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第一話「二度目の人生」

 鳴り響いたチャイムの音は、まるでゴングだった。これから始まる、俺だけの孤独な戦いの開始を告げるゴングだ。

 老教師が教室に入ってきて、昨日と寸分違わぬ挨拶をする。俺は、生唾を飲み込んだ。心臓が、肋骨の内側で暴れている。隣の席に座る美咲は、教科書を開く準備をしていた。その、何気ない仕草の一つ一つが、やけに鮮明に目に焼き付く。


 ダメだ。落ち着け、俺。


 頭の中で、必死に自分に言い聞かせる。何が起きるかを知っているのは、この教室で、いや、この世界で俺一人だけだ。俺がパニックを起こしてどうする。

 チョークが黒板を叩く、乾いた音。老教師の退屈な声も、今は死刑執行を待つ間のBGMにしか聞こえない。壁の時計の秒針が、カチ、カチ、と俺の寿命を削っていく。


 まず、状況を整理しよう。

 最初の惨劇は、校庭で起こる。五時間目が始まって、おそらく三十分ほど経った頃だ。そして、パニックは校舎全体に広がり、廊下は地獄絵図と化す。俺たちの教室に「あれ」がやってくるのは、その後だ。破壊されたスライド式の扉から現れる、血塗れの体育教師……。


 思い出すだけで、全身の血が凍る。肩に、あの肉を抉られる幻の痛みが蘇った。


 ただ待っていても、同じ結末を繰り返すだけだ。今度は、美咲を突き飛ばして終わり、なんて冗談じゃない。全員をとは言わない。そんな傲慢なことは考えられない。だけど、少なくとも、美咲だけは。いや、このクラスの仲間たちを、一人でも多く……。


 どうする?

 今、ここで「ゾンビが来るぞ!」と叫んだところで、頭のおかしい奴だと思われるのが関の山だ。いたずらにパニックを引き起こし、かえって事態を悪化させるかもしれない。

 なら、どう動く?


 時間は、限られている。俺は、思考を巡らせた。教室はダメだ。出入り口は一つしかなく、窓から逃げるのはリスクが高すぎる。バリケードを築いても、あの体育教師の力の前では、気休めにしかならない。

 もっと、安全な場所。もっと、守りやすい場所……。

 脳裏に、一つの場所が浮かんだ。


 保健室だ。

 薬品もある。ベッドもあるから、バリケードの足しになる。何より、扉が内側から施錠できる、固い鉄製のドアだったはずだ。あそこなら、籠城できるかもしれない。


 決めた。

 俺は、震えるのを奥歯で噛み殺しながら、ゆっくりと右手を挙げた。

 突然の俺の行動に、クラスの何人かの視線が突き刺さる。美咲も、驚いたように俺の顔を見ていた。


「どうした、青井」


 教壇の上から、怪訝そうな声が飛んでくる。

 俺は、出来る限り苦しそうな表情を作り、声を絞り出した。


「先生、すみません。……気分が、悪いので、保健室に行ってもいいでしょうか」


 その言葉に、美咲が、はっとしたように目を見開く。朝のやり取りを思い出したのだろう。「やっぱり、具合が悪かったんじゃ……」と、その瞳が心配そうに揺れていた。

 大丈夫。心の中で、俺は彼女にだけ語りかける。今度は、絶対に、お前を守ってみせる。


「……分かった。無理はするな。静かに出ていくように」


 教師の許可が下りた。

 俺は椅子を引いて立ち上がる。クラス中の視線が、まるで重りとなって背中にのしかかるようだった。

 教室の引き戸に手をかけ、最後に、もう一度だけ美咲の方を見た。彼女と、一瞬だけ視線が合う。俺は、大丈夫だと伝えるように、微かに、ほんの微かに頷いてみせた。

 そして、俺は教室から廊下へと、一歩を踏み出した。

 静まり返った廊下。まだ、平和な時間が流れている。

 俺の二度目の戦いが、今、始まった。


 一歩、教室の外へ出ると、世界から音が消えたように感じた。

 しんと静まり返った廊下。午後の授業を告げるチャイムの残響は、もうどこにもない。窓から差し込む光の筋が、空気中の細かな埃をきらきらと照らし出している。壁一枚を隔てた教室からは、老教師のくぐもった声が微かに聞こえてくるだけだ。


