DAY37 赤い月の非情なプレゼント
非常階段を上がってすぐの、
職員用ビル二階。
静かだ。
照明は落ちている。
だが、窓から差し込む赤い月明かりが、
床と壁の輪郭だけを
薄く浮かび上がらせている。
瑠奈は窓際から一歩下がり、
背中を壁に預けた。
外から聞こえるうめき声は…遠い。
完全に消えたわけじゃない。
ただ、壁と高さが、
怒号と衝撃を一段、鈍らせている。
「……」
瑠奈は誠の背中の
リュックを開いていた。
中から取り出すのは、
包帯、ガーゼ、消毒液。
瑠奈「大丈夫?噛まれてない?」
誠「……はぁはぁはぁ、だっ大丈夫」
小さな返事に
瑠奈は頷くだけで、
返事はしない。
道具を確認しながら、
視線は通常階段の方に向いく。
瑠奈(来るなら、あそこからだ。)
瑠奈の手が、
ガーゼを広げる。
指先が、少し震えている。
誠「ぼ、僕よりも瑠奈ちゃんが先に…」
誠は問いかけたが
答えは返さない。
瑠奈はようやく視線を戻し、
誠の手元を見る。
瑠奈「……止血が先」
短く、はっきり。
誠は小さく息を吸い、
もう一度頷いた。
誠「はい」
二人の間に、
言葉の余白が落ちる。
遠くで、
鈍い衝撃音。
床が、
ほんの少しだけ震えた。
誠の肩が、
びくりと跳ねる。
誠「……下、ですよね」
瑠奈「多分」
瑠奈は即答する。
不安を煽らないように、
声の高さも、速さも変えない。
瑠奈は膝をつき、
包帯の端を整える。
ナイフで切り揃え、
使いやすい長さにする。
――待つのは、嫌いだ。
誠は消毒液の小瓶を手に取り、
キャップを確かめる。
誠「……量、足りますかね」
瑠奈「足りなくても、使うしかない」
現実的な答え。
誠は苦笑いを浮かべ、
小瓶を布の上に並べる。
ガラスが、
赤い月明かりを反射する。
音がないことで、
逆に不安が際立つ。
瑠奈は何度か
拳を握っては開いく行動を繰り返す。
体中に溜まった乳酸を感じながら、
頭の先から手足の先まで意識して動かす。
瑠奈「……来たら、すぐ」
誠「はい」
誠は即答する。
その声には、
覚悟が混じっていた。
事前に一階部分は補強し、
侵入はほぼ不可能…しかし。
二人は、
何も言わず、
ただ準備を続ける。
階段の影を、
何度も確認しながら。
瑠奈はリュックの中身を、
もう一度、順に並べ直していた。
包帯。
ガーゼ。
止血帯。
そして――
消毒用アルコールの小瓶。
一馬のことを考える。
はぐれてしまう事は
想定していたが、
実際にはぐれてしまうと話は別。
「……」
瑠奈は瓶を取り上げ、
キャップの緩みを確かめる。
問題ない。
一馬なら問題ない…っと、
頭で言い聞かせる。
小さく、透明なガラス瓶。
中の液体が、わずかに揺れる。
並べようとして――
ほんの一瞬。
指の力が、
ほんの少しだけ抜けた。
理由はない。
何かに気を取られたわけでもない。
ただ、手元が…。
カン、と
軽い音。
瓶が指先から外れ、
床に落ちる。
次の瞬間
パリン。
乾いた破裂音が、
静かな二階に響いた。
誠が、息を詰める。
「……っ」
瑠奈は動かない。
視線だけを落とし、
床に散らばったガラス片を見る。
アルコールの匂いが、
遅れて立ち上る。
強くもなく、
弱くもない。
ただ、
消毒液の匂いだ。
瑠奈「……割れた」
事実だけを口にする。
誠が慌てて立ち上がり、
ガラスに触れないよう、
一歩下がる。
誠「だ、大丈夫ですか? 手…」
瑠奈「平気」
瑠奈は自分の手を見る。
切れていない。
血も出ていない。
誠は小さく息を吐き、
散らばった破片を避ける。
誠「……予備、ありましたよね」
瑠奈「一本」
短い答え。
誠「瑠奈ちゃんも
少し休んだ方がいいよ…座って」
瑠奈はうなずき腰を落とし、
ナイフの背でガラス片を寄せる。
音を立てないよう、
慎重に。
破片が触れ合う、
かすかな音。
誠は布を取り出し、
アルコールが広がらないよう、
床を押さえる。
誠「……すみません」
誠が、
なぜか謝る。
戦えない自分への後ろめたさなのか…。
瑠奈は首を振る。
瑠奈「しばらく周囲を警戒して見てて」
誠にそれだけの言葉を添える。
あやまる言い訳も聞かない。
理由も探しもしない。
誠は残った瓶を一つ、
少し離れた場所に置いた。
瑠奈「みんな……来たら、お願い」
言い聞かせるようでもあり、
確認するようでもある。
誠は頷き、
もう一度包帯を整える。
瑠奈が目を閉じようとした瞬間
階下奥からなのか
遠くで、何かがぶつかる音。
二人は同時に、
階段の方を見る。
割れた瓶の匂いが、
まだ、残っている。
________
______
____
ブンッ!
