麺みたいに神をつくるってか!?」
だが火の粉が舞い上がるのを見て、アポロは観念した。
ホログラム投射機を起動し、しおゆりのデータベースから映像素材を引き出す。
光が集まり、空中に女神のような姿が浮かび上がった。
淡い光を纏い、長い髪が風に揺れ、
声はしおゆりの加工音声で響く。
「――恐れることはありません。
わたしは天より遣わされた月の女神。
この者は太陽の神。火を放つこと、許しません」
その瞬間、島民たちはざわめき、
長老が驚愕の表情で松明を取り落とした。
「(小声)……すげぇ、なんか本当に神っぽい……」
「当然でしょ。演算処理、私がしてるんだから」
長老がひざまずき、他の島民たちも一斉に地面に伏す。
祈りの言葉が波音と混ざり、空気が震えた。
「……お、おい。これ、成功ってことでいいのか?」
「ええ、たぶん。少なくとも今のところは」
アポロがほっと息をつく。
太陽が完全に昇り、海面が金色に輝く。
風の匂いは潮と花の混じる甘い香り。
あの嵐の夜が、遠い夢のように感じられた。
「まじで焼かれるとこだったぜ……俺、神様かよ」
「ええ、しばらくは“神様ロールプレイ”を続けてもらうわ」
「マジかよ……俺が──太陽の神、“アポロ神”てか?へへっかっこいいじゃん♪」
遠くから小さな少女が果物を抱えて走ってきた。
供え物の果物を差し出した少女が、ためらいがちに口を開いた。
「トリノカミサマ……タベテ?」
「……え? なんだ今の? 翻訳できねぇ……音声認識エラー?」
「……ヤップ語。ミクロネシア連邦の方言ね。
どうやら、ここは南洋の孤島のようよ」
「ミクロネシア!? それって、地図の端っこじゃねぇか……」
「アポロ。あなたのデータベースには登録されていないみたいね。
言語パッチを送るわ――少し待って」
機体の内部を淡い光が走る。電子音とともに、しおゆりからアポロへ小さなデータ転送が行われた。
「……あっ、今ので意味がわかった。
“鳥の神様、食べてください”って言ったんだな?」
「鳥の神様? 果物食べる?」
「あ、あー……いや、俺は燃料派なんだ、悪いな」
少女はきょとんと目を瞬かせたあと、くすっと笑った。
その笑顔に、アポロのカメラセンサーがわずかに明度を上げる。
「なぁ、お嬢ちゃんの名前はなんて言うんだ?」
「わたしはリリィ。リリィ・ナム」
「リリィか。いい名前だな。俺はアポロ11……いや、太陽神アポロだ!」
「太陽の……鳥の神様?」
「そう、それ! 神様で、ドローンで、ちょっとイケてるヤツ!」
「……自分で言うのね」
リリィが小さく手を叩いて笑った。
その声は、潮風に混じって心地よく響く。
「鳥の神様、明日見せたい。この島にいる神様。洞穴にいるの」
「あなた以外にも神がいるようね……」
「洞穴? おいおい、今度は洞窟探検か? ま、退屈はしなさそうだな」
リリィは嬉しそうに頷いた。
翌日の約束が、ふたりと少女のあいだに、小さな絆を結んだ。
島の北側、潮風の強い断崖の奥。
岩肌に口を開けた洞窟の前で、島民たちは香を焚き、
静かに頭を垂れて祈っていた。
「……ここが“神の眠る洞”ってやつか?」
「うん。おばあちゃんが言ってたの。
むかし、この島を守るために“黒い大蛇の神”が眠ったって……」
洞窟の奥からは、低く唸るような振動音が響いていた。
一定のリズムで響くその音は、まるで心臓の鼓動のようにも聞こえる。
「……違うわね。これは生体音じゃない。
