第八章 祈りの洞、揺れる記憶
静寂という言葉が、これほど重く響いたことはなかった。
洞の奥へ進むたびに、空気は少しずつ変わっていった。
湿り気のある岩肌。
閉ざされた空間にたまる冷気。
足音が吸い込まれるような、吸音の気配。
──波形は、止まったままだった。
ただ、それは“止まっている”のではなく、
“凍っている”のだと、ユウは感じていた。
まるで、感情が深く深く沈んで、
そこからもう動かないまま、時間だけが通り過ぎたかのように。
「……レナ、大丈夫?」
ミルフィが声をかける。
「うん。ちょっとだけ、息が詰まりそうだけど……
この空気、嫌いじゃない。不思議と落ち着くの」
レナの波形は、どこか懐かしさに近い揺れを見せていた。
まるで、ずっと昔に来たことがある場所のような、
あるいは夢の中で繰り返し見た景色のような。
それは、ユウも同じだった。
ここに来たことはない。けれど──
“ここで誰かが、ずっと僕を待っていた”気がする。
誰かの気配。
それは、個人の名ではなく、
もっと曖昧で、広がりを持つ“想い”だった。
そして、それが“ユウ”という存在を静かに呼んでいた。
◆
奥へ進むと、視界が開けた。
岩でできた小さな広間。
中央には、石でできた台座があり、そこに何かが置かれていた。
それは──ぬいぐるみだった。
色褪せた、小さな白いうさぎ。
片方の耳はほどけていて、目の刺繍もほつれていた。
それでも、その場に不釣り合いなほど、
それは“あたたかさ”を帯びていた。
ユウは近づく。
ぬいぐるみに触れた瞬間──
波形が、震えた。
それは、“今”の感情ではなかった。
“過去”に置き去りにされた感情の波。
──ユウ。
耳の奥で、声がした。
呼ばれる感覚。
あの夜と同じ。
いや、それ以上に、輪郭がはっきりしていた。
「……だれ?」
思わず呟いた声は、岩に反響して消えた。
けれど、返事のように、
ぬいぐるみから微かに“光”が漏れた。
それは、感情視でしか見えない“記憶の波形”。
ユウはそっと目を閉じて、その光に触れた。
──そこには、ひとつの記憶があった。
小さな部屋。
窓から陽が差し、風がカーテンを揺らしている。
少女がぬいぐるみを抱きしめて、微笑んでいた。
その隣に、もうひとつの姿。
黒髪の少年。
けれど、その顔は霞んで見えない。
(僕──なのか?)
記憶は断片的で、はっきりしない。
けれど、“あたたかさ”だけは、確かだった。
その空間にあったのは、“一緒にいる”という安心。
言葉もなく、ただぬくもりだけを共有していた。
その感情の核に、触れた瞬間。
ユウの心が、わずかに痛んだ。
胸の奥に、ずっと前からあった“空洞”。
それが、少しだけ震えた。
「……ここに、誰かを置いてきた?」
気づかぬうちに、誰かの感情を“忘れてきた”のではないか。
そんな予感が、静かに波紋のように広がっていった。
──レナが言った。
「ユウ……あのぬいぐるみ、“わたしも見たことがある気がする”」
ミルフィも言った。
「わたしも……夢の中で、何度か」
その言葉に、ユウは目を見開いた。
“他人の感情”ではない。
この場所にあるのは──
“共鳴する記憶”。
それぞれがどこかで“触れた”はずの、
だけど思い出せないまま沈んでいた、誰かとの時間。
──この洞窟は、記憶を閉じ込めている。
ただの祈りの場所ではない。
これは、誰かが“忘れられない”感情を封じた、“心の牢”なのだ。
ユウのスキルが揺れる。
その力は、ただ“感情を視る”ものではなかった。
もっと深く──“記憶と心の連結”に作用する何か。
(……だったら僕は、これを見なきゃいけない)
この感情の持ち主を。
この記憶の中に残された、“呼びかけ”を。
ユウは、ぬいぐるみに再び触れた。
次の瞬間、
視界が、音もなく、暗転した。
──静けさのなかに、微かな音があった。
ユウは“それ”を、波形ではなく、直接感じ取った。
ぬいぐるみに触れた指先が、まるで誰かの掌に包まれているような。
温度のないはずの記憶の中に、確かに“熱”があった。
(……ここは、どこ?)
