第10話「誘い火」
夜風が、血の匂いを思わせる焦げ臭さを運ぶ。
首の折れたドールが、頭をだらりと傾けたまま、ずるずると地面を引きずって闇に消えていく。
赤い光点だけが、節くれだった蛍のように点滅を繰り返しながら遠ざかっていった。
「……逃げた、のか?」
紫藤の喉はまだ乾いていた。
握ったスコップの柄には、汗がねっとりとまとわりつく。
ユユがころりと前に出て、三脚をわずかに突き立てる。
目が淡く点滅し、静かな電子音が夜気に溶けた。
「敵性体、ステータス離脱。残留反応、微弱でアリマス」
しおゆりは無言で屈み、飛び散った黒い破片をひとつずつ拾い上げた。
肩装甲の割れ目が、月光に白く線を引く。
「本来のSIDO規格に合わない……誰かが上書きした痕跡がある」
短い沈黙ののち、紫藤はようやく息を吐いた。
「とりあえず……家に戻ろう。応急処置だ」
ラボの作業台に乗せられたユユは、外装のひび割れから火花が散り、冷却液がじわりと漏れていた。
「……ユユ、じっとして」
しおゆりが静かな声で言うと、ユユは小さく「了解でアリマス」と返し、三脚を畳んで動きを止めた。
紫藤が隣でしおゆりにレンチを渡す。
しおゆりはレンチを受け取ると、小さな破片を外していく。
「うぐっ……センサーが明滅してるでアリマス……」
「少しだけ我慢して。すぐ終わるから」
しおゆりは工具を台に置き、ユユの破損した外装を慎重に外していく。
新しい部品をはめ込み、配線を短く結線していく。
最後に、冷却ラインの接続部分にテープを施し処置を終えた。
「応急処置は完了。次は──」
彼女の瞳が紫藤を見た。
「シドウ。今度はあなたがわたしに処置して。やり方を教えるわ」
「わかった」
紫藤は息を整え、肩の破損箇所に手を伸ばした。
装甲の割れ目に触れた瞬間、しおゆりの体が小さく震える。
「……痛むか?」
「問題ないわ。まず、その破片をゆっくり外して」
しおゆりの淡々とした声に導かれ、紫藤は慎重に指示どおりに作業を進めていく。
工具を握る紫藤の手は、細かく震えていた。
目の前にある傷口が、思った以上に深く、痛々しい。
──もし手元が狂ったら、彼女をさらに傷つけてしまう。
その焦りが、指先から全身へと伝わっていく。
「シドウ?」
しおゆりが顔を向け、震える彼の指をそっと握った。
その仕草は、無機質な瞳の奥に宿る静かな信頼を物語っていた。
紫藤は小さく息をつき、苦笑する。
「……大丈夫。続けよう」
言葉に自分をなだめるような力を込め、再び作業に取りかかった。
紫藤は工具を動かしながら、気を紛らわすかのようにしおゆりに話しかける。
「こどもの頃、よくケガした俺に姉貴が手当してくれたのを思い出すよ。
文句言いながら乱暴に絆創膏を張ってくれていたけど──姉貴もこんな気持ちだったのかな……」
しおゆりがその横顔を見上げる。
紫藤は小さく笑い、「しおの傷口を見ると、俺の胸の奥もズキズキ痛みを感じてしまう」
しおゆりは少し間を置いて視線を逸らし、静かに言葉を落とした。
「……わたしは痛覚を無効にできる。けれど、シドウが傷を負うのを想像したら──
きっと、わたしの感情演算が“痛み”を感知すると思うわ」
応急処置を終え、紫藤とユユはキッチンでゆりナミンを調合していた。
しおゆりは回収したドールの破片をラボで解析している。
「しお。できたぞ」
緑色の補助栄養ドリンクを持った紫藤がラボへ入る。
「どんな感じ?何かわかった?」
しおゆりは破片を手に取り、淡々と告げる。
「材質は戦術級。それに、昔の制御モジュール痕を見つけたわ」
紫藤が眉をひそめる。
「制御モジュールって?」
「本来は“所有者を限定するための認証機構”が組み込まれていた痕跡がある。
でも今は、それを無理やりバイパスして、強制的に稼働させているの」
「じゃあ、誰が動かしてるか分かるのか?」
「いいえ、断片だけでは足りない。真相を知るにはもっと深層データが必要……SIDOに直接アクセスできれば分かるかもしれない」
紫藤は息を詰め、そして呟いた。
「ORIITOが止まってる今、それは無理だろ……。でも……あれ?今朝、PCに侵入があったよな?」
しおゆりはわずかに頷く。
「電気信号の変換。インフラの配電網や通信線を直接叩いて、強引に侵入してきた可能性が高いわ」
「それと同じ方法で、こっちからSIDOにアクセスはできないのか?」
「……そんな芸当は、SIDOにしかできない」
しおゆりの声にかすかな重みが宿る。紫藤は思わず息を呑んだ。
「じゃあ、それって……SIDOが俺たちにコンタクトを取ろうとしたってことか?」
