第11話「祈糸」
工場の周囲は、不自然なほどの静寂に包まれていた。
まるで世界から切り離されたかのように、風も音も途絶えている。
街灯だけが冷たい光を落とし、錆びた看板と割れた窓ガラスを浮かび上がらせていた。
紫藤たちは搬入口付近に身を潜め、息を殺して様子を伺う。
「……中に何かいるか?」
紫藤の低い声に、ユユの眼光センサーが淡く点滅した。
「暗視・赤外線モード起動。……熱源反応を確認──」
空中に立体ホログラムが投影される。赤点の群れが工場内部に散らばり、じっと動かずに待ち構えていた。
「熱源反応、十体以上。全周包囲形。待ち伏せの可能性大でアリマス」
紫藤の背筋に冷たいものが走る。
「……明らかに罠だよな」
「ええ。罠ね」
「確実に罠でアリマス」
紫藤は振り返り、二人に問いかけた。
「……戻るか?」
しおゆりは静かに首を横に振る。
「引き返しても追跡の危険は変わらない。ならば、ここで“切る”」
その瞬間、工場の搬入口シャッターが自動で上がった。
金属が爪で裂かれるような甲高い悲鳴が反響し、紫藤の背中を冷たく震わせる。
黒い口を開いた工場内部は、月光がわずかに差し込むだけで間取りすら見えない。
「中に入れってことだよな……」
「わたしが先に行くわ」
「行くでアリマス」
紫藤は喉を鳴らし、バットを握り直す。
ユユが三脚を突き立て、しおゆりが前に出る。
三人の影が重なり、廃墟の胃袋のような闇へと踏み込んでいった。
工場内は、不気味なほど静まり返っていた。
耳に届くのは、自分たちの心臓の鼓動だけ。
「……おかしいな。確かに反応はあったのに」
紫藤が小声で呟く。
「気配が消えた……?」
しおゆりの目が細まる。
散らばる鉄くずの中に、不自然なほど整列した卵型の殻が並んでいた。
まるで兵列のように沈黙し、月明かりを鈍く反射している。
紫藤が訝しげに膝をつく。
「……これ、卵……?」
カサリ……
天井裏から、金属の足音が響いた。梁を這う複数の影。
紫藤は反射的に懐中ライトを上に向ける。
光の輪に照らされたのは──蜘蛛のようなドールの群れだった。
無数の赤い眼が一斉に点灯し、瞬時にレーザーの光へと変わる。
その視線に晒された途端、床の卵殻が赤く点滅を始めた。
カチ、カチ、カチ──
時限爆弾のように脈打ち、点滅が加速していく。
「非接触……トリガは“視線”。視線誘導型の起動」
しおゆりの声が硬く響く。
「ユユ、遮蔽!」
「了解でアリマス!」
ワイヤーが走り、鉄骨と廃材を絡めとり即席のフェンスを組み上げる。
次の瞬間──
爆炎が迸り、衝撃波が工場内を切り裂いた。
三十センチはあろうかという釘が、フェンスに突き刺さり鈍い音を響かせる。
「……マジで殺す気だろ、これ!」
紫藤が顔をしかめ、身をかがめる。
だが天井の梁では蜘蛛群が赤い光線を縦横に走らせ、獲物を探し続けていた。
「レーザーに捕捉されたら、卵が起爆する仕組み……」
しおゆりが淡々と分析する。
三人は機材の影へと身を滑らせた。だが紫藤の肩口を光線がかすめ──
「やべ──!」
足元の卵が爆ぜ、爆炎に吹き飛ばされる。
連鎖する爆発が工場を揺るがし、瓦礫と炎が乱舞した。
炎は散乱した木材や古びた布を舐め、暗闇だった工場は赤黒い揺らめきに染められた。
煙と熱気が立ち込め、梁や鉄骨の影が踊り出す。
蜘蛛ドールが糸を垂らし、赤い複眼を光らせて降下してくる。
「くそっ!」
紫藤がバットを振り抜き、鈍い衝撃とともに殻を潰す。
嫌な金属音が響き、複眼の光がパッと消えた。
「捕捉される前に叩いて!」
しおゆりが冷徹に告げ、片足で蜘蛛を踏み潰す。赤い光が弾け飛んだ。
ユユはワイヤーを射出し、獲物を捕縛。
「拘束完了、排除開始でアリマス!」
高速回転で振り回し、壁に叩きつける。甲高い破砕音と共に粉砕され、梁の残党も散り散りに逃げていった。
重苦しい静寂が戻る──だが、工場の奥から新たな駆動音。
白い人型の影が五つ、闇を割って前に出た。
能面のような顔、片腕は鋭い刀へと変形し、ギリギリと擦過音を響かせる。