ブンッ!
配管パイプが、
空気を叩き潰すように振り下ろされる。
一馬は半歩だけ踏み込み、
斧の腹で受け流す。
――重い。
腕が、根元から引き抜かれるような感覚。
衝撃が肩を貫き、
指先まで痺れが走る。
一馬(……力押し、うざっ!)
後ろで、
錬次の靴底が擦れる音。
巨体ゾンビは止まらない。
配管パイプを引き戻し、
もう一度、今度は横薙ぎ。
一馬は後ろへ跳び、
斧の刃を地面すれすれで走らせる。
金属が削れ、
火花が散る。
そして突っ込み
胴体に一撃入れて下がる。
錬次「……効いてるのか?」
錬次が低く呟く。
一馬は答えない。
代わりに、
一歩、前へ出る。
間合いを詰める。
手足が長い相手に、
中間距離は死線。
配管パイプの“終点”を意識し、
振り切った瞬間に、
肩口へ斧を滑り込ませる。
――硬い。
斬れないわけでは無いが…。
骨じゃない。
筋肉でもない。
腐敗しかけた肉が、
異様な抵抗で刃を拒む。
一馬
その瞬間、
地面が揺れる。
錬次が踏み込んだ。
錬次「おぉぉッ!!」
左から
巨体の死角を狙う。
メリケンサックを嵌めた拳が、
肋骨の辺りへ叩き込まれる。
鈍い音。
だが、倒れない。
巨体ゾンビの反撃。
配管パイプが、
今度は錬次を狙う。
一馬「錬次!」
一馬が声を上げる。
錬次は半身になり、
外れたばかりの右肩を庇わず、
左で受ける。
衝撃で、
身体が横へ吹き飛ぶ。
錬次「――ッ!」
だが、
地面に倒れない。
錬次はそのまま転がり、
壁を背に立ち上がる。
息が荒い。
肩が上下する。
錬次「ははははっは……
まだだよこのボケカスッ」
歯を食いしばり、
錬次は怒り笑う。
一馬は、その瞬間を逃さない。
斧を背に左手を添えて、
右の脇に向かい、
刃を押しつけ切り込みを入れる。
狙いは、
武器じゃない。
腕だ。
巨体ゾンビの腕が
スコーンと下に垂れ下がる。
配管パイプが、
わずかに落ちる。
「今だ!」
一馬の声と同時に、
錬次が前に出る。
右。
左。
腹。
胸。
拳が、
連続して叩き込まれる。
メリケンサックが、
骨と肉の境目を抉る。
それと同時に一馬は
関節の節や裏腿の筋肉を集中的に狙う。
巨体ゾンビが、
バランスを崩し片膝をつく。
地面が、
大きく揺れる。
倒れた。
錬次「……ッ」
片腕に錬次の足首は捕まれ、
バランスを崩す。
一馬は息を詰め、
斧を構えたまま馬乗りになる。
錬次は掴んだ手を
足首から剝がそうともがく。
一馬が頭に向かって数回、
斧を振り下ろす。
ガスッ!
ガスッ!!
ガシュッ!!
動かない…
動かない…
錬次が手を剥がし立ち上がり、
一馬は仁王立ちで見下ろしている。
二人とも、
“終わった”とは思っていない。
だが――
巨体ゾンビは、
起き上がらなかった。
配管パイプが、
指先から完全に離れる。
胸が上下する様子もない。
数秒なのか、
数分なのか…。
沈黙。
一馬は、
ようやく斧を下ろす。
一馬「……止まったな」
錬次は荒い息のまま、
肩を回そうとして、
顔を歪める。
錬次「痛……っ、クソ……はは」
それでも、笑う。
錬次「勝った……よな?」
一馬は答えず、
周囲を見回す。
雑魚ゾンビの気配は、
今はもう、ない。
静けさが、
遅れて降りてくる。
一馬「……ああ」
短く答える。
二人の足元で、
巨体が、完全に動かなくなっている。
勝利を確信する瞬間だった。
静けさが、
じわりと広がる。
キィィ……
耳鳴りが、遅れて残る。
一馬は荒い呼吸のまま、
足元の巨体ゾンビに背を向ける。
巨体ゾンビは完全に動かない。
止まっている。
一馬「……はぁーーーー」
顔は天を仰ぐ。
肩から力が抜け、
斧の切っ先が、わずかに下がる。
その時
コツ。
遠くで
靴底がコンクリートを踏む音。
反射的に、
背筋が強張る。
コツ……コツ……
一定の間隔。
軽いが、迷いのない足音。
一馬は、
死線を正面に戻す
銃口…
月明かりを受けて、
金属が鈍く光る。
距離は武器を、
構えているのが認識できる距離。
静かな殺気を放ち、
こちらを、
正確に捉えている。
一馬「えっ?」
見慣れた姿に動揺が隠せない。
一馬「……隼…人さん?」
声が、
かすれる。
答えはない。
思考より先に、
身体が反応する。
ガッ――
反射的に斧を引き上げ、
頭を守ろうとするが…その瞬間。
ドンッ!!ィィン……
乾いた銃声の反響音が、
壁を跳ね回り赤い空へと消えていく。




