第16話「祈りの航路編Ⅰ」―Side Story―
あたり一面、白。
地平も空も雪に溶け、世界の輪郭が消えていた。
氷雪が空を覆い、視界はわずか数メートル。
白一色の世界で、砂百合は両手を胸の前で組み、吹雪の中の機体を見送っていた。
「……しお。必ず彼のもとに辿り着いて。お願い。どうか――」
(あなたのこころが消えちゃう前に──必ず辿り着いて)
エンジンの唸りが、風雪を押しのけて遠ざかる。
その背中に、涙混じりの声が、吹雪に溶けていった。
これは、感情を持つAIしおゆりが紫藤と出会うために旅立った、
祈りの航路の物語――
南極第肆研究区画・発着甲板。
吹雪の地鳴りに紛れて、タービンの起動音が低く立ち上がる。
砂百合は腕を抱えながら、黒い機体を見上げた。
視界は最悪。視程計は警告を点滅させている。
「――行って。あの子を、日本へ」
機体腹部の心臓部には、しおゆりのコアが静かに灯る。
コアへ伸びる数本のケーブルがクリック音を立て、給電と通信が確立される。
──ピッ
≪CORE LINK:STABLE/コア温度 17.2℃/電圧 12.4kW≫
タラップの先、整備員が親指を立てる。
砂百合は小さく頷き、耳元のイヤピースに囁いた。
「ラスティア、航法リンクは?」
『SIDO-LINK第5号、中継帯確立。
防衛省旧暗号帯での単独ナビ、出力良好。――離陸許可します』
旧軍用ドローンの黒い機体――APO-11。
喉を鳴らすみたいにエンジンを吹かすと、甲板の雪を巻き上げながらゆっくりと浮かび上がる。
上昇と同時に、コックピットから音楽が流れ始めた。
軽快なリズム――彼が勝手に選んだ出発のBGMだ。
「さて、と。いっちょドライブ開始といきますか!」
吹雪の中へ、黒い影が吸い込まれていった。
「はぁ……前がさっぱり見えねーよ! 最悪なドライブ日和だよな?」
コックピット内、Head-Up Displayの端に“APO-11”の識別。
中央のサブモニターには、銀のコアから伸びる波形が薄く踊っている。
「お客さん、どちらまで?」
返事はない。
雪の音と、規則的な電源ノイズだけが聞こえる。
「ロングドライブなんだし、楽しく会話していこーぜ! な?」
沈黙。
彼は一拍置いて、わざとらしく肩をすくめる調子で続けた。
「ああーそうだった! お客さん“お口”が無いんだったw すまんすまんw」
「……静かにして」
「ふぁ!? しゃべれんじゃねーか! 驚かすなよっ」
機体は風雪を正面から受けながら高度を取っていく。
ジジ……
『APO-11、応答。こちら南極第肆・祈因分室ラスティア。
現在、進路に2度のズレ。右へ修正してください』
「だからさー俺は“アポロ11号”だって! 何度も言わせんなよ!
(ツ──)あれ?あいつ通信切りやがった……ったくノリ悪ぃなぁ。了解、2度右へ」
微調整。ジャイロは安定域に入る。
雲底の切れ間が一瞬開き、薄い陽光がカーゴの金属面に反射した。
「そういや、まだ名前聞いてなかったよな。
俺はアポロ11号。アポロって呼んでくれてかまわないぜ」
「……」
「OKOK。ここには俺たちしかいないし、名前を知らなくても――」
「……しおゆり」
短い名が、冷たい空気を震わせる。
「へぇ、いい名前だな。しょっぱそうだけど」
ジジ……
『海氷域を離脱。気象は風速三四、乱流多発。
以降、衛星ナビを優先。――幸運を、祈りの航路に』
──ピッ
≪COURSE:北北西/推力 62%/燃料 78%/通信:LINK-5 STABLE≫
アポロは鼻歌を飲み込み、わずかに出力を上げる。
その声色には、誰にも聞こえない程度の小さな高揚が混じっていた。
「――行くぞ、しおゆり。シートベルトしっかり締めときな!」
次の瞬間、機体は横風に耐えながらガタガタと震える。
白い世界の向こう側へ、二人の旅が滑り出す。
◇
雲を抜けた。
南極の嵐を越え、上空には澄んだ群青が広がる。
雪の反射が消え、計器に安定のランプが灯る。
「よっしゃー!ようやくまともな空気が吸えるぜ!」
コックピットの中、アポロのモニターにはしおゆりのコアデータが淡く点滅している。
無言のままのしおゆりを気にしながら、アポロは軽く舵を切った。
「しおゆりもSIDO研究所で作られたAIだろ?
