第五章 街の中で、役に立たないと言われた日
街に着いたのは、正午を少し過ぎたころだった。
城壁に囲まれたその町──ノルテは、
小さな市場と冒険者ギルド、そして宿屋が並ぶ、ごく普通の地方都市だった。
人が多い。
風が乾いている。
すれ違う誰もが、忙しそうに何かを運び、話し、怒り、笑っていた。
レナは少しだけ圧倒されたように周囲を見回し、
ミルフィは街並みに視線を落としたまま、何も言わなかった。
「……人の気配、多いね」
「うん。でも、大丈夫。怖くないよ」
レナが小さく笑って、ミルフィに言う。
ミルフィも、ほんの少しだけうなずいた。
僕たちはまず、ギルドへと向かった。
ここが次の宿の目安であり、何より情報を得るための拠点でもある。
◆
ギルドの扉を開くと、賑やかな声が飛び交っていた。
依頼の張り紙に群がる冒険者たち。
カウンターで話す受付嬢。
武器を背負った人々が、あちこちで談笑している。
その中に──懐かしい声があった。
「……あれ、ユウじゃねえか?」
その声に振り向くと、そこにはかつて同じギルドに所属していた男がいた。
名前はシロ。
かつて僕と同じ新人枠にいた中堅冒険者だ。
「お前、まだ生きてたのか? てっきりモンスターの餌になってると思ってたわ」
周囲の数人が、クスクスと笑った。
僕は、静かに首を傾げただけだった。
「……久しぶり。こっちも、いろいろあった」
「へぇ、で? まだ“感情が見えるだけ”のスキルで何とかしてるの?」
シロの声には、悪意というより、心からの軽視があった。
それが、逆に重かった。
レナとミルフィの背後で、波形が揺れる。
レナは“戸惑い”と“苛立ち”の色。
ミルフィは“沈黙”と“拒絶”の色。
僕自身の感情は、見えない。
でも、自分でも“何かが染みていく”感覚はあった。
◆
「この前、ここでも魔物騒ぎがあってさ。俺たちが退治してやったんだよ」
「“ちゃんと戦えるスキル”ってのは、やっぱり違うよな」
僕は、その言葉にうなずいた。
「そうだね。戦えるって、大事なことだ」
「はは、わかってんじゃん」
シロは笑ったが、僕は視線を外さず、こう続けた。
「でも……“戦えないからこそ見えるもの”も、あると思う」
「例えば?」
「人が怒る理由とか、怖がる理由とか、泣く理由とか──」
「戦う前に、それが見えたら、違う未来も選べると思わない?」
一瞬、沈黙が落ちた。
シロは眉をひそめ、乾いた声を漏らした。
「……何、それ? また“優しいフリ”か?」
「誰かの心を理解したいなんて、甘いんだよ。
この世界じゃ、斬るか斬られるかしかないんだ」
「……そうかもね」
「でも、僕はその“甘さ”で救えた命を、知ってる」
視界の端で、レナの波形が揺れた。
白に近い、あたたかい色。
それは、言葉の代わりに“信じている”という感情だった。
◆
カウンターにいた受付嬢が、騒ぎに気づいて声をかけてきた。
「すみません、静かにお願いします。何かご用ですか?」
「情報だけ、少し。次の町と、近くの魔物出没状況を」
「はい、少々お待ちください」
カウンター越しに受け取った地図には、いくつかの赤印が記されていた。
「西の丘陵地帯で、魔物の行動範囲が拡がっているようです。
最近、“気配を食う”タイプの個体が目撃されていまして……」
「“気配を食う”?」
受付嬢は小さくうなずいた。
「実体は曖昧で、見つかる前に気づくことが難しいらしく、
既にいくつかの村では、住人が“気配ごと”消えたという報告もあります」
その説明に、レナとミルフィの波形が強く揺れた。
ミルフィの波には、“共鳴”の兆しがあった。
それは、彼女の抱えていた“誰かに見られている”という恐怖と、
同じ周波数を持っている感情だった。
気配を食う魔物。
見られる恐怖。
“自分ではない何か”に、心を侵食される感覚。
──これは、繋がっている。
ミルフィが感じていたものは、彼女の妄想ではない。
たしかに、この世界のどこかに、存在している。
◆
ギルドを出た後、僕たちはしばらく黙って歩いていた。
「……さっき、怒ってた?」
レナが小さく聞く。
