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プロローグ

 窓の外で、世界が終わろうとしていることを、まだ誰も知らなかった。

 五時間目の古典文法は、その緩慢な進行をもって生徒たちの意識を現実から引き剥がすのに十分な効力を持っていた。教壇に立つ老教師の、抑揚を失った声が反響する。乾いたチョークが黒板を叩く音だけが、やけに明瞭に鼓膜を揺らした。


 青井拓也(あおいたくや)は、頬杖をつきながらその音を聞いていた。永遠に続くかのように思える、退屈で、そしてなによりも平和な時間。彼の視線は、開かれた教科書の上を滑り、窓の外の青空へ、そして最終的にはすぐ隣の席へと吸い寄せられる。


 橘美咲(たちばな みさき)

 風に揺れる黒髪が、西日の淡い光を吸い込んで、その輪郭を柔らかく縁取っている。真剣な眼差しで黒板を見つめるその横顔を、拓也は気づかれぬよう、息を潜めて盗み見た。心臓が、微かに音を立てる。この距離が、この関係が、明日も、明後日も、変わらずに続いていくのだろう。そんな予感が、当たり前のように胸を満たしていた。


 最初に異変を捉えたのは、聴覚だったかもしれない。

 遠くで鳴っている。救急車のサイレンとは違う、もっと不協和な、耳障りな音が街の喧騒に混じり始めた。拓也が眉をひそめた、その時だった。窓際に座っていた女子生徒が、ひっと息を呑む。


「ねえ、あれ……」


 その声に、教室の弛緩した空気がわずかに震えた。数人が、つられるように窓の外へ視線を向ける。拓也も、美咲も、その一人だった。

 校庭の隅。テニスコートのフェンス際で、数人の生徒が揉み合っていた。よくある喧嘩か、あるいは悪ふざけか。教師も、まだそう判断したのだろう。咎めるような声は、窓ガラスに阻まれてこちらまで届かない。

 だが、動きが異常だった。


 一人が、もう一人の肩口に、まるで獣のように喰らいついている。引き剥がそうとする腕を振り払い、ただ執拗に、貪るように。それは、じゃれ合いの範疇を逸脱した、明らかな暴力の光景だった。

 ざわめきが、教室を満たしていく。


「静かにしろ。授業中だぞ」


 老教師の声は、しかし、もはや誰の耳にも届いてはいなかった。


 悲鳴は、すぐ間近で上がった。

 窓に駆け寄ったクラスメイトの一人が、口元を押さえて後ずさる。

 校庭では、新たな惨劇が進行していた。揉み合いを仲裁しようとした体育教師が、地面に組み伏せられている。その体に、先ほどまで生徒だったものたちが、複数、蟻のように群がっていた。


 拓也の思考が、現実を理解することを拒んだ。映画だ。手の込んだドッキリか何かに違いない。そうでなければ、説明がつかない。人が、人を、喰らうなど。

 鈍い音。赤黒い飛沫。

 隣で、美咲の呼吸が浅く、速くなっていくのが分かった。彼女の肩が、小刻みに震えている。その震えが、拓也の腕にじかに伝わってきた。


 夢ではない。これは、紛れもない現実だ。

 その認識が脳を焼いた瞬間、教室の引き戸が、ガタガタと、まるで地震のように激しく揺さぶられた。廊下から、耳を裂くような絶叫が聞こえる。


 全てが、終わった。

 クラスは一瞬でパニックの坩堝と化した。 泣き叫び、母親を呼ぶ声。机を蹴倒し、窓から飛び降りようとする男子生徒。その全てが、スローモーションのように拓也の目に映る。


 どうする。どうすればいい。


 思考が空転する。

 しかし、腕に伝わる震えだけが、彼をこの現実につなぎとめていた。


 守らなければ。

 その、ただ一つの衝動が、凍り付いた身体を突き動かした。


「美咲」


 拓也は、震える彼女の手を強く掴んだ。


「こっち」


 言葉は、それだけだった。 彼は美咲の手を引き、教室の後方へと駆け出す。

 目的は、ただ一つ。自分たちと、あの扉の向こう側にいるであろう「何か」との間に、少しでも多くの障害物を作り出すことだった。


 教室の後方には、古びたスチール製のロッカーが壁際に並んでいる。

 金属が床を擦る、耳障りな音が響く。 恐怖に泣き叫ぶだけの者、窓の外を呆然と見つめるだけの者を背に、拓也たちは教室の後方に、即席のバリケードを築き始めた。


 その時だった。

 引き戸を揺さぶっていた狂暴な音が、不意に止んだ。一瞬の静寂。 誰もが、息を呑んで扉を見つめる。


 次の瞬間、扉の中央部分への一点集中攻撃が始まった。

 鈍い衝撃音。引き戸にはめ込まれた、曇りガラスの中央に、蜘蛛の巣のような亀裂が走る。執拗に繰り返される衝撃に、ガラスが悲鳴のような軋みを上げた。


 そして、耳を裂くような甲高い破壊音と共に、ガラスが内側に向かって弾け飛んだ。

 鋭利な破片が、床に鋭い音を立てて散らばる。がらんどうになった扉の枠の向こうから、血に濡れた腕がぬっと差し込まれた。やがて、鋭いガラスの縁も厭わず、その身体が無理やりねじ込まれてくる。