「またやばいのが出てきたぞ……」
紫藤の声に、しおゆりが即座に前へ出る。
「シドウ、下がって!」
彼女の回し蹴りが一体の頭部を粉砕。破片が弧を描き、床に散った。
ユユは間髪入れずワイヤーを撃ち込み、鋼線が三体を縛る。
青白い電流が奔り、黒煙を吐きながら痙攣し、動きを止めた。
「ユユ、ナイス!」
紫藤がユユに親指を立てる。
残る一体がじりじりと迫る。
しおゆりは床の首無しドールの腕をもぎ取り、即席の刀を構えた。
金属の火花が散る。刀と刀が激突し、薄闇に響き渡る。
押されて後退するしおゆり──だが表情は微動だにしない。
──カラン。
彼女は一瞬、刀を手放した。
「……ッ!?」
ドールが好機とばかりに刀を振り上げる。
狙いはしおゆりの頭部。
だが次の瞬間、彼女は即座にしゃがみ込んだ。
鋭い刀身は虚しく壁へ突き刺さる。
抜けない刀はびくともしない。
その隙に、しおゆりは刀を拾い上げ敵の背中へと回り込む。
拾い上げた刀で背後へ回り込み、鋭い突きを背に叩き込む。
鋼を裂く感触とともに火花が散り、黒煙を吐き出しながらドールは崩れ落ちた。
息を呑む間もなく、低く重い轟音が工場全体を揺らした。
「また何か来るぞ!」
奥の暗闇から、梁が震えるほどの足音とともに異様な巨影が姿を現す。
能面のマスク、右腕は肉を断つ歯車刃のような回転刃へと変形し、ギュルルルと空気を切り裂いた。
刀ドールよりも一回り大きな体格が、不気味な威圧感を放っている。
「特殊個体、出現でアリマス!」
ユユが叫ぶ。
ユユがワイヤーを放つが、回転刃が糸を裂くように一瞬で断ち切った。
紫藤が反射的にバットを振り上げる──しかし敵は振り返りざまに紫藤を蹴り飛ばす。
背中から床に叩きつけられ、肺の空気が一瞬にして奪われた。
ユユは切れたワイヤーを掴まれ、逆に振り回され壁へ叩きつけられる。
壊れた声だけが残った。
残るのは──しおゆり。
赤い光を放つ特殊個体が、唸りをあげながら迫る。
金属音が火花を散らし、空気を裂いた。
しおゆりは鋭いパンチを連打し、回し蹴りを叩き込む。
だが敵は鈍色の装甲で受け止め、微動だにしない。
「……ちっ!」
舌打ちの直後、巨大な左腕がしおゆりの首を掴み上げる。
白い足が宙に浮き、金属音を立ててジタジタと蹴りが空を切る。
「しお!」
紫藤が呻くように立ち上がり、渾身の力でバットを振り抜いた。
鈍い衝撃が手に伝わるが、敵はビクともしない。
回転刃がバットを粉砕し、木片が飛び散った。
「まだ……まだやれる!」
紫藤は鉄くずの棒を拾い上げ叫ぶが──
回転刃が空気を裂き、太ももをかすめた。焼けるような痛みが骨の奥に突き刺さり、膝を突く。血の匂いが立ち上った。
「シドウッ!」
しおゆりの声が鋭く揺れる。
紫藤は歯を食いしばり、立ち上がろうとするが、その姿は危うい。
しおゆりの瞳が細く絞られた。
次の瞬間、彼女は敵の腕を強引に掴み、骨ごとへし折る。鈍い破砕音とともに片腕がだらりと垂れ下がった。
反対の腕が唸る。回転刃が振り下ろされ、火花が散る。
しおゆりは躊躇なくその腕を掴み、無理やり敵の顔面へと押し付けた。
「ギャギギギギ──!」
灼熱の火花が散り、能面の顔が斜めに切り裂かれる。
「まだ……動くの……っ!」
しおゆりは全身で押し込み、敵をズルズルとプレス機の台座まで引きずった。
「シドウ……押して!」
「待て! それじゃお前の腕まで──!」
「構わない……早く!」
その瞳は冷徹な光を宿し、ただ紫藤を見据えていた。
紫藤は歯を食いしばり、レバーを全力で引き下ろす。
轟音。
分厚いプレス板が下降し、羽交い絞めにされたドールの頭部を粉砕した。
赤い光が弾け、鈍い破砕音が工場に響く。
同時に、しおゆりの右腕が押し潰され、火花と煙が散った。
千切れた腕が床に落ち、焦げた匂いが充満する。
「しおぉぉぉっ!!」
紫藤の叫びに、しおゆりは肩で息をしながら僅かに口角を上げる。
「……片腕を失っただけ。まだ動ける」
その言葉に安堵しかけた瞬間だった。
――ゴウン……ゴウン……。
