第六章 気配の影と、名前のないもの
街を離れて二日目。
西へ向かう道は、穏やかな丘陵を抜ける細い街道だった。
けれど、その静けさには、どこか不自然な沈黙があった。
鳥の声がしない。
虫の羽音も、風の擦れる音も──どこか、遅れて届くような感覚。
「……なんか、変だよね」
レナがぽつりと呟いた。
僕も頷いた。
静かすぎる。空気に“遅れ”がある。
感情視を試す。
けれど──視界の波は、ほとんど反応しなかった。
人の気配どころか、
風や生き物の“残り香”すら、波形に現れない。
「感情が……薄い?」
僕の言葉に、ミルフィが静かに応えた。
「……ここ、何かに“抜かれてる”」
「気配ごと、感情の痕跡がなくなってる。……わたしも、ちょっと怖い」
彼女の言う“怖い”は、ただの恐怖ではなかった。
それは、自分がかつて“見られていたもの”と、
この空気が“同じだ”と感じている──そんな声だった。
◆
丘を一つ越えると、小さな集落が見えた。
けれど、そこには誰もいなかった。
家は崩れていない。
物も荒らされていない。
食器もそのまま、椅子も倒れていない。
けれど、“気配”がなかった。
まるで、人の存在そのものが、
輪郭だけを残して“蒸発”したような場所。
僕たちは、そっとその村に足を踏み入れた。
「……本当に、誰もいない」
レナの声が、かすれていた。
「声をかけたくなるけど、返事がないってわかってるの、変な感じ」
「空っぽなのに、“見られてる”気がするのも、変だよね」
僕は頷いた。
感情視を再起動させるように、深く息を吸う。
──その瞬間、かすかに“歪み”があった。
誰かがいる。
でも、それは“感情”としての誰かではない。
視界の端で、揺れた何かがあった。
影。
それは、“感情の形を持たない”存在だった。
怒りも、悲しみも、苦しみも──何もない。
ただ、感情という“概念”の外側から、
この世界を“見ているもの”。
「……ユウ、そこにいる?」
ミルフィが僕にだけ聞いた。
「うん。見えてる。けど、波が出ない」
「わたしも、感じてる。でも……私じゃ、波を出せない」
その瞬間、視界が“裏返る”ような感覚に包まれた。
家の壁が歪む。
空が二重に見える。
風の音が、左耳から入って右肩を抜けるように、ずれる。
──世界の“向こう側”と、こちらが重なり始めている。
「来るよ」
ミルフィの声が震えた。
それは確信だった。
彼女の感情波が、黒に染まりかけ、
レナの波がそれに反応するように、橙と白で揺れる。
共鳴。
“存在しないもの”が、存在を押しつけてくるとき、
そこにあるのは──名前ではなく、形でもなく、
“感覚の侵入”だった。
僕は静かに剣を抜いた。
けれど、斬れる気がしなかった。
これは、刃が届くものではない。
だからこそ──
「“感情”で、押し返すしかない」
僕はそう、思った。
そして次の瞬間、
“それ”は、音もなく目の前に立っていた。
輪郭のない目で、僕たちを“見ていた”。
“それ”は、確かにそこにいた。
視界の中心にあるのに、焦点が合わない。
形はあるのに、色がない。
音もないのに、気配だけが重たく沈んでいた。
誰の感情も持たない存在。
怒りも、憎しみも、悲しみさえも──ない。
だからこそ、斬れない。
どこにも“心”がないものに、
剣は届かない。
「ユウ……っ」
レナの声が、微かに震える。
その感情が、視界の隅に波を生んだ。
青く、白く、橙に揺れて──
それが、波形として“立ち上がる”。
その波が、“それ”に触れた瞬間。
──違和感が走った。
ほんの少しだけ、影が“揺れた”ように見えた。
触れてはいない。
けれど、そこに“干渉”が起きていた。
「感情……通じる?」
「……わからない。でも、何かが、届きかけた」
僕は、剣を静かに納めた。
代わりに、一歩前へ出る。
呼吸を整える。
意識を、波に集中する。
レナの感情、ミルフィの感情、
そして僕自身が感じている、この得体の知れない“怖れ”。
それらすべてを、重ねて──
“波”として、放つ。
すると、“それ”が──動いた。
形を、わずかに崩すように揺れた。
色のない影に、微かに“灰”が滲む。
それは、“感情の輪郭”が生まれかけた瞬間だった。
ミルフィが、震える声で言った。
「それ……“名前”がないんだ」
「何者かじゃない。“誰か”になったことがないまま、
ただ、ずっと……他人の“気配”だけを食べて、生きてる」
「だから……自分の気配も、感情も、もたないまま」
「“誰かになりたい”って……ずっと思ってるのかもしれない」
その言葉に、“それ”の輪郭が少しだけ緩む。
まるで、動揺したように。
──波が返ってきた。
微かな、かすかな“色”。
“赤”に似て、“青”に近く、
けれどどちらでもない、不定形の感情。
「名前がほしいなら……名前じゃなくていい」
僕は、静かに言った。
「誰かにならなくてもいい。ただ──」
「“誰かと触れたい”って、その気持ちだけがあるなら──」
「それは、もう“感情”だよ」
視界の影が、微かに揺れた。
風が止まった。
時間が、一瞬だけ伸びる。
空気の膜のような何かが、剥がれるように──
“それ”は、消えた。
◆
あとには、ただ静かな空気が残った。
視界の波は、ゆるやかに戻ってきた。
レナの波は、白に近く、
ミルフィの波は、ほんの少しだけ“橙”を帯びていた。
「……去った?」
レナが、小さく聞く。
「うん。たぶん、ちゃんと、“触れた”から」
「戦わなくても、届くことがあるんだね……」
ミルフィは、黙ったまま、
空を見上げていた。
空は、歪んでいなかった。
雲は形を持ち、陽は輪郭を映し、
草の色が、少しだけ濃くなっていた。
「名前がないままで、生きてる存在って──
なんだか、自分みたいだった」
ミルフィが呟いた。
「何者かじゃなくて、誰でもなくて、
ただ、人の気配だけを感じながら……」
「でも、今は──ちょっとだけ、“自分がいる”って思える」
その言葉が、僕の胸に静かに落ちた。
誰かになる必要はない。
ただ、“いる”と感じられることが、
人の形をした“何か”にとっては、
とても大きな意味を持つ。
◆
街へ戻る道すがら、風が少し強くなった。
レナが振り向いて言った。
「ユウ、いま、何か見えてる?」
「ううん。……ちゃんと、見えなくなってる」
「そっか……じゃあ、行こうか」
レナはそう言って、前を向いた。
その後ろ姿に重なるように、ミルフィも歩き出す。
僕もあとを追いながら、
ふと視界の端に、“何もない”ことを確認した。
それが、少しだけ──静かな安心だった。