 そこに立っていたのは、新たな切り傷から血を流す、先ほどまで校庭で生徒を指導していたはずの、あの体育教師だった。 だが、その目は虚ろで、焦点が合っていない。口元からは、赤黒い涎が糸を引いている。


「あ……先生……?」


 誰かが、掠れた声で呟いた。


 先生だったものは、その声に応えることなく、ただ一歩、教室に足を踏み入れた。

 ふらり、と覚束ない足取り。しかし、一番近くで立ち尽くしていた女子生徒を視界に捉えた途端、その動きは信じられないほどの俊敏さを見せた。


 一瞬の跳躍。短い悲鳴。拓也の網膜に焼き付いたのは、頚動脈を食い破られ、噴水のように血を噴き出す、クラスメイトの姿だった。

 拓也の思考は、そこで完全に停止した。


 バリケードは、意味をなさなかった。一体をやり過ごしても、その向こうには、廊下を埋め尽くすほどの「何か」が蠢いている。


 絶望。その一言が、彼の脳を支配する。


 不意に、腕を引かれた。美咲だった。彼女の顔は蒼白で、涙が止めどなく流れていたが、その瞳にはまだ、意志の光が宿っていた。


 しかし、その光も、すぐに恐怖に塗りつぶされる。

 血に濡れた体育教師が、次の獲物として、二人を認識したのだ。


 獣の唸り声。


 虚ろな目が、美咲を捉えている。

 彼女を守らなければ。そう思うのに、足が床に縫い付けられている。


 体育教師が、跳んだ。

 その瞬間、拓也の身体は、意志とは無関係に動いていた。

 彼は、美咲の身体を強く突き飛ばしていた。


 彼女が床に倒れ込むのと、拓也の肩に、燃えるような激痛が走ったのは、ほぼ同時だった。

 骨が砕ける音。 肉が引き裂かれる感触。 おびただしい量の熱が、首筋から全身へと広がっていく。視界が急速に白んでいく中で、彼が最後に見たのは、自分の惨状を信じられないといった表情で見つめる、美咲の顔だった。


 ごめん。そう呟こうとした唇は、しかし、音を発することはなかった。



 ――そして。



 電子音のけたたましい響きで、拓也は目を覚ました。

 心臓が、ありえないほどの速さで鼓動している。全身は汗で濡れ、シーツが肌に張り付いて不快だった。

 何だ。今の。


 彼は、のろのろと身体を起こした。見慣れた自室の天井。窓から差し込む朝の光。鳴り響いているのは、ベッドの脇に置いたスマートフォンのアラームだ。

 夢か。あまりにも、リアルな。


 拓也は、無意識に自分の肩に触れた。あの、肉を抉られる感触が、まだ生々しく残っている。だが、パジャマの上から触れる肌には、傷一つなかった。

 彼はスマートフォンのアラームを止め、画面に表示された日付を見て、完全に動きを止めた。


 七月四日、金曜日。午前七時。


 それは、あの悪夢が始まった、まさしくその日の朝だった。


 ◇


 湿度を含んだ夏の空気が、窓の隙間から流れ込んでくる。

 制服のワイシャツの、糊の効いた感触がやけに現実的だった。拓也は、自宅の玄関で革靴の踵を鳴らしながら、まだ夢の中にいるような、奇妙な浮遊感を覚えていた。


 あれは、夢ではなかった。

 首筋に残る、肉を食い千切られる幻のような痛み。最後に見た、美咲の絶望に歪んだ顔。

 その全てが、脳の皺一本一本に刻み込まれている。だというのに、目の前の世界は、何事もなかったかのように、いつも通りの朝を繰り返していた。テレビからは、暢気な占いコーナーの音声が流れている。


