第九章 忘却の街、静かな兆し
街に戻ったのは、洞を発ってから丸二日後のことだった。
空気は穏やかで、夕方の市街には変わらぬ灯りと喧騒があった。
けれど、ユウには──そのざわめきが“どこか薄い”ように感じられた。
(……誰の感情も、遠い)
感情視の波は、うっすらと浮かびながら、輪郭を持たなかった。
人々の思考が、感情に届く前に留まり、“触れない何か”に遮られている。
「……この街、ちょっと変じゃない?」
レナが、ふと口を開く。
「人はいるけど……目が、みんな、焦点合ってないというか……」
「眠ってるみたいな顔してる」
ミルフィが、小さく呟いた。
「……感情の根っこが、抑えられてる」
「でも、原因はまだ“動いてない”。……何かが、溜まってる感じ」
その言葉に、ユウは胸の奥がざわつくのを感じた。
“名前のない少女”が消えたあの洞で、確かに何かを受け取った。
忘れられた感情。
届かなかった想い。
そして、そこに触れた自分──
(ぼくは……これから、“どうするべきなんだろう”)
◆
三人は、以前訪れた薬屋の奥へ向かう。
街の片隅、看板の擦れたその店は、いまだに変わらず営業を続けていた。
けれど、受付に立つ店主の表情はどこか曇っていた。
「……やっぱり、感じておるのか」
老人は、ユウたちを見て目を細めた。
「この数日、薬が“効かない”と言って戻ってくる者が増えていてな」
「……効かない?」
「病のせいじゃない。“心”が、薬を拒んでおる」
ユウは無意識に、感情視を展開した。
老人の背後に並ぶ薬棚には、穏やかな感情の残滓がいくつも残っていた。
けれど、来客の席には──“無”に近い波形が、沈殿していた。
「……何か、失われてる」
ユウはぽつりと呟いた。
「心の底にある“なにか”が。……感情が届かないところに、沈んでる」
店主は静かに頷いた。
「この街は、古くから“忘却の霧”に触れやすい構造になっていてな」
「“強く想うこと”を放棄した者たちの残留波が、少しずつ“共有化”されていくのだ」
「そしていつか、“誰も何も感じなくなる”──そういう都市になる」
「……それって、止められないの?」
レナが声を上げる。
老人は答えなかった。ただ、瞳の奥が、何かを探るようにユウを見ていた。
「……お主、何か、“受け取った”ようじゃな」
ユウは目を伏せた。
あの洞で、少女が見せた微笑み。
“名前もない存在”が、ぼくを見て、優しく消えていった時間。
「……感情って、ほんとは、強いと思うんだ」
「届かないまま終わった想いも、何年経ってもそこに残ってるくらいに」
「だったら──それを、拾い上げることも、できるんじゃないかな」
静かだった部屋に、風が吹き込んだ。
外の夕暮れが、橙の光で室内を染める。
「なら、やってみるがよい」
老人の声が、やがて穏やかに響いた。
「“忘れられた感情”を、もう一度呼び起こすことができるか──」
「それは、感情という“奇跡”が、本当に存在するかどうかの証になる」
ユウは、ミルフィとレナの顔を見た。
二人とも、無言で頷いていた。
街を包む気配は、まだ静かだった。
けれど、その静けさの奥に、“大きな沈黙”があるのを──
ユウは、確かに感じていた。
──その日は、なぜか夕暮れが長かった。
ユウたちは薬屋を後にし、静かな街を歩いていた。
けれど“静かすぎる”その空気に、三人とも無言のままだった。
街灯が灯り始め、通りにいる人々の顔がぼんやりと照らされる。
なのに、誰ひとり──“感情の色”を持っていなかった。
「……誰か、泣いてる人とか、いないのかな」
ミルフィが、小さく呟く。
「悲しみとか、怒りとか……そういう強い感情が、一つもない」
「全部、同じ色。……同じ、空っぽの匂い」
ユウもまた、それを感じていた。
(これは、スキルの誤差じゃない)
(本当に、この街の人たちの感情が──薄れてる)
どこかで誰かが笑っていても、その“笑い”は波形として届かない。
心の中で何かを思っても、その想いは水面に届かず、底で消えていく。
それはまるで、
“人間としての輪郭”が、少しずつ剥がされていくようだった。
「……ねえ、あそこ」
レナが指さした先に、小さな路地があった。
誰もいない。けれど、なぜか空気が揺れていた。
ユウは迷わず、その路地へ足を向けた。
◆
そこには、一人の少女がいた。
腰を下ろし、小さな木箱を抱えている。
顔は伏せられ、手元の箱を指先で撫でていた。
「……こんにちは」
ユウが声をかけると、少女は驚いたように顔を上げる。
「……ひとが、来るなんて……」
その瞳は、かすかに濁っていた。
けれど、ユウのスキルには──“うっすらとした波”が映った。
(……まだ、残ってる)
“この子の感情は、完全には消えていない”。
「何してるの?」
「……これ、わたしの、大事な、きおく……」
少女が抱いていた箱の蓋が、わずかにずれていた。
中には、色あせた写真。古びたリボン。石ころ。紙くず。
どれも価値のあるものには見えないけれど──
彼女にとっては、“誰にも渡せない宝物”だった。
「……みんな、こういうの、いらないっていうの」
「重いし、思い出すとつらいし……忘れたほうが、楽だって」
「でも、わたしは……忘れたく、ないの」
その言葉に、ユウの心が動いた。
(忘れたほうが、楽)
(……それはきっと、正しいことなんだろう)
(けれど)
「忘れていいこと」と、「忘れたらいけないこと」は、違う。
ユウは、そっと少女の隣にしゃがみ込む。
「……ありがとう」
「きみが、忘れたくないって思ってくれて、助かった」
「きみの感情、ちゃんと見えるよ。届いてる」
少女は、ぽかんとユウを見つめたあと──ぽろっと涙をこぼした。
その瞬間。
スキルに映る波が、大きく弾けた。
“感情”という名の、波形。
“忘れたくない”という強さが、街に──微かに伝播していく。
◆
その夜。
街のどこかで、誰かが小さく笑い、
誰かが、ほんの少しだけ泣いた。
それは、ほんの一滴の水。
けれど、その一滴が、“完全な無感情”にヒビを入れる。
ミルフィが、空を見上げながら言った。
「……風が、変わった」
「たぶん、始まったんだと思う。止まってた感情が、少しだけ」
レナが、照れくさそうに頷く。
「……あの子のおかげ、だね」
ユウは、ふと考える。
(ぼくは、何かをしただろうか)
けれど──
“忘れたくない”と思う誰かの隣に、寄り添うこと。
それが、最初の一歩だったのかもしれない。