「怒ってたよ。でも、怒ってる理由は──自分にも、向いてた」
「どうして?」
「“何もできない”って、また思いかけたから。
でも、それって──誰かに決められることじゃないよね」
波形は、風の中でゆるやかに揺れていた。
赤でも青でもない、少し透明な“内省”の色。
その中心に、かすかに白が混じっていた。
その夜、宿の屋根裏部屋に三人で並んで寝た。
レナは穏やかに眠っていた。
けれど、ミルフィの息は浅く、何度も微かに動くたび、
視界の端に波形が揺れていた。
白。青。灰色。
そして──黒。
気配を食う魔物。
誰かに見られているという感覚。
そのふたつが、明確に重なりはじめている。
ミルフィの中には、確かに“それ”が近づいていた。
「……ユウ」
微かな声。
眠っていると思っていたミルフィが、起きていた。
「ごめん、眠れない。目を閉じても……目の奥で何かが動いてるのがわかる」
「……黒くて、冷たくて、ずっと見てる。背中の奥から……じっと」
彼女の声は震えていた。
けれどそれは、怯えだけではなかった。
“告げよう”とする、意志のある震えだった。
「大丈夫、ここにいるよ」
僕はそう言いながら、目を閉じた。
同時に、意識を集中し、波形を読み取ろうとする。
──視界の端に、かすかな“歪み”があった。
いつも見える感情の波とは、少し違う。
それは色のようで、形のようで、風のようなものだった。
定まらない。揺れている。
けれど、それは確かに“ミルフィではない”何かだった。
「……感じる」
「それ、外から来てるよ」
「でも、ミルフィの中で“形”になってる」
「……それは、ミルフィの中にある“恐れ”が引き寄せたものかもしれない」
「私が、呼んでる……ってこと?」
「呼んでるんじゃない。向こうが、弱さの形を探してる」
「見える隙間に、入り込もうとしてる」
ミルフィが息を飲む。
彼女の波形が、黒と灰に揺れる。
けれど、そこに“白”が踏みとどまっていた。
「私、……もう、逃げたくない」
「見てるなら、ちゃんと……向き合いたい」
「こわい。でも、怖いって言えるのも、今だけな気がして」
その言葉と同時に、波形が一気に広がった。
外では、風が鳴った。
屋根の上を、何かがかすめたような音。
部屋の壁が、わずかに軋む。
レナが目を覚ました。
「……ミルフィ……?」
彼女は寝ぼけながらも、ミルフィの異変に気づき、急いで立ち上がる。
その瞬間だった。
部屋の隅、窓の外に、何かがいた。
影。
人の形をしていたが、輪郭は溶けていた。
視線だけが、こちらを向いているのがわかる。
視えているのは、僕だけかもしれない。
いや──ミルフィにも、たぶん視えていた。
その“目”とぶつかった瞬間、視界が歪んだ。
世界が、静かに引き剥がされるような感覚。
言葉も、音も、波も、すべてが一瞬だけ“止まる”。
だが──
その中心に、ミルフィの声があった。
「見ないで……でも、見てほしい……!」
「私のことを、“それ”じゃなくて、“わたし”として……!」
その瞬間。
波形が、はじけた。
ミルフィの感情が、黒を押し返した。
灰が透け、白が輝き、
感情の核が、かすかに“光”を放った。
影は、消えた。
まるで、濃霧が風で払い落とされたように。
しばらく、沈黙が続いた。
息を殺すような静けさの中で、
ミルフィは、震えながらも座っていた。
僕は、隣に座り、ただ言った。
「……ちゃんと、見えてるよ」
彼女は、泣いていなかった。
けれどその顔は、何かを乗り越えたように、静かだった。
◆
翌朝、窓の外は雲が薄く晴れていた。
風が乾いていて、どこか軽かった。
「……ありがとう」
ミルフィが、小さくそう言った。
その声には、迷いがなかった。
「わたし、自分のことが、少しだけ“見えた”気がする」
「そのせいで、あれが消えたのかは、わからないけど……」
「でも、“私がここにいる”って思えたから、負けなかったのかも」
レナが、そっと笑った。
「ユウも、見えてた?」
「うん。ちゃんと、全部」
視界の端で、波形が揺れていた。
白と橙と、光に近い淡い青。
ミルフィの波形は、今、はっきりと“生きていた”。