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第九章 忘却の街、静かな兆し


街に戻ったのは、洞を発ってから丸二日後のことだった。


空気は穏やかで、夕方の市街には変わらぬ灯りと喧騒があった。

けれど、ユウには──そのざわめきが“どこか薄い”ように感じられた。


 


(……誰の感情も、遠い)


感情視の波は、うっすらと浮かびながら、輪郭を持たなかった。

人々の思考が、感情に届く前に留まり、“触れない何か”に遮られている。


 


「……この街、ちょっと変じゃない?」


レナが、ふと口を開く。


「人はいるけど……目が、みんな、焦点合ってないというか……」


「眠ってるみたいな顔してる」


 


ミルフィが、小さく呟いた。


「……感情の根っこが、抑えられてる」


「でも、原因はまだ“動いてない”。……何かが、溜まってる感じ」


 


その言葉に、ユウは胸の奥がざわつくのを感じた。


“名前のない少女”が消えたあの洞で、確かに何かを受け取った。


忘れられた感情。

届かなかった想い。

そして、そこに触れた自分──


(ぼくは……これから、“どうするべきなんだろう”)


 



 


三人は、以前訪れた薬屋の奥へ向かう。


街の片隅、看板の擦れたその店は、いまだに変わらず営業を続けていた。


けれど、受付に立つ店主の表情はどこか曇っていた。


 


「……やっぱり、感じておるのか」


老人は、ユウたちを見て目を細めた。


「この数日、薬が“効かない”と言って戻ってくる者が増えていてな」


「……効かない?」


「病のせいじゃない。“心”が、薬を拒んでおる」


 


ユウは無意識に、感情視を展開した。

老人の背後に並ぶ薬棚には、穏やかな感情の残滓がいくつも残っていた。


けれど、来客の席には──“無”に近い波形が、沈殿していた。


 


「……何か、失われてる」


ユウはぽつりと呟いた。


「心の底にある“なにか”が。……感情が届かないところに、沈んでる」


 


店主は静かに頷いた。


「この街は、古くから“忘却の霧”に触れやすい構造になっていてな」


「“強く想うこと”を放棄した者たちの残留波が、少しずつ“共有化”されていくのだ」


「そしていつか、“誰も何も感じなくなる”──そういう都市になる」


 


「……それって、止められないの?」


レナが声を上げる。


老人は答えなかった。ただ、瞳の奥が、何かを探るようにユウを見ていた。


「……お主、何か、“受け取った”ようじゃな」


 


ユウは目を伏せた。


あの洞で、少女が見せた微笑み。

“名前もない存在”が、ぼくを見て、優しく消えていった時間。


 


「……感情って、ほんとは、強いと思うんだ」


「届かないまま終わった想いも、何年経ってもそこに残ってるくらいに」


「だったら──それを、拾い上げることも、できるんじゃないかな」


 


静かだった部屋に、風が吹き込んだ。


外の夕暮れが、橙の光で室内を染める。


 


「なら、やってみるがよい」


老人の声が、やがて穏やかに響いた。


「“忘れられた感情”を、もう一度呼び起こすことができるか──」


「それは、感情という“奇跡”が、本当に存在するかどうかの証になる」


 


ユウは、ミルフィとレナの顔を見た。


二人とも、無言で頷いていた。


 


街を包む気配は、まだ静かだった。

けれど、その静けさの奥に、“大きな沈黙”があるのを──


ユウは、確かに感じていた。



──その日は、なぜか夕暮れが長かった。


 


ユウたちは薬屋を後にし、静かな街を歩いていた。


けれど“静かすぎる”その空気に、三人とも無言のままだった。


街灯が灯り始め、通りにいる人々の顔がぼんやりと照らされる。

なのに、誰ひとり──“感情の色”を持っていなかった。


 


「……誰か、泣いてる人とか、いないのかな」


ミルフィが、小さく呟く。


「悲しみとか、怒りとか……そういう強い感情が、一つもない」


「全部、同じ色。……同じ、空っぽの匂い」


 


ユウもまた、それを感じていた。


(これは、スキルの誤差じゃない)


(本当に、この街の人たちの感情が──薄れてる)


 


どこかで誰かが笑っていても、その“笑い”は波形として届かない。

心の中で何かを思っても、その想いは水面に届かず、底で消えていく。


それはまるで、

“人間としての輪郭”が、少しずつ剥がされていくようだった。


 


「……ねえ、あそこ」


レナが指さした先に、小さな路地があった。


誰もいない。けれど、なぜか空気が揺れていた。


ユウは迷わず、その路地へ足を向けた。


 



 


そこには、一人の少女がいた。


腰を下ろし、小さな木箱を抱えている。


顔は伏せられ、手元の箱を指先で撫でていた。


 


「……こんにちは」


ユウが声をかけると、少女は驚いたように顔を上げる。


「……ひとが、来るなんて……」


 


その瞳は、かすかに濁っていた。


けれど、ユウのスキルには──“うっすらとした波”が映った。


(……まだ、残ってる)


“この子の感情は、完全には消えていない”。


 


「何してるの?」


「……これ、わたしの、大事な、きおく……」


少女が抱いていた箱の蓋が、わずかにずれていた。


中には、色あせた写真。古びたリボン。石ころ。紙くず。


どれも価値のあるものには見えないけれど──

彼女にとっては、“誰にも渡せない宝物”だった。


 


「……みんな、こういうの、いらないっていうの」


「重いし、思い出すとつらいし……忘れたほうが、楽だって」


「でも、わたしは……忘れたく、ないの」


 


その言葉に、ユウの心が動いた。


(忘れたほうが、楽)


(……それはきっと、正しいことなんだろう)


(けれど)


「忘れていいこと」と、「忘れたらいけないこと」は、違う。


 


ユウは、そっと少女の隣にしゃがみ込む。


「……ありがとう」


「きみが、忘れたくないって思ってくれて、助かった」


「きみの感情、ちゃんと見えるよ。届いてる」


 


少女は、ぽかんとユウを見つめたあと──ぽろっと涙をこぼした。


その瞬間。


スキルに映る波が、大きく弾けた。


“感情”という名の、波形。


“忘れたくない”という強さが、街に──微かに伝播していく。


 



 


その夜。


街のどこかで、誰かが小さく笑い、

誰かが、ほんの少しだけ泣いた。


それは、ほんの一滴の水。


けれど、その一滴が、“完全な無感情”にヒビを入れる。


 


ミルフィが、空を見上げながら言った。


「……風が、変わった」


「たぶん、始まったんだと思う。止まってた感情が、少しだけ」


 


レナが、照れくさそうに頷く。


「……あの子のおかげ、だね」


ユウは、ふと考える。


(ぼくは、何かをしただろうか)


けれど──


“忘れたくない”と思う誰かの隣に、寄り添うこと。


それが、最初の一歩だったのかもしれない。

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