 これから、起こる。あの地獄が。

 拓也は、逸る心臓を抑えながら、通学路を歩き始めた。

 蝉の声が、アスファルトの熱気と共に立ち昇ってくる。何もかもが、昨日までの日常と変わらない。その変わらなさが、今は何よりも恐ろしかった。


 ふと、彼は空を見上げた。

 ほとんど無意識の行動だった。何かを探すでもなく、ただ、首が自然と上を向いた。

 夏の空は、抜けるように青い。しかし、その静寂の向こう側から、何かが聞こえる気がした。戦闘機のジェット音とは明らかに違う、もっと甲高く、金属的な共鳴音。耳を澄まさなければ聞き取れないほど微かだが、それは確実に存在し、大気の最も高い層を震わせている。


 目を凝らすと、さらに奇妙なものが見えた。空の頂、点のようになった空間に、光の粒が、まるで埃のように無数に浮遊している。飛行機でも、星でもない。それは、規則正しい軌道を描きながら、地球という惑星を巨大な鳥籠のように覆っている、何かの残骸のようにも見えた。


 数日前から、空は少しだけ、騒がしくなった。誰も気にも留めない、些細な変化。だが、一度死を経験した拓也の研ぎ澄まされた感覚は、その違和感を明確に捉えていた。


「拓也。おはよう」


 背後からの声に、心臓が跳ねた。振り返ると、そこにいたのは美咲だった。いつもと同じ、朝の光に透けるような、綺麗な黒髪。


「……おはよう、美咲」


 声が、少し掠れた。彼女がここにいる。生きている。その事実だけで、泣き出しそうになるのを必死でこらえた。


「どうしたの? ぼーっとして」

「いや……なんでもない。ちょっと、寝不足で」


 嘘だ。本当は、お前が死ぬ夢を見た。俺も、死んだ。そんなこと、言えるはずもない。


「ふうん。……ねえ、何か、変な音しない?」


 美咲も、小首を傾げて空を見上げた。拓也は息を呑む。彼女にも、聞こえているのか。


「気のせい、かな。飛行機でもないし……」


 彼女はすぐに興味を失ったように視線を前に戻したが、拓也の中では、得体の知れない恐怖が確信へと変わっていく。

 あれは、ただの飛行機雲ではない。あの音は、ただの騒音ではない。

 世界の終わりは、もう、始まっているのだ。


 見慣れた校門をくぐると、生徒たちの喧騒が二人を迎えた。これから起こる惨劇など微塵も感じさせない、いつも通りの光景。だが、拓也の目には、その一人一人が、死の刻印を押された存在のように映っていた。

 言いようのない孤独感と、焦燥感。


 助けなければ。全員を。

 だが、どうやって?まだ、何も分からない。

 拓也は、昇降口へ向かう人の波に身を任せながら、固く、拳を握りしめた。


 自分の席に着くまでの、わずか数十メートルの廊下が、無限の回廊のように感じられた。

 すれ違う生徒たちの、屈託のない笑い声が、まるで水中の音のように遠く聞こえる。昨日まで、自分もその一部だったはずの世界。それが、今は薄い膜一枚を隔てた、手の届かない場所にあるようだった。


 教室の扉を開ける。

 午後の気怠い空気。窓から差し込む、眠気を誘う光。これから死ぬことになるクラスメイトたちの、最後の平穏な姿がそこにあった。拓也は、誰とも視線を合わせぬよう、俯きがちに自分の席へと向かう。


「拓也、やっぱり顔色悪いよ。保健室、行く?」


 隣の席から、美咲が心配そうに声をかけてきた。

 彼女の純粋な気遣いが、ガラスの破片のように胸に突き刺さる。


「……大丈夫。本当に、ただの寝不足だから」


 そう答えるのが、精一杯だった。大丈夫なわけがない。お前は、数時間後に死ぬんだ。俺が最後に見た、あの絶望に歪んだ顔で。そんな言葉を、どうして伝えられるだろう。彼はただ、曖昧に微笑んでみせることしかできなかった。


 やがて、予鈴が鳴り、喧騒が収束していく。生徒たちがそれぞれの席に戻り、教室は水を打ったように静かになった。拓也は、息を詰めて、壁の時計を見つめる。秒針の刻む音が、まるで処刑台へのカウントダウンのように聞こえた。


 あと、数時間。

 心臓が、嫌な音を立てて軋む。


 そして、終焉を告げるチャイムが、無慈悲に、そして正確に鳴り響いた。


 老教師が、教科書を片手に入ってくる。寸分違わぬ光景。

 彼は教壇に立つと、乾いたチョークを手に取った。

 全てが、始まる。


 拓也は、隣に座る美咲の横顔を、もう一度だけ、目に焼き付けた。

 何も知らずに、ただ真直ぐに前を見つめる、その美しい横顔を。

 彼は、ただ一人、これから始まる地獄のすべてを知りながら、静かに、その時を待った。

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