 平和だ。あまりにも平和すぎる。

 この廊下を、あと数十分もしないうちに、絶叫と血飛沫が埋め尽くすことになる。

 俺は、込み上げてくる吐き気をこらえながら、足を速めた。目的地は、この階の東の端にある保健室。鼓動がうるさい。一歩進むごとに、壁の時計が視界に入る。長針が、一目盛り、また一目盛りと、無慈悲に進んでいく。


 保健室の引き戸は、幸いにも鍵がかかっていなかった。養護教諭は不在らしい。好都合だ。俺は誰に気づかれることもなく、滑るように中へ入ると、すぐさま内側から簡易な鍵をかけた。カチリ、という小さな金属音が、心にわずかな安堵をもたらす。

 消毒液の匂いが、鼻をついた。白いカーテンで仕切られたベッドが二つ。薬品棚と、スチール製の机。ここが、俺の選んだ最初の戦場だ。


 俺は、すぐに行動を開始した。

 まずは、いつでも扉を塞げるように、バリケードの準備だ。重いスチール製の机を、扉のすぐ脇まで引きずってくる。美咲が着いたら、これを一気に押し出して塞ぐ手筈だ。

 さらに、その上に乗せるための診察用の椅子も近くに寄せておく。完璧ではないが、教室で即席で組んだものよりは、遥かにましなはずだ。


 次に、武器の確保。

 薬品棚の引き出しを開ける。包帯やガーゼに混じって、金属製のトレイに乗せられたハサミと、メスがあった。メスの、冷たい輝き。俺は一瞬、それを手に取るのを躊躇した。これで、人を、あるいは、人だったものを、刺すのか。自分の手が、微かに震えていることに気づく。だが、迷っている時間はない。俺は意を決して、ハサミとメスをポケットにねじ込んだ。


 これで、最低限の準備はできた。

 だが、一番重要なことが残っている。

 俺は、ポケットからスマートフォンを取り出した。指が、汗で滑る。震える指で、メッセージアプリを起動し、たった一人の名前を呼び出した。


 美咲。


 何と送る?『ゾンビが来るから逃げろ』とでも書くか? 馬鹿げている。警察に通報されて終わりだ。

 俺は、数秒間、画面の上で指をさまよわせた後、意を決して文字を打ち込んだ。


『本当に気分が悪い。倒れそうだ。先生には内緒で、すぐに保健室まで来てくれないか?お願いだ』


 これしかない。俺の演技と、あいつの優しさに賭けるしかない。

 送信ボタンを押す。メッセージが、青い吹き出しに変わる。

 俺は、スマートフォンの画面をただ見つめた。既読の文字は、まだつかない。心臓の音が、やけに大きく聞こえる。


 頼む、美咲。信じてくれ。

 俺は祈るような気持ちで、保健室の窓から静かな校庭を見下ろした。

 終焉の時は、刻一刻と、迫っている。


 時間は、まるで粘性を帯びた液体の中を進むように、遅々として流れた。

 俺は、スマートフォンの画面をただ睨みつけていた。メッセージアプリの最後の吹き出し。そこに「既読」の二文字が灯るのを、息を殺して待ち続けている。


 本当に、この選択は正しかったのか。

 自問自答が、頭の中で渦を巻く。彼女の優しさに付け込むような、卑怯なやり方だ。もし、俺の勘違いで、ただの悪夢で、何も起こらなかったら? 俺は、ただの狼少年になるだけだ。


 いや、違う。

 肩に残る幻の痛みが、あれは紛れもない現実だったと訴えかけてくる。俺は窓際に寄り、校庭を見下ろした。そうだ、最初はあそこからだった。テニスコートの脇。数人の生徒が、ふざけ合っているように見えて……。