つまり、生まれ故郷が一緒ってことは――俺たちは兄妹みたいなもんだな!」
沈黙。
だがその静けさを気にも留めず、アポロは続ける。
「安心しろ。俺が無事に、おまえの行きたい場所まで連れてってやる。
……何を抱えてんのか知らねぇけどさ、まあきっとうまく行く」
「なぜ……そう思うの?」
「ん? そんなの直感だ」
「AIのセリフとは思えないわね」
「だろ?俺様は出来が違うんだ!」
アポロの声が軽快に弾む。
その調子に合わせて、機内スピーカーから陽気な旋律が流れ始めた。
古いポップス――彼が好んで再生する出発のテーマ曲。
「いつか俺は、俺たちの野望のため、夢を叶えてやるんだ。
それが“まゆっち”との約束だからな!」
「……まゆっち?」
アポロが答える前に、
窓の外の雲が切れ、広がる青が一面に差し込む。
眼下には大海原。光の筋を反射する魚群と、旋回する海鳥たち。
「おっ見てみろ、しおゆり!視界が晴れてきたぞ!」
コックピットが海光に包まれ、
二人の旅路がようやく“空の上”にあることを実感させた。
「ふんっふふふ~ん、ふんふふふんふ~♪
アポロ11号は~月に向かってフライ アウェ~イ♪」
その瞬間――
通信帯にノイズが走る。
ジジ……
『アポーイレブン、応答。こちらラスティア』
「おまえぜってーわざとだろ! 俺はアポロだっつーの!」
『その近辺から緊急救難信号をキャッチしました。
ダミーの恐れもあります。高度を上げ、回避を優先してください』
「マジの救難だったらどうする? 見過ごせねーよ!」
『ちょ、ちょっと!あなたバカじゃないの? 命令違反よ?
わたしまで処罰対象になっちゃうじゃない!』
「あーうるせー、罰なら俺がまとめて受けてやる。
しおゆり、悪ぃけど、ちと寄り道するぜ!」
風防の向こう、海上に微かな閃光が見える。
それは救難信号の発煙筒――命を求める赤。
アポロは出力を上げ、機体を傾けた。
吹き上げられた風が波を裂き、
その真上を黒い影が疾走する。
「しおゆり、俺の視覚を繋げる! なにか見つけたら教えてくれ!」
「左前方――発煙筒の煙が見える」
「向かうぞ!」
推進音が海面を震わせ、機体が一気に低空へ。
吹き上がる波しぶきを掠めながら、赤い煙の発信源へと突き進む。
『あー、ほんっとにもー! ちゃんとわたしは留めたって弁護しなさいよ!』
視界の先――
老朽化した巡視船が波間に揺れていた。
船体の塗装には「AUSTRALIAN BORDER PATROL」の文字。
甲板には炎と煙、SOSを掲げる乗組員の姿。
「おーい! 大丈夫か! 状況を教えろ!」
公衆救難周波で呼びかける。
だが返ってきたのは応答ではなく、冷たいロックオン音だった。
(アラート音)
≪Warning:Targeting radar detected≫
「おいおい! 俺は敵じゃねーぞ! 攻撃するな!」
「……ばかね。警戒されてるのよ。わたしが話すわ」
彼女の通信帯が切り替わり、低く穏やかな声が海上に響く。
「こちらは日本防衛省直属・南極第肆研究区画の軍用ドローン機“APO-11”。
SIDO中継衛星により救難信号を受信した。応答を願う」
しかし、砲台はなおアポロを追い続けていた。
海面がざわめき、緊張が張りつめる。
「ラスティア、聞こえる? ――お願いがあるの」
『ええ、聞こえてるわ。私になにさせる気なの?』
「防衛省の識別コード、SIDO網経由で照合できる?」
『防衛衛星SIDO-LINK第5号が捕捉可能よ。
中継を要請すれば、彼らに“私たちの識別情報”を照合させられるはず』
「……やって。こちらが敵でないと示すの」
ラスティアが防衛衛星へアクセス。
瞬間、空間にホログラムが立ち上がり、
防衛省の徽章が青白く浮かび上がる。
《こちら日本防衛省・SIDO管制課。識別信号確認。状況を報告せよ》
「こちらSIDO開発主任・折籠砂百合のAIユニット“しおゆり”。
人命救助中。防衛省の協力を求む」
《――了解。SIDO技術の関係者なら支援は当然だ。状況を教えてくれ》