地下から地鳴りのような重低音が響き、工場奥の荷物用巨大エレベーターが軋みながらせり上がってきた。
油と鉄の匂いをまとい、積載コンテナの鉄扉がひとりでに「ギギ……」と開く。
その時、ユユのセンサーが鋭く鳴り響いた。
「高出力反応、接近中。単体……残留波形、パターン一致でアリマス!」
中から姿を現したのは、一体の人型ドール。
顔は無機質な能面のように白く、表情のない仮面が月光を鈍く反射している。
首は不自然に折れ曲がり、血管のような配線がだらりと垂れていた。
「……っ!? あいつ……うちに来た、あの時の奴じゃ……!」
紫藤の声が震える。
「ユユ! まだ動ける?」
しおゆりが呼びかける。
「損傷率55%、まだ動けるでアリマス」
「いい子。紫藤のそばにいて」
傷ついた外殻から火花を散らしながら、ユユは紫藤のそばへにじり寄る。
赤い光が、執拗に紫藤を捉える。
まるで「与えられた傷を忘れぬ」という恨みを宿すかのように。
しおゆりが一歩前に進み、冷たい声を放つ。
「答えて。そのボディ……“黒百合”をどこで手に入れたの?」
「ギ……ギギギ……」
壊れたスピーカーのような機械音が返ってくるだけだった。
しおゆりの表情は微動だにしない。
「……コアまで上書きされてるのね。なら、その穢れごと祓う」
床を蹴って駆け出す。
首折れドールは右腕を刀へと変形させ、月光のような刃を鈍く光らせた。
火花が散る。
しおゆりは片腕を失いながらも、残された力で正確に刀をいなし、蹴りを叩き込む。
だが刀が肩をかすめ、赤黒い液体が血のように噴き出した。
「しお!」
紫藤は叫んだ。
「ユユ、ワイヤー電撃!」
紫藤の叫びにユユが応じるが、機体内部でワイヤーが絡まり射出できない。
「ご主人、ワイヤー射出不可でアリマス──」
ユユは高速回転で首折れドールの足元へ加速した。
「内部バッテリー全放出、出力最大でアリマス」
バチバチバチバチッ──
ユユのボディごと敵に体当たりし、全電力を放出。
首折れドールとユユは電流を浴び、両者とも火花を散らせて煙を上げる。
「ユユ──ッ!」
紫藤が叫び、駆け寄る。
首折れドールの配線ケーブルから火花が散り、焼け焦げたボディが真下のユユを踏みつける。
丸いボディがぐにゃっと押し潰され、そのまま蹴り飛ばされた。
ユユは鉄くずの残骸に埋もれる。
「ざっけんなー!!」
紫藤は叫び、首折れドールの腰にしがみ付く。
高熱のボディが皮膚を焦がし、腕に火傷の痛みが走る。
「シドウ! だめ、下がって!」
しおゆりの叫びが響く。
首折れドールは紫藤の拘束を振りほどき、右腕の刀を紫藤の腹に突き立てた。
「が……はっ……!」
紫藤の喉からかすれた声が漏れ、仰向けに倒れた紫藤の名を、しおゆりが必死に呼ぶ。
「シドウ──!」
しおゆりの渾身の蹴りが首折れドールの腹部を貫き、赤い光点がすっと消える。
血の気が引いたしおゆりは目を見開き、紫藤の身体を抱きかかえる。
「シドウ! シドウ!! しっかりしてっ!」
紫藤は苦しげに目を開け、ゆっくりと服をめくった。
腹部を覆う黒いプロテクターが露わになる。傷は浅く、刃は装甲に阻まれていた。
「……死ぬかと思った──
今朝夢で見たんだ。刺される光景。だから念のため……仕込んでおいた」
しおゆりは安堵のあまり涙をにじませ、声を震わせた。
「……ばか。……本当に、ばかなんだから」
彼女の腕の中で、紫藤は息を整え、かすかに笑う。
その時だった──
起動停止したはずの首折れドールの腕が、隣に転がっていた蜘蛛型ドールの頭を掴んでいた。
掴まれた蜘蛛がビクッと震え、複眼が赤く点灯する。
その蜘蛛が紫藤の方へ向けられる。複眼から赤いレーザーが紫藤を捉えた。
「シドウッ伏せて!」
しおゆりが紫藤に覆いかぶさる。
「ドゴォン!」
爆音と共に爆風が巻き起こり、無数の釘がしおゆりの背に突き刺さる。
「ぐっ……!」
抑えた声が漏れ、瞳がわずかに揺らいだ。
「お願い……シドウ……一人で、逃げて……」
弱々しい声と共に、しおゆりの瞳から光が消えていく。
「しお……? おい、しお!!」
