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第八章 祈りの洞、揺れる記憶


静寂という言葉が、これほど重く響いたことはなかった。


 


洞の奥へ進むたびに、空気は少しずつ変わっていった。


湿り気のある岩肌。

閉ざされた空間にたまる冷気。

足音が吸い込まれるような、吸音の気配。


 


──波形は、止まったままだった。


ただ、それは“止まっている”のではなく、

“凍っている”のだと、ユウは感じていた。


まるで、感情が深く深く沈んで、

そこからもう動かないまま、時間だけが通り過ぎたかのように。


 


「……レナ、大丈夫?」


ミルフィが声をかける。


「うん。ちょっとだけ、息が詰まりそうだけど……

 この空気、嫌いじゃない。不思議と落ち着くの」


 


レナの波形は、どこか懐かしさに近い揺れを見せていた。


まるで、ずっと昔に来たことがある場所のような、

あるいは夢の中で繰り返し見た景色のような。


 


それは、ユウも同じだった。


ここに来たことはない。けれど──

“ここで誰かが、ずっと僕を待っていた”気がする。


 


誰かの気配。


それは、個人の名ではなく、

もっと曖昧で、広がりを持つ“想い”だった。


そして、それが“ユウ”という存在を静かに呼んでいた。


 



 


奥へ進むと、視界が開けた。


岩でできた小さな広間。

中央には、石でできた台座があり、そこに何かが置かれていた。


 


それは──ぬいぐるみだった。


色褪せた、小さな白いうさぎ。


片方の耳はほどけていて、目の刺繍もほつれていた。


それでも、その場に不釣り合いなほど、

それは“あたたかさ”を帯びていた。


 


ユウは近づく。


ぬいぐるみに触れた瞬間──

波形が、震えた。


それは、“今”の感情ではなかった。


“過去”に置き去りにされた感情の波。


 


 


──ユウ。


 


 


耳の奥で、声がした。


呼ばれる感覚。

あの夜と同じ。


いや、それ以上に、輪郭がはっきりしていた。


 


「……だれ?」


思わず呟いた声は、岩に反響して消えた。


けれど、返事のように、

ぬいぐるみから微かに“光”が漏れた。


それは、感情視でしか見えない“記憶の波形”。


ユウはそっと目を閉じて、その光に触れた。


 


──そこには、ひとつの記憶があった。


 


小さな部屋。

窓から陽が差し、風がカーテンを揺らしている。


少女がぬいぐるみを抱きしめて、微笑んでいた。


その隣に、もうひとつの姿。

黒髪の少年。

けれど、その顔は霞んで見えない。


 


(僕──なのか?)


 


記憶は断片的で、はっきりしない。


けれど、“あたたかさ”だけは、確かだった。


その空間にあったのは、“一緒にいる”という安心。


言葉もなく、ただぬくもりだけを共有していた。


 


その感情の核に、触れた瞬間。


ユウの心が、わずかに痛んだ。


胸の奥に、ずっと前からあった“空洞”。


それが、少しだけ震えた。


 


「……ここに、誰かを置いてきた?」


 


気づかぬうちに、誰かの感情を“忘れてきた”のではないか。


そんな予感が、静かに波紋のように広がっていった。


 


 


──レナが言った。


「ユウ……あのぬいぐるみ、“わたしも見たことがある気がする”」


ミルフィも言った。


「わたしも……夢の中で、何度か」


 


その言葉に、ユウは目を見開いた。


“他人の感情”ではない。

この場所にあるのは──


“共鳴する記憶”。


それぞれがどこかで“触れた”はずの、

だけど思い出せないまま沈んでいた、誰かとの時間。


 


 


──この洞窟は、記憶を閉じ込めている。


ただの祈りの場所ではない。


これは、誰かが“忘れられない”感情を封じた、“心の牢”なのだ。


 


ユウのスキルが揺れる。


その力は、ただ“感情を視る”ものではなかった。


もっと深く──“記憶と心の連結”に作用する何か。


 


(……だったら僕は、これを見なきゃいけない)


 


この感情の持ち主を。


この記憶の中に残された、“呼びかけ”を。


 


ユウは、ぬいぐるみに再び触れた。


次の瞬間、

視界が、音もなく、暗転した。




──静けさのなかに、微かな音があった。


 


ユウは“それ”を、波形ではなく、直接感じ取った。


ぬいぐるみに触れた指先が、まるで誰かの掌に包まれているような。

温度のないはずの記憶の中に、確かに“熱”があった。


 


(……ここは、どこ?)