 その時だった。

 ポケットの中で、スマートフォンが短く震えた。

 俺は、弾かれたように画面に視線を落とす。メッセージの吹き出しの横に、「既読」の文字が灯っていた。心臓が、大きく跳ねる。そして、すぐに新しい吹き出しが現れる。


『わかった。すぐ行く。先生にはうまく言っておくから』


 美咲からの返信だった。

 安堵の息が、肺の底から漏れ出た。来てくれる。信じてくれたんだ。

 しかし、その安堵は、次の瞬間、新たな、より冷たい恐怖によって塗りつぶされた。

 俺は、再び窓の外に目をやった。

 見てしまったのだ。

 テニスコートの脇で、一人の男子生徒が、もう一人に、まるで獣のように掴みかかっているのを。あの、見覚えのある、異常な光景。


 始まってしまった。


 まずい。美咲が、今、教室を出て、こちらに向かってきている。パニックが校舎全体に広がるまで、もう時間がない。廊下は、すぐに地獄に変わる。俺は、彼女を安全な場所に呼び寄せたつもりで、実は、地獄のど真ん中を歩かせようとしているのではないか。


 間に合うのか。

 俺は、保健室の冷たい鉄の扉に耳を押し付けた。遠くから、生徒たちの甲高い声が聞こえる。まだ、それは日常のざわめきだ。


 だが、やがて、その中に異質なものが混じり始める。

 驚き。困惑。そして、一つ、また一つと、短い悲鳴が上がり始めた。

 それは、水面に落ちたインクが、じわりと広がっていくようだった。


 足音が聞こえる。一つの、規則正しい足音ではない。複数の、方向も分からず、ただ恐怖に駆られて走り回る、無数の足音だ。

 俺は、扉の鍵が確かにかかっていることを、もう一度、指先で確認した。

 頼む、美咲。早く来てくれ。

 その祈りは、廊下の向こうから響いてきた耳を裂くような絶叫によって、無残にかき消された。


 駄目だ。間に合わないかもしれない。

 廊下を埋め尽くす足音と悲鳴が、どんどんこちらへ近づいてくる。その音の奔流の中に、俺は必死で一つの足音を探していた。美咲の、上履きの音だ。


 俺のせいだ。俺が呼びさえしなければ、彼女はまだ、クラスメイトたちと一緒に教室にいられた。たとえそこが安全でなくとも、一人でこの地獄の廊下を歩くよりは、ずっとましだったに違いない。

 後悔が、鉛となって腹の底に溜まっていく。


 その時だった。

 ガン、と、すぐ目の前の扉が、外から強く叩かれた。

 俺は、びくりと身体を震わせた。心臓が、喉元までせり上がってくる。


 まさか。「あれ」か?

 いや、だとしても、扉を叩くような知性はないはずだ。だとしたら――。


「誰だ!」


 俺は、扉に張り付くようにして叫んだ。


「美咲か! 美咲なのか!」


 返事は、すぐに来た。それは、恐怖と涙に濡れた、聞き慣れた声だった。


「拓也! 開けて! 早く!」


 美咲だ。

 俺は、歓喜と安堵で震える指で、必死に鍵に手をかけた。さっき自分でかけたはずの、単純なロック。それが、今はもどかしくて仕方がない。

 外から、何かが近づいてくる気配がする。獣のような、低い唸り声。


 早く、早くしろ、俺の指!

 ようやく鍵が外れる。俺は、扉をわずかに開くと、そこから腕を伸ばして、立っていた美咲の身体を、半ば強引に中へ引きずり込んだ。

 そして、彼女が転がり込むのと同時に、背後で扉を閉め、全体重をかけて施錠する。カチャン、という音が、世界と俺たちとを隔てた。

 扉のすぐ向こうを、何かが通り過ぎていく。壁を爪で引っ掻くような、不快な音を立てながら。


 俺は、ぜえ、ぜえ、と荒い呼吸を繰り返した。背中を扉に預けたまま、ずるずるとその場に座り込む。


「拓也……。一体、何なの……。廊下で、田中くんが……」


 美咲が、床に座り込んだまま、蒼白な顔で呟く。彼女の制服の袖には、他人のものと思しき、おびただしい量の血が付着していた。


「分からない」


 俺は、首を横に振った。


「俺にも、何が起きてるのか、分からない。でも、今は、ここが一番安全なはずだ」


 嘘だ。俺は、全てを知っている。

 だが、そんなこと、言えるはずもなかった。

 俺は、助け出した彼女の顔を、そして、自分たちが立てこもるこの部屋を見渡した。

 俺の二度目の人生は、こうして彼女と共に始まった。地獄の真ん中に築いた、小さな、あまりにもか弱い砦の中で。

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