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第六章 気配の影と、名前のないもの


街を離れて二日目。

西へ向かう道は、穏やかな丘陵を抜ける細い街道だった。


けれど、その静けさには、どこか不自然な沈黙があった。


鳥の声がしない。


虫の羽音も、風の擦れる音も──どこか、遅れて届くような感覚。


 


「……なんか、変だよね」


レナがぽつりと呟いた。


僕も頷いた。

静かすぎる。空気に“遅れ”がある。


感情視を試す。


けれど──視界の波は、ほとんど反応しなかった。


人の気配どころか、

風や生き物の“残り香”すら、波形に現れない。


 


「感情が……薄い?」


僕の言葉に、ミルフィが静かに応えた。


「……ここ、何かに“抜かれてる”」


「気配ごと、感情の痕跡がなくなってる。……わたしも、ちょっと怖い」


彼女の言う“怖い”は、ただの恐怖ではなかった。


それは、自分がかつて“見られていたもの”と、

この空気が“同じだ”と感じている──そんな声だった。


 



 


丘を一つ越えると、小さな集落が見えた。


けれど、そこには誰もいなかった。


家は崩れていない。

物も荒らされていない。

食器もそのまま、椅子も倒れていない。


けれど、“気配”がなかった。


まるで、人の存在そのものが、

輪郭だけを残して“蒸発”したような場所。


 


僕たちは、そっとその村に足を踏み入れた。


「……本当に、誰もいない」


レナの声が、かすれていた。


「声をかけたくなるけど、返事がないってわかってるの、変な感じ」


「空っぽなのに、“見られてる”気がするのも、変だよね」


 


僕は頷いた。


感情視を再起動させるように、深く息を吸う。


──その瞬間、かすかに“歪み”があった。


誰かがいる。


でも、それは“感情”としての誰かではない。


視界の端で、揺れた何かがあった。


 


影。


それは、“感情の形を持たない”存在だった。


怒りも、悲しみも、苦しみも──何もない。


ただ、感情という“概念”の外側から、

この世界を“見ているもの”。


 


「……ユウ、そこにいる?」


ミルフィが僕にだけ聞いた。


「うん。見えてる。けど、波が出ない」


「わたしも、感じてる。でも……私じゃ、波を出せない」


 


その瞬間、視界が“裏返る”ような感覚に包まれた。


家の壁が歪む。

空が二重に見える。

風の音が、左耳から入って右肩を抜けるように、ずれる。


──世界の“向こう側”と、こちらが重なり始めている。


 


「来るよ」


ミルフィの声が震えた。


それは確信だった。


彼女の感情波が、黒に染まりかけ、

レナの波がそれに反応するように、橙と白で揺れる。


共鳴。


“存在しないもの”が、存在を押しつけてくるとき、

そこにあるのは──名前ではなく、形でもなく、


“感覚の侵入”だった。


 


僕は静かに剣を抜いた。


けれど、斬れる気がしなかった。


これは、刃が届くものではない。

だからこそ──


「“感情”で、押し返すしかない」


僕はそう、思った。


 


そして次の瞬間、

“それ”は、音もなく目の前に立っていた。


輪郭のない目で、僕たちを“見ていた”。



“それ”は、確かにそこにいた。


視界の中心にあるのに、焦点が合わない。

形はあるのに、色がない。

音もないのに、気配だけが重たく沈んでいた。


 


誰の感情も持たない存在。

怒りも、憎しみも、悲しみさえも──ない。


だからこそ、斬れない。


どこにも“心”がないものに、

剣は届かない。


 


「ユウ……っ」


レナの声が、微かに震える。


その感情が、視界の隅に波を生んだ。


青く、白く、橙に揺れて──


それが、波形として“立ち上がる”。


 


その波が、“それ”に触れた瞬間。


──違和感が走った。


ほんの少しだけ、影が“揺れた”ように見えた。


触れてはいない。

けれど、そこに“干渉”が起きていた。


 


「感情……通じる?」


「……わからない。でも、何かが、届きかけた」


僕は、剣を静かに納めた。


代わりに、一歩前へ出る。


呼吸を整える。


意識を、波に集中する。


 


レナの感情、ミルフィの感情、

そして僕自身が感じている、この得体の知れない“怖れ”。


それらすべてを、重ねて──


“波”として、放つ。


 


 


すると、“それ”が──動いた。


形を、わずかに崩すように揺れた。


色のない影に、微かに“灰”が滲む。


それは、“感情の輪郭”が生まれかけた瞬間だった。


 


ミルフィが、震える声で言った。


「それ……“名前”がないんだ」


「何者かじゃない。“誰か”になったことがないまま、

 ただ、ずっと……他人の“気配”だけを食べて、生きてる」


「だから……自分の気配も、感情も、もたないまま」


「“誰かになりたい”って……ずっと思ってるのかもしれない」


 


その言葉に、“それ”の輪郭が少しだけ緩む。


まるで、動揺したように。


──波が返ってきた。


微かな、かすかな“色”。


“赤”に似て、“青”に近く、

けれどどちらでもない、不定形の感情。


 


「名前がほしいなら……名前じゃなくていい」


僕は、静かに言った。


「誰かにならなくてもいい。ただ──」


「“誰かと触れたい”って、その気持ちだけがあるなら──」


「それは、もう“感情”だよ」


 


視界の影が、微かに揺れた。


風が止まった。


時間が、一瞬だけ伸びる。


空気の膜のような何かが、剥がれるように──


“それ”は、消えた。


 


 



 


あとには、ただ静かな空気が残った。


視界の波は、ゆるやかに戻ってきた。


レナの波は、白に近く、

ミルフィの波は、ほんの少しだけ“橙”を帯びていた。


「……去った?」


レナが、小さく聞く。


「うん。たぶん、ちゃんと、“触れた”から」


「戦わなくても、届くことがあるんだね……」


 


ミルフィは、黙ったまま、

空を見上げていた。


空は、歪んでいなかった。


雲は形を持ち、陽は輪郭を映し、

草の色が、少しだけ濃くなっていた。


 


「名前がないままで、生きてる存在って──

 なんだか、自分みたいだった」


ミルフィが呟いた。


「何者かじゃなくて、誰でもなくて、

 ただ、人の気配だけを感じながら……」


「でも、今は──ちょっとだけ、“自分がいる”って思える」


 


その言葉が、僕の胸に静かに落ちた。


誰かになる必要はない。

ただ、“いる”と感じられることが、

人の形をした“何か”にとっては、

とても大きな意味を持つ。


 



 


街へ戻る道すがら、風が少し強くなった。


レナが振り向いて言った。


「ユウ、いま、何か見えてる?」


「ううん。……ちゃんと、見えなくなってる」


「そっか……じゃあ、行こうか」


レナはそう言って、前を向いた。


その後ろ姿に重なるように、ミルフィも歩き出す。


僕もあとを追いながら、

ふと視界の端に、“何もない”ことを確認した。


それが、少しだけ──静かな安心だった。


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