 


視界は淡く、白んでいた。

まるで霧のなかに立たされているようだった。


けれど、そこには風が吹き、空があり──

足元には草の匂いすら感じた。


──これは、記憶ではない。


そう、“記憶そのものの世界”だ。


想いが濃すぎて、感情が形を持ってしまった場所。

誰かが抱きつづけた、消えなかった願いの最後の座標。


 


「──ユウ?」


 


背中から声が聞こえた。


振り返ると、そこには──少女がいた。


年の頃はユウと同じくらい。

白いワンピースに、長い髪をなびかせた少女。


その手には、あのぬいぐるみが抱かれていた。


 


(……知らない顔だ)


けれど、どこかで──“知っている気がする”。


名を呼ぼうとして、言葉が詰まる。


相手もまた、ユウを見つめていた。

まるで、“初めて会ったはずなのに、覚えている”というように。


 


「……来てくれたんだね」


その一言に、ユウの胸が締めつけられた。


「ぼく……きみを、知ってる?」


少女は首を横に振る。


「ううん。でも、あなたは、わたしの願いの中に来てくれた」


「それで、充分なの」


 


少女は、空を見上げた。


「……わたしね、ここでずっと待ってたの」


「“忘れられる”ってことが、こんなに寂しいなんて、知らなかった」


「でも、忘れた人を責めたくなるほど、

 本当に好きだった気持ちまで、いっしょに消えちゃいそうで──」


「だからずっと、ここにいたの。

 “忘れないように”じゃなくて、“忘れられても大丈夫なように”って」


 


ユウの目の奥に、波が灯る。


(……これは、誰かの“記憶”じゃない)


(誰かの、“未練”だ)


言葉にできなかった想い。

叫ぶことすら叶わなかった感情。


そのすべてが、ぬいぐるみという形に託され、

この洞の底で、静かに、凍っていた。


 


「……きみの名前は?」


「ないの」


「ここに来るとき、“わたし”っていう名前も、全部置いてきちゃったから」


少女は笑う。


けれど、その笑顔はどこまでも悲しかった。


 


ユウは、そっとぬいぐるみに手を伸ばした。


「……きみの気持ち、見えるよ」


「全部は救えないかもしれない。けど──受け取ることはできる」


「それが、僕のスキルだから」


 


少女は、目を見開いたあと──微笑んだ。


「……やっぱり、あなたは変わらないね」


 


その言葉の意味を、ユウは理解できなかった。


けれど。


その瞬間、少女の身体が、淡く光り始めた。


 


「これで、終わりなの。もう、大丈夫」


「わたしを“知ってくれた人”が、ちゃんと来てくれたから」


「……ありがとう、ユウくん」


 


その名を呼ばれたとき、

ユウの中に、何かが響いた。


“君”と過ごした時間。

笑い声。ぬいぐるみ。陽だまりの部屋。


それらが、記憶という形ではなく、“感覚”として戻ってくる。


そして、涙がこぼれた。


理由はわからない。


けれど、それは確かに、“失った何か”に触れた涙だった。


 


光が満ちる。


少女は、優しく、穏やかに、消えていった。


──微笑みだけを残して。


 


 



 


目を開けると、洞のなかに戻っていた。


レナが、ミルフィが、心配そうにユウを覗き込んでいる。


「……戻ってきた」


「ユウ、大丈夫? 目、赤いよ……」


「うん、……大丈夫。ちょっと、涙が出ただけ」


 


ミルフィが、床を見て言った。


「……ぬいぐるみ、消えてる」


レナも、ゆっくり頷いた。


「……きっと、もう“ここにいなくていい”って、思えたんだよ」


 


ユウは、洞の奥に視線を送る。


誰のものでもない願い。


けれど、確かに“届いた”想い。


 


(僕は、……このスキルで)


(……忘れられた感情を、拾い上げることができる)


それが、救いになるのかはわからない。


けれど──


もう一度、誰かの心を繋ぐことは、きっとできる。


 


洞の外に出た瞬間、

まぶしい陽光が差し込んだ。


ユウの目は、少し細められて。

その奥にある何かが、少しだけ“ほどけた”ように感じられた。


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