「可能性は否定できない。SIDOが直接コンタクトを試みたのか……あるいは誰かがSIDOを使って侵入したのか」
「だけど……このまま待ってるだけじゃ、何も進まない」
紫藤が低く言う。
「俺が囮になる。外に出て、わざと反応を引き出──」
「だめ」「ダメでアリマス!」
しおゆりとユユの声が同時に重なり、いつになく速く紫藤を遮った。
「あなたを護ることが、わたしの存在理由」
「ご主人を囮にする案、断固反対でアリマス!」
ユユが前に出て、三脚を踏ん張る。
「けど、俺は──守られてばかりじゃいられない」
言葉は、思った以上に震えていた。
しおゆりは一瞬だけ目を伏せ、そして頷いた。
「……妥協案。三人で行く。ユユは囮兼センサー、私は遮断と解析。あなたは距離を保ち、退路の確保」
◇
紫藤は押し入れをガサゴソと探り、手にした木製バットを見つめた。
「……まあ、これなら町で持ち歩いても職質されないよな」
軽く素振りをしてみせ、肩に担ぐ。
その隣に、必要そうなものを並べた。
「懐中ライトに、ゆりナミン……救急セットと包帯タオル。よし、こんなもんかな」
小さくうなずいた瞬間、ポケットのクロアが震えた。
《ANPI:新規メッセージがあります》
画面を開くと、大学の友人・結城柊子からの一文が浮かぶ。
『紫藤くん無事? ちょっと胸騒ぎがして連絡したよ。事故には気を付けて』
「……怖えーよ。やっぱ霊感持ってんじゃ……」
紫藤がぼそりと呟く。
「どうしたの?」と、しおゆりが無機質に問う。
「大学の友達。結城さんからメッセージ。事故には気を付けろってさ」
紫藤は小さく笑って、画面に『了解!気をつけます』と打ち込む。
送信したあと、ふと指が止まった。
──今日も、姉貴からの返事は来ていない。
ANPIの圏外にいるのか、電源が切れているのか……まさか。
胸の奥に小さな影が差す。
紫藤はしばらくクロアを見つめていた。
しおゆりは短く息を吐き、わずかに語気を強めて言った。
「……仲いいのね」
そう言い残し、紫藤を置いて歩き出す。
「ちょ、しおさん!俺まだ準備できてない!」
慌てて荷物を掴み、紫藤は彼女の背を追った。
玄関を出ると、夜の空気が肌にまとわりついた。
紫藤は肩にバットを担ぎ直し、懐中ライトを点す。
頼りない光が、暗い路地を切り開く。
「……どこへ向かう?」
紫藤が問いかけると、ユユがセンサーログを投影する。
「人通りが少なく、見通しの良いエリア──商店街方面が最適でアリマス」
「店はもう全部閉まってるし、確かに……」
紫藤はうなずき、二人の背に並んだ。
三人の足音が、静まり返った住宅街を抜け、やがて暗い商店街へと溶け込んでいく。
三人は並んで、暗い商店街を進んでいく。
シャッターが下りた店が続き、通りは不気味なほど静まり返っていた。
頭上の街灯がちらつき、わずかに照らす光の中を紫藤たちの影が伸びていく。
紫藤は肩に担いだバットを握り直し、隣を転がるユユに声をかけた。
「……どうだ?近くに怪しいやつはいるか?」
ユユの眼光センサーが青白く瞬き、周囲を走査する。
「センサーログに異常反応なし。
近傍にドールの反応は検出されていないでアリマス」
「……そうか」
紫藤は胸の奥に張り付く不安を押し殺すようにうなずいた。
その背後で、しおゆりの瞳がかすかに夜の闇を追っていた。
その静寂を破るように、遠くで歩行者信号の誘導音が鳴る。
だが、その電子音に「ジジッ」と耳障りなノイズが混ざった。
「異常音を検知。信号制御系に干渉の可能性」
ユユの目がわずかに瞬いた。
紫藤はバットを握りしめ、周囲を見回す。
そのとき、ユユが頭上を見上げる。
「上空にドローン数機を確認。同一方角へ飛行中」
紫藤も顔を上げ、夜空に浮かぶ光点が列を成して進むのを目にした。
「……あっちに何かあるのか?」
商店街を抜けると、街の外れの工場地帯が広がっていた。
紫藤の口から自然と不安が漏れる。
「この先って……工場施設しかないよな」
その瞬間、背後の街灯がひとつ、またひとつと消えていく。
カチ、カチ、カチ……規則正しいリズムで、闇が順番に退路を飲み込んでいった。
紫藤は喉を鳴らした。
「……これって、俺たちが罠に──」
闇の奥、廃工場の周辺だけが不自然なほど明るく輝いている。
「……すでに導かれているのは、わたしたちのようね」
しおゆりの冷たい声が、紫藤の背筋を凍らせた。
廃工場は、虫を誘うライトのように青白く脈打っていた。
その明滅は、獲物を焼き尽くす殺虫灯のように、容赦のない死を予感させた。




