第七章 遠くの声、近くの手
丘を越えて、街に戻る途中の夕暮れ。
小道の端で、レナがふと立ち止まった。
「ユウ……いま、誰かの声が聞こえた気がした」
「……声?」
「ううん、ほんとに“気がした”だけ。でも……遠くから、“助けて”って」
レナの波形が揺れていた。
青とも白ともつかない、輪郭の薄い感情。
けれどそれは、確かに“誰かの痛み”に触れた時の色だった。
僕も、耳を澄ませた。
風はある。音もある。
でも──“届かない何か”が、確かに揺れていた。
「……気のせい、じゃないかもしれない」
僕はそう言って歩みを止めた。
レナとミルフィも黙って僕を見た。
空は赤く染まり、日が沈もうとしていた。
その色が、なぜか不安をかき立てた。
「今日は……宿をとろう」
「無理に先へ進んでも、“届かない”ままになる」
その言葉の意味を、ふたりはすぐに理解してくれた。
宿に泊まって、静かに“受け取る時間”を持つこと。
それが、この旅では何より重要なことだった。
◆
その夜。
宿の一室で、僕は目を閉じていた。
何も言わず、何も考えず、
ただ、“波”が来るのを待っていた。
スキルを強制的に使うのではなく、
ゆっくりと、自然に。
すると──ふと、浮かんできた。
「ユウ──」
それは、名前だった。
けれど、声ではなかった。
どこか懐かしくて、遠くて、
でも確かに“僕を呼ぶ”ものだった。
耳の外ではなく、心の奥で聞こえる声。
記憶の底に沈んでいた、“誰かの声”。
波形が揺れた。
──“ユウ”という名に反応して。
レナでもミルフィでもない。
この波は、“僕の中”にあるものだった。
感情視は、他人のものを映すだけのはずだった。
なのに、いま、僕の中で波が立っていた。
──なぜ?
誰かの感情に触れて、それを読み取るだけの力。
そう信じていた。
でも、それだけではないのかもしれない。
“呼ばれている”感覚が、こんなにも鮮明だということは──
「……僕の感情も、誰かに“見られている”のか?」
そう呟いた瞬間、身体が微かに震えた。
風もない部屋で、心だけが揺れていた。
◆
「ユウ、起きてる?」
隣の部屋から、小さくレナの声がした。
「うん、起きてる」
扉越しに、声が交わる。
「……怖くて。さっきの“声”のせいかもしれないけど、変な夢、見た」
「自分のことじゃない誰かが、すごく辛そうにしてるのに、
わたしはそれを、ただ見てるだけで……」
「何もできない自分が、そこにいるのが、怖かった」
僕はしばらく黙っていた。
そして、静かに返す。
「……わかるよ。それ、僕もよく見る」
「見えてるのに、手が届かない」
「叫んでも、誰にも聞こえない」
「でもね、レナ」
「“誰かに見られてる”って感じるのは、
誰かが、“ずっと見てきた”って証拠だよ」
「レナの中に残ってるその感覚は、たぶん……
誰かの心を、ほんとうに感じた証なんだ」
沈黙のあと、扉の向こうで、レナが呟いた。
「……うん。ありがとう。なんか、少しだけ眠れそう」
誰かの声が聞こえる。
けれど、その声は、いまは届かない。
それでも、確かに“呼ばれている”。
それだけは、はっきりとわかっていた。
波形が、静かに揺れていた。
自分の中に。
そして、扉の向こうにも。
僕たちは、誰かの“見えない感情”と、
確かに、繋がっているのだと思った。
夜が明けるころ、ユウは夢を見ていた。
それは“記憶”ではなかった。
けれど、“忘れられたもの”に似ていた。
──誰かの泣き声。
──名もない手の温度。
雪のような匂いのする風のなか、
誰かの肩に、小さな手が重ねられていた。
(……これは、僕じゃない)
けれど、その“孤独”には、覚えがあった。
◆
「ユウ、起きて」
レナの声に、まぶたが開く。
朝の光がカーテン越しに滲んでいた。
「朝ごはん、ミルフィが作ってくれてるよ」
「……ありがとう。すぐ行く」
ベッドの縁に腰を下ろしながら、
ユウは、夢のなかの“感触”をもう一度たどった。
あの誰かは、何者だったのか。
あの泣き声は、なぜ“自分に向けられていた”ように聞こえたのか。
それは、まだわからない。
けれど、あの夢が──
昨日の“名のない影”に、どこか似ていたことだけは確かだった。
◆
朝食を食べ終えると、ミルフィが静かに言った。
「昨日の“声”、まだ感じてる」
「たぶんね……この街の外れ、東に続く林の奥。そこに何かある」
レナが顔を上げた。
「そこ……もしかして、“無垢の洞”?」
「うん。昔、使われてた祈りの場。
でも今は誰も近づかない。理由は、わからないまま」
ユウは、地図を手にとった。
確かにその場所には、うっすらと薄墨のような影が記されていた。
「波が、止まってる」
「まるで……その場所で、“時間”だけが流れてないみたいな」
それは、“感情視”にしか見えない異変だった。
だからこそ──行く理由になる。
「行ってみよう。“呼んでる声”の主が、そこにいる気がする」
◆
昼前、街を出た三人は林を抜け、丘を越え、
やがて“それ”を見つけた。
──祈りの洞。
それは、地面にぽっかりと空いた大きな縦穴のようだった。
苔が生い茂り、誰の足跡もない。
ただそこに、冷たい風だけが吹き抜けている。
レナが小さく息を呑んだ。
「ユウ……なにか、見える?」
「……うん。波が、底で止まってる」
「強くはない。でも、ずっと同じ場所にとどまってるんだ」
「“誰かの願い”が、そこに置き去りにされてるような感じがする」
ミルフィが一歩、前へ出た。
「……中に入れる。崩れてない。行こう」
そのときだった。
風が止まる。
空気の層が、目の前で変わる。
──波形が、乱れた。
でも、それは“敵意”ではなかった。
どこか、ずっと遠くから届く“懐かしさ”に似ていた。
「誰かが……ここで、ずっと“待ってる”」
ユウは呟いた。
誰のためでもなく。
ただ、“誰かが来る”のを信じて。
祈るように、呼ぶように、波を出し続けて──
その“呼びかけ”が、今ようやく届いた。
レナも、ミルフィも、言葉をなくしたまま立ち尽くしていた。
──まるで、全員の“過去”が、この場所とどこかで繋がっているようだった。
洞の入り口に差しかかると、ユウは静かに手を伸ばした。
空気が震える。
その波紋が、洞の奥へと吸い込まれていく。
──返ってきた波形は、微かな“光”。
それは、名もない、けれど確かな“感情”。
「……行こう。ここからは、ちゃんと“聞く”時間だ」
誰かの声を。
名もなき想いを。
そして、見えない過去を──
受け取るために。