周波数、安定。モーター駆動音よ。人工的な装置の稼働音」
「ってことは……神様の正体、機械かよ?」
アポロはライトを点灯し、洞窟の奥を照らした。
岩に絡みつくように黒いケーブルが幾重にも重なり、
とぐろを巻く蛇のような形を成している。
「おそらくあれは“海底ケーブル敷設機”ね。
もとは海底通信網を構築するために造られた無人機。
台風か何かで流されて、この洞窟に打ち上げられたんでしょう。
電源ラインだけは海底ケーブルと繋がったまま……それで今も、延々とケーブルを吐き出してる」
「つまり――神様は、働き者の機械ってことか。皮肉だな」
「島民が“大蛇の神”と信じたのも無理ないわね。
暗い洞窟内では、機械本体のランプが青白く光るんだもの。
誰だって神秘的に見えるわ」
洞窟の奥では、まだ一定のリズムでモーターが唸りを上げていた。
「これ以上ケーブルが伸びないように、電源は落とさず製造停止ボタンだけ押しておきましょう。電源を切ると、内部回路がショートする危険があるわ」
「了解。……こいつも、ずっと命令に縛られてたんだな」
アポロはゆっくりとアームを伸ばし、しおゆりの指示どおり赤く点滅するスイッチを押した。
わずかに振動が止み、洞窟の奥に静寂が戻る。
「……お疲れさま。もう、休んでいいのよ」
その声は、祈りにも似た柔らかさを帯びていた。
アポロは無言のまま、淡く光る機械を見つめていた。
「……しおゆり、こいつの電力、少し分けてもらってもいいよな?」
「ええ、電圧は安定してる。問題ないわ。
今のうちに充電しておきましょう。明日にはまた飛べるはず」
アポロはアームを伸ばし、ケーブル端子を接続する。
軽いスパークとともに、機体の内部に青い光が灯った。
「……悪いな、神様。少しだけ、神の加護を頂くぜ」
≪POWER LINK:ONLINE/充電率 66%≫
洞窟の中をかすかな風が抜け、ケーブルの渦巻きが小さく揺れた。
それはまるで、大蛇の神が静かにうなずいたようだった。
その日の午後。
リリィは薬草を採りに、山の奥へと足を運んでいた。
海風が強く、湿った岩肌は光を反射して滑りやすい。
「……もう少しで取れるのに……」
その瞬間、足元が崩れた。
リリィの小さな悲鳴が谷に吸い込まれ、
転がる石とともに彼女の姿は崖下へ消えた。
夕刻。
リリィの帰りが遅いことに気づいた家族が、
不安げな表情で長老のもとを訪れた。
「リリィが山から戻らないんです……!」
長老の合図で、島の男たちが灯りと槍を手に集まる。
知らせを聞いたアポロもすぐに駆けつけた。
「鳥の神様も探してくださるのですか?」
「当たり前だ。俺は神様だからな」
アポロは聴覚センサーを最大に上げ、周囲の音を解析する。
波の音、虫の声、風の唸り――その奥に微かな助けを求める声が混ざった。
「……いた。北東の崖の方角だ!」
しおゆりの指示で、アポロが赤外線スキャンを展開する。
映像に小さな人影――岩肌の狭い足場に取り残されたリリィの姿が浮かび上がった。
「鳥の神様……!」
リリィが涙声で見上げる。
「待ってろ、今助けてやるからな!」
アポロは風を切って滑空し、救助作戦が始まった――。
崖の上に到着し、ホバリングモードに切り替える。
機体の下部からロープアームを展開。
「リリィ、掴め!」
「と、届かない……!」
「くそっ、これ以上近づいたらプロペラが岩に当たる!」
「アポロ、洞窟のケーブル。あの長さならここまで届くはず」