紫藤は必死に彼女を揺さぶる。
瓦礫に埋もれていたユユも、青白い光を一瞬だけ瞬かせた。
「ゴ、ご主人……逃げるで……アリマス──」
最後の言葉を残し、目の光が消えた。
「しお! 見てみろ。ユユも生きてる。だから早く帰って手当てしてやろう」
しおゆりの反応はなく、目を閉じた表情は穏やかで、眠りについたように静止している。
「……おい……しお……うそだろ?」
「そっか!また充電切れだろ?ちょっと待ってろ」
紫藤は荷物からゆりナミンドリンクを取り出し、しおゆりの口へ流し込む。
緑色の液体は飲み込まれず、ただこぼれ落ちるだけ。
紫藤はドリンクを口に含み、しおゆりの口へ移す。
だが、反応はない──。
太ももの痛みも忘れ、紫藤はユユに助けを求めに走り出す。
「ユユ、しおが……しおが動かなくなっちまった……」
瓦礫から顔を出しているユユを引き上げると、膝を落とした。
丸く愛嬌のあったボディは楕円形に潰れ、三脚も千切れている。
「……ユ、ユユ……」
紫藤はユユを大事に抱きかかえ、足を引きずりながらしおゆりの元へ向かう。
二人を抱き寄せ、虚ろな瞳で闇を見上げた。
「なんでだよ……俺のせいで……俺をかばったせいで……」
その時、工場の搬入口から複数の足音。
赤い目を光らせた三十体以上の殺戮兵器群が近づき、空からはドローンの群れがゆっくりと紫藤に迫っていた。
──もう疲れた……このまま終わってもいいか。
紫藤は目を閉じる。
その耳元に、懐かしい声が届いた。
『ほんとあんたは弱虫ね──』
砂百合の声だった。幼い頃の記憶が鮮明に蘇る。
『またいじめられたの~?情けないわね』
『だってあいつら、またうちの花壇を踏みつけたんだ……』
『しぃくんは優しいのはいいんだけど、泣き虫なのがね』
『大事に育てたのに。ぐしゃぐしゃって──』
『わかったから。もう泣かないの!しぃくんは折籠の子でしょ?
折籠っていう立派な“祈り子”なんだから。弱いものを助けて、護る側なんだから』
『祈り子?』
『そうだよ。折籠一族はね、ずっと昔から祈りを繋いできたんだよ』
『どういうこと?』
『ご先祖様の話教えてあげる──』
『ずっと昔、ご先祖様が住んでいた島に大津波が来たときにね──赤ちゃんを、藤のつるで編んだゆりかごに入れて、海に流したの』
『えっ……流しちゃったの?』
『“この子だけは生きて”って祈りながら。……津波が全部を飲み込んだあと、ゆりかごだけは沈まずに、ずっと海を渡ってね──
遠くの浜辺で、誰かに拾われて助けられたの。折籠家は、その子が始まりなんだって』
『……祈りが神様に届いたってこと?』
『そう。折籠はね、折れてもなお、祈りを包んで運ぶ“ゆりかご”の家系なの』
『だからしぃくんがつらくて泣いてるときも、ちゃんと祈りが届くようになってる──だってお姉ちゃんが、そう祈ってるから』
『しぃくん。“甘きしおゆりの加護を与えん”って、唱えてごらん?』
紫藤の胸が熱くなった。涙を滲ませながら、しおゆりの頬に手を添える。
「姉ちゃん……折籠の祈りは届くんだろ? だったら……今、しおを助けたい」
そして彼は囁いた。
「……甘きしおゆりの……加護を与えん」
──っピ
≪ANPI起動……≫
≪折籠守護因子送信中……≫
瞬間──紫藤のクロアが微かに震えた。
砂百合が自作したアプリが起動し、一瞬にしてANPI回線を駆け抜け、地下深く眠る研究所のSIDOサーバーへ到達する。
紫藤の祈りと血を織り込んだ“祈糸”がSIDOを呼び覚ます。
≪SIDOネットワーク:接続完了≫
≪緊急オペレーションコード生成中……≫
≪祈血因子認証確認≫
≪全系統、開放許可≫
その刹那──澄んだ鈴音が廃工場に響き渡った。
しおゆりの体が光に包まれ、祈糸に導かれるように、その意識の輪郭ごとSIDOの最奥へと引き込まれていく──。
眩い光に呑まれ、しおゆりの意識は闇を抜ける。
そこは朱塗りの大鳥居の前だった。
奥には神殿。黒髪に十二単衣の女性が静かに鎮座している。
「……また逢えましたね」
神々しい声が、しおゆりの胸に響いた。