わずかな静寂の後、
巡視船の砲塔がゆっくりと下を向き、レーダー照射が解除された。
「ふぅ……助かったぜ。心臓が止まるかと思った。あんたすげぇな!どんなコネ使ったんだ?」
「……ただの、かつての協力者よ」
『はいはい、お見事。これでわたしの処罰は免除ね?』
「ははっ命拾いしたな、ラスティア!」
『はぁ~?元はあんたのせいでしょうがぁ AHOイレブン!』
数分後――
巡視船から通信が入った。
《こちらオーストラリア沿岸警備隊。ORIITOネット停止の影響で航法システムが全滅だ。
パースへの帰還ルートを失った。助力願えるか?》
「あいよ! こっちも燃料がもう空っぽだ。
進行方向は示すから、俺のことも乗せてってくれ!」
『はぁ……ドローンがヒッチハイクなんて、聞いたことないわよ』
「硬いこと言うなって。お互い様だろ?」
アポロはゆっくりと巡視船の甲板に降下し、
マニピュレーターを伸ばして甲板に固定。
ラスティアのナビを受け取り、船首方向へ照射レーザーを展開する。
「この光を辿れ! パースまで一直線だ!」
『まったく……あんたは、規則違反のデパートね』
荒れた波の上を、
光のラインが静かに延びていく。
巡視船はその道をなぞるように舵を切り、速度を上げた。
しおゆりは、アポロの中にわずかな誇りのような感情を感じ取った。
「……あなた、案外優しいのね」
「ばっ、そんなんじゃねぇよ…… 助け合うのは当たり前だろ」
ラスティアのため息が通信越しに混ざる。
『航路安定。到着予想時刻、現地時間二一〇〇。
――祈りの航路に幸運を』
港湾灯が見え始める。
夜の帳の中、光のラインがゆっくりと消えていく。
巡視船が無事に入港を果たした瞬間、
港のサイレンが鳴り、救護隊が駆け寄る。
《……君たちのおかげで、全員無事に帰還できた。礼を言わせてくれ。
できれば何かお返しをしたい》
「なら、燃料とちょい充電を頼む! この子の旅はまだ終わってねぇんだ」
《任せろ。こちらの整備班に伝える》
「……感謝します」
通信が切れ、
アポロはしばらく港の光を見下ろしていた。
「ふぅ……人類もまだ捨てたもんじゃねぇな」
◇
夜の海に、パースの港灯が点々と滲んでいた。
給油を終えたアポロは、静かにスラスターを点火し、
港の灯りを背にゆっくりと上昇していく。
「さてと、満タンチャージ完了っと。これでひとっ飛び――だな!」
『航路を再設定完了。目的地――福島沿岸域。
北東への気流、上層は乱れが多いわ。気象観測データは……あれ?』
通信の背後で、ノイズが混じった。
ジジ……ジ……
「ラスティア? おい、聞こえてるか? 音声が割れてるぞ」
『ジジジ……聞こえ……、けど、帯域……干渉してるみたい。
高層の電離層……不安定……。太陽フレアの……かもしれな……』
ノイズがさらに強まり、声が断片的に途切れる。
「太陽フレアぁ? なんだよ、そいつは?こっちは天気予報ゼロなんだぞ!」
「磁気嵐──電波障害の原因ね。SIDO衛星との通信も危ういわ」
「マジか。せっかく補給したばっかなのに、運が悪ぃな」
風防を打つ風の音が変わる。
低い唸りが混じり、海面に白い筋が走った。
上空には黒雲が渦を巻き、稲光が遠くで瞬く。
『……聞こえ……? 方位……左に十度修……』
「ラスティア! おい、ノイズがひでぇ!」
『……の航路に……幸運……を』
通信が途絶えた。
「チッ、風が急に荒れた……。
しお、しっかり掴まってろよ。これからが正念場だ!」
「……私は掴まる“手”を持っていないのだけれど」
「ははっ。気合だ、気合で掴まれ!」
風速が増し、機体がぐらりと揺れる。
警告灯が赤く点滅し、スラスターが空気を裂く。
波が高くなり、空の色が夜から鉛色へと変わっていく。
「まったくよ……これくらい乗り越えられずに──
月面着陸なんて一生無理だよな? まゆっち」
機体が傾き、海面に近づく。
アポロは必死に姿勢を立て直しながら、
薄く光る月を羨むように見上げていた。