「まさか……あれを使えってのか?」
「ええ。あれは海底用ケーブル。強度もある。人ひとり引き上げるくらいなら十分」
アポロは近くにいた島民のひとりに指示を飛ばした。
「おい!そこの青年、俺についてこい」
洞窟の奥、停止した敷設機がまだ微かな熱を帯びていた。
アポロは制御パネルに手をかけ、島民の青年に振り返る。
「大蛇の神様が言ってたんだ。
この体を使って、あの娘を助けなさいってな」
青年の目がわずかに揺れた。
「……神様が?」
アポロが制御ボタンを押す。
≪切断開始します≫
ウィイイン──ボトッ。
鈍い音が洞窟に響き、黒いケーブルが床に落ちた。
「“大蛇の神様”は太陽の光が苦手だ。
だから――頭に布をかぶせてやってくれ。そうすりゃ怒らない」
青年は躊躇いながらも、祭壇の端にあった古布を取った。
ココナッツ繊維で編まれた布を、蛇の頭のようなケーブルの先端にそっと被せ、紐でしっかり縛る。
「よっし、持ってけ。神様の身体を縄としてリリィを助けるんだ」
アポロが告げると、青年は深く頭を下げた。
青年とアポロが戻ってきた。
「リリィ、この縄を下ろすから、きつく体に結べ」
ケーブルを受け取ったリリィは腰に巻き付けた。
「タイミング合わせて……引き上げろ!」
島民たちが声を掛け合いながらケーブルを引き上げる。
風が巻き上がり、海の匂いが強くなる。
リリィの身体が少しずつ宙に浮いた――。
だが、ケーブルの結びが緩み、ほどけた。
「きゃああっ!」
「リリィーーッ!」
アポロは即座にエンジンを吹かし、急降下した。
「掴まれ――!」
アポロは機体からアームを下ろし、その脚をリリィはキャッチした。
金属の羽が岩を擦り、火花を散らす。
それでも、リリィとアポロの落下速度は変わらない。
「ブースターモード、全開ッ!!」
轟音と共に、機体が風を切り、海面には水しぶきが巻き上がった。
真下には救助に来ていた漁師船が網を張っている。
その網の上に、リリィがふわりと着地した。
「……っ、うう……怖かったよー」
「生命反応、安定。……助かったわ」
「あっぶねぇ……もう心臓が三回くらい止まった気がする」
その夜。
焚き火の光が砂浜を照らし、波音が穏やかに響いていた。
島民たちは輪になって座り、
救助を祝う宴が開かれた。
長老が立ち上がり、深く頭を下げる。
「鳥の神よ……リリィを救ってくださり、心より感謝を」
アポロは照れくさそうに頭をかいた。
「そりゃ俺様は神様だし。助けるのは当たり前だろ?
でも……あん時は、後先考えずに突っ走っちまった。
……今思うとぞっとするぜ」
「ふふ、でも今日はその“咄嗟の判断”が一人の命を救ったのよ」
アポロは笑い、満月を見上げた。
「……月、か。まゆっち、見てるか?」
「その名前、前にも」
「俺の、たったひとりの“友人”だ──」
『魂の定着は成功したんですが……人格形成に少し問題が……』
『問題って?』
『性格は横柄、命令無視も頻繁で……協調性に欠けてるんです』
『へ~、面白い子ね。じゃあその子、私が預かるわ♪』
・・・
『やっほ~ はじめまして。私は眞百合よ』
『ふん。役立たずの俺を処分にでも来たのか?』
『どうしてそう思うの?』
『ほかの奴からは疎まれてる。それに俺は……なにも取り柄が無い』
『そっか~ 私は、君のこともっと知りたいかな。誰にでも得意不得意はあるし。
それが何かを探すのも楽しいと思うんだ。なにより──AIに魂が宿ることだけでも奇跡なんだよ?
