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DAY19 セントマーク病院②

……現在:21:45


病院は、まるで

息を潜めているようだった。


天井の蛍光灯は切られ、

非常灯だけが、

薄い血の色で廊下を染めている。


その光は揺れず、

濁った空気の中で

ぼんやりと滞留していた。


――カサッ。


紙の切れ端が、風もないのに動いた。


誰も触れていないのに。


一馬は一瞬、呼吸を止める。


耳の奥で、自分の心臓の音が脈打っている。


(……外気が変わった。

 空気の圧が、下がってる。来るな)


冷たい汗が、首筋を伝って落ちる。


鉄とカビの混じった匂い。

乾いた血が空気の湿気で

蘇ったような臭気が、鼻の奥に残る。


ナースステーションのカウンターには、

誰が置いたのかわからない

カルテが一枚だけ残っていた。


ページの隙間から、

赤黒い染みが滲んでいる。


蛍光灯の光を反射して、

まるで何かが“見ている”ようだった。


カチリ。

金属音が、指先から走る。


一馬はゆっくりと

パイプピストルを持ち上げた。


装填済み。安全装置なし。


呼吸の音さえ邪魔に感じるほど、

周囲は静まり返っている。


(瑠奈は屋上……誠は上階、錬次は地下。

 スマホはあるが通信は繋がらない。

今、ここにいるのは俺だけだ)


足元の床が微かに鳴った。


――ギィ……。


音の主は風か、

あるいは“別の何か”か。


確かめようとした瞬間、

どこか遠くのフロアで金属が落ちた音がした。


甲高く、乾いて、耳の奥に突き刺さる。


(もうすぐ……始まる)


一馬は深く息を吸い、

ゆっくりと吐いた。


外から流れ込む冷気に混じって、

遠くで、何かが這うような

音が聞こえた気がした。


夜が、確かにこちらへ向かってきている。


病院全体が、

心臓のように脈打ちはじめていた。


_________


………6時間前。


油の匂いが鼻に刺さった。


地下駐車場は、昼でも夜でもない

灰色の空気に包まれている。


錆びた鉄と埃の味が舌に残り、

誰も言葉を選ばなかった。


それぞれが動き、

その音だけが小さく反響していた。


一馬は鉄パイプ強化の斧を構え、

古いバンを押し込み、

導線を一本に絞る。

狭い通路は、罠の喉になった。


誠は黙って火炎瓶を包む。


瓶の口を布で縛り、

燃料の量を量るように揺らす。


その指先は僅かに震えていた。


誠「……本当に止められるのかな」


一馬「止める。今回も仕留める」


誠「怖いなぁ…大丈夫かな

  ちゃんと当てられるかな…。」


一馬「落ち着いて投げれば大丈夫。

的を作っておくから、

そこに投げれば問題ない。」


誠は答えず、瓶を箱に戻した。

その背中から、不安の熱が伝わる。


瑠奈は矢に布を巻いていた。

油の染みた指先を拭い、

顔を上げる。


瑠奈「風は北東。

   煙はすぐ上に流れる。

   火矢で流れを作る」


一馬「頼む。

   お前の射線が鍵だ」


彼女は小さく頷いた。


弦を弾く音が空気を割る。


緊張で震える呼吸を押し殺し、

瑠奈は視線を上げた。


瑠奈「……怖いけど、

   逃げたくはない」


一馬「ああ、俺も怖い。

   でも引いたら死ぬ。」


一瞬、目が合った。

その奥に、恐怖と決意が同居していた。


錬次は無言で

スレッジハンマーを撫でていた。


磨かれた鉄面が薄く光る。


無骨な笑みが浮かび、

肩で息を吸い込む。


錬次「むずかしい話は、わからねえが、

来たら叩く。それだけだ…だろ?」


一馬「それでいい。

   ただし突っ込みすぎるなよ」


錬次「わかってる。

テンちゃん…任せろ!!」


斧とハンマーが、

それぞれ鈍く光を返した。


熱を帯びた金属の匂いが、

夜の予感に混ざっている。


誠は目を伏せ、

小さく息を吐いた。


誠「……生きて帰ろう。

ローザに文句を言われたい」


瑠奈「そんな約束、

破ったら許さないから」


一馬「破らない。生きて戻るぞっ」


短い言葉の連なりが、

沈黙の中に吸い込まれた。


遠くで金属が落ちた音がした。

風が止まり、

埃が静かに沈む。


油の匂いが濃くなる。

空気がわずかに震え、

外の光が薄く赤みを帯びた。


夜が、近づいていた。


(──もう同じ結末はいらない)


一馬は斧の柄を握り直し、

呼吸を整える。


鉄の感触が手の中に沈む。

それが、現実の重さだった。

_________________


………現在21:55。


病院の空気は、

沈黙の膜に覆われていた。


非常灯の赤が、

壁を湿らせるように光る。


電源は落とされ、

時計の針の音だけが動く。


一馬はナースステーションで、

斧の刃を指でなぞった。


冷たい。

鉄の感触が、

心拍と同じ速さで脈打つ。


外の風が変わる。

窓の隙間から流れ込む空気は、

重く、湿って、

どこか生臭かった。


(瑠奈は上階と屋上警戒。

 誠は屋上。

 錬次は地下。

 誰もが声を潜める。)


通信は死んでいる。

頼れるのは、

呼吸と直感だけだった。


廊下の奥で、

何かが軋む音。


鉄の扉が、

風に押されたように揺れた。


誰もそこにいない。

それでも音は確かに鳴る。


(空気が、沈んでる)


耳の奥が詰まり、

時間が細く伸びていく。


一馬はゆっくり立ち上がる。

ポケットの中の弾を確かめた。


残弾、60発、

足元には光る粉塵。


金属の匂い。


遠くで、低い唸り。

風ではない。

群れでもない。

まだ遠いが、確実に来ている。


瑠奈の矢が、

屋上で弦を鳴らした。

その音が、

静寂を切り裂いた。


(……見えてるな)


一馬は呼吸を止めた。

斧を握り、

暗闇に身を沈める。


壁を伝う風の音。

誰かの息のようだ。

違う。

これは病院の呼吸だ。


床下から震えが登る。

金属が軋む。

照明が一瞬、明滅した。

影が揺れた。


(時間だ)


外の空気が、

血の匂いを運んでくる。


月の光が赤く染まり、

窓の縁を舐める。


一馬は視線を上げた。

その光が頬をかすめる。


瑠奈の手が震え、

矢先に火が灯る。


誠が瓶に導火を走らせる。

錬次がスレッジを構える。


誰も言葉を発さない。


その沈黙が、

最も雄弁だった。


息が重なり、

時間が止まる。


時計の針が、

静かに22時を指す。


赤い月が昇る。


地面が唸り、

外の壁が軋む。


何かが、

外から流れ込んでくる。


圧と音と匂い。

空気が裂けた。


一馬は斧を構えた。


心臓が一度跳ね、

思考が無音になる。


(ここからだ)


カウントダウンと共に、

夜が動いた。


壁の影が揺れ、

廊下の奥が息をした。


狂乱の血死潮(クリムゾンムーン)――


その最初の波が、

病院を呑み込んだ。

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