視界は淡く、白んでいた。
まるで霧のなかに立たされているようだった。
けれど、そこには風が吹き、空があり──
足元には草の匂いすら感じた。
──これは、記憶ではない。
そう、“記憶そのものの世界”だ。
想いが濃すぎて、感情が形を持ってしまった場所。
誰かが抱きつづけた、消えなかった願いの最後の座標。
「──ユウ?」
背中から声が聞こえた。
振り返ると、そこには──少女がいた。
年の頃はユウと同じくらい。
白いワンピースに、長い髪をなびかせた少女。
その手には、あのぬいぐるみが抱かれていた。
(……知らない顔だ)
けれど、どこかで──“知っている気がする”。
名を呼ぼうとして、言葉が詰まる。
相手もまた、ユウを見つめていた。
まるで、“初めて会ったはずなのに、覚えている”というように。
「……来てくれたんだね」
その一言に、ユウの胸が締めつけられた。
「ぼく……きみを、知ってる?」
少女は首を横に振る。
「ううん。でも、あなたは、わたしの願いの中に来てくれた」
「それで、充分なの」
少女は、空を見上げた。
「……わたしね、ここでずっと待ってたの」
「“忘れられる”ってことが、こんなに寂しいなんて、知らなかった」
「でも、忘れた人を責めたくなるほど、
本当に好きだった気持ちまで、いっしょに消えちゃいそうで──」
「だからずっと、ここにいたの。
“忘れないように”じゃなくて、“忘れられても大丈夫なように”って」
ユウの目の奥に、波が灯る。
(……これは、誰かの“記憶”じゃない)
(誰かの、“未練”だ)
言葉にできなかった想い。
叫ぶことすら叶わなかった感情。
そのすべてが、ぬいぐるみという形に託され、
この洞の底で、静かに、凍っていた。
「……きみの名前は?」
「ないの」
「ここに来るとき、“わたし”っていう名前も、全部置いてきちゃったから」
少女は笑う。
けれど、その笑顔はどこまでも悲しかった。
ユウは、そっとぬいぐるみに手を伸ばした。
「……きみの気持ち、見えるよ」
「全部は救えないかもしれない。けど──受け取ることはできる」
「それが、僕のスキルだから」
少女は、目を見開いたあと──微笑んだ。
「……やっぱり、あなたは変わらないね」
その言葉の意味を、ユウは理解できなかった。
けれど。
その瞬間、少女の身体が、淡く光り始めた。
「これで、終わりなの。もう、大丈夫」
「わたしを“知ってくれた人”が、ちゃんと来てくれたから」
「……ありがとう、ユウくん」
その名を呼ばれたとき、
ユウの中に、何かが響いた。
“君”と過ごした時間。
笑い声。ぬいぐるみ。陽だまりの部屋。
それらが、記憶という形ではなく、“感覚”として戻ってくる。
そして、涙がこぼれた。
理由はわからない。
けれど、それは確かに、“失った何か”に触れた涙だった。
光が満ちる。
少女は、優しく、穏やかに、消えていった。
──微笑みだけを残して。
◆
目を開けると、洞のなかに戻っていた。
レナが、ミルフィが、心配そうにユウを覗き込んでいる。
「……戻ってきた」
「ユウ、大丈夫? 目、赤いよ……」
「うん、……大丈夫。ちょっと、涙が出ただけ」
ミルフィが、床を見て言った。
「……ぬいぐるみ、消えてる」
レナも、ゆっくり頷いた。
「……きっと、もう“ここにいなくていい”って、思えたんだよ」
ユウは、洞の奥に視線を送る。
誰のものでもない願い。
けれど、確かに“届いた”想い。
(僕は、……このスキルで)
(……忘れられた感情を、拾い上げることができる)
それが、救いになるのかはわからない。
けれど──
もう一度、誰かの心を繋ぐことは、きっとできる。
洞の外に出た瞬間、
まぶしい陽光が差し込んだ。
ユウの目は、少し細められて。
その奥にある何かが、少しだけ“ほどけた”ように感じられた。