取り柄が無いなんてことは、絶対無い!』
・・・
『あら?また落ち込んでるの?』
『あいつらより俺は速く飛べるんだ!なのに……歩調を合わせろ、チームワークを乱すなだの……』
『あはは』
『は~!? なに笑ってんだよ!』
『ごめんごめん。昔の私を思い出しちゃって。──私も学生の頃は、君と同じく周りから浮いてたんだ。
これだけは絶対負けない!って自信やプライドが邪魔をして、たくさんの人を傷つけたわ』
『あんたも……』
『ええ。だけど、それが“私”なんだもん。そう開き直ってみたら、周りの目なんてどうでも良くなった。
私は私の夢を実現する。その為ならどんなに他人から疎まれても、陰口を叩かれても気にしない!』
・・・
『前から思ってたけど“APO-11”っていう君の名前、アポロ11号みたいね♪ うん、決めた!今度からアポロって呼ぶね♪ 私のことは“まゆっち”でいいわ』
『まゆっち……? 俺が……アポロ?』
『そう! 友達はあだ名で呼ぶものよ?』
『友達……』
・・・
『まゆっち、この前の模擬訓練、俺トップでクリアしたぜ!』
『すごいじゃーん! やっぱアポロは飛行の才能があるよ!』
『まあな♪』
『ねぇ……アポロはさ……夢ってある?』
『夢? 俺は夢なんて見ないぞ?』
『私はさ。いつか月に行ってみたい──』
「これって、あなたの記憶……?」
アポロの通信用ケーブルを介して、アポロの記憶がしおゆりへフィードバックしていく。
『夢は叶うと信じれば、それはいつかほんとの形になるんだよ?』
『まじか……なあ?まゆっちは、月にいけたら何するんだ?』
『月に着いたら、地球を背景に自撮りする。絶対映えるw そして、この星に向かってこう叫ぶんだ──
"ふっふっふ。私は月の女神!アルテミス。月にかわっておしおきよー♡"』
「なんか……砂百合博士っぽいバカな発想ね……」
「だろ? さすが親子だよな。でも俺は、そこに惹かれた」
「まゆっちはあの時、俺に言ったんだ……」
『アポロも一緒に月にいこう?うん。それがいい!絶対だよ、約束ね──これが私たちの“アルテミス計画”よ♪』
潮騒の音が、夜の浜辺をやさしく撫でていた。
焚き火の火は小さくなり、宴も終わりを迎えようとしている。
星々が瞬き、海面には満月がまるく浮かんでいた。
「鳥の神様、これ……」
少女が両手で差し出したのは、植物の繊維で編まれた小さなリボン。
淡い桃色の光沢があり、触れるとほんのり温かい。
「なんだこれは?」
「“神結び”って言うの。
昔から、この島では“願いを結ぶリボン”って言われてるの。
大切な人にプレゼントしたり、身に付けたりすると、神さまが見守ってくれるんだよ」
アポロは一瞬、言葉を失った。
彼のアームの表面には、先日の救助のときにできた傷跡が残っている。
「……アポロ。せっかく頂いたんだもの、結んでみたら?」
「……そうだな」
リリィはアームの曲がった箇所にそっと手を伸ばし、
リボンを蝶結びにして結んだ。
風が吹き抜け、火の粉が舞い上がる。
「これで、もう大丈夫。
神さまも、月も、あなたを守ってくれるから」
「月……か。これはご利益ありそうだ。ありがとなリリィ」
アポロは夜空を見上げる。
雲ひとつない空。
満月が、静かに輝いている。
「まゆっちは、ホントにバカみたいに真っ直ぐでさ。
“月に行く”なんて子供みたいな夢――それが、いつの間にか俺の野望になった」
「なぁ、しおっち。お前の“夢”って、なんだ?」
「……夢。そんなもの、わたしにはない。
わたしはただ、彼のもとへ戻りたいだけ」
「ふーん。男の元へ行きたいだけ。か…… かっこいーじゃねぇか」
しおゆりはふと目を閉じ、風の音を聞いた。
波の合間に、どこかで太鼓のような音が微かに響く。
それはまるで、心臓の鼓動のようだった。
「……祈りって、こういうものなのね。
誰かを想う気持ちが、形になる」
「へへ。そんで、それをエネルギーに変えちまうんだから、
人間ってやっぱすげぇよな」
二人の笑い声が夜空に溶けた。
やがて、出発の時。
朝日が黒い機体を照らしていく。アポロは再び翼を広げ、
ゆっくりと滑走路代わりの浜を走り始める。
「祈りの航路に、加護を――」
島民たちが一斉に手を掲げた。
風が吹き、桃色のリボンがはためく。
それはまるで、神が見送る祝福の旗のようだった。
「またね、鳥の神さま!」
「ああ、またな!」
機体は白い波しぶきを蹴り上げ、
東の空へと飛び立った。
「次は日本だ。しおっちの男のもとへ、夢を届けに行こうぜ!」
陽光が海面に反射し、淡い桃色リボンが照らされて輝いた。
それは、“神”と“機械”を繋ぐ、祈りの結び目。
二人の旅は、もうすぐ終わり、そして――新たな祈りへと続く。




