第四章 街道の光と、出会いの声
村を離れて三日が経った。
焼け跡に残った人たちは、もう僕たちを「旅人」として見送ってくれた。
レナは、前より少しよく笑うようになった。
けれどそれは、軽くなったからではない。
泣けるようになったからこそ、笑えるようになったのだと、僕は思っていた。
道は広く、穏やかだった。
街道を歩く人影もまばらで、
通りすがる商人たちが「次の町まであと一日だ」と教えてくれた。
空は高く、雲のかたちもやわらかい。
とても、心が騒ぐようなことが起きるとは思えなかった──あの時までは。
◆
「あっ……!」
レナの声が、小さく弾けた。
その視線の先──街道の隅で、誰かが倒れていた。
少女だった。
年の頃はレナより少し上か、同じくらいか。
風に流れる金色の髪。
白い服は土にまみれ、肩で息をしている。
「……怪我してる?」
駆け寄って、軽く呼びかける。
「……っ、こないで……!」
彼女はびくりと肩を跳ねさせた。
怯えた声だった。
僕は立ち止まり、そっと両手を見せた。
「僕たちは旅人だ。何もしない。助けたくて声をかけただけ」
彼女の瞳が、少しだけ揺れる。
《感情視》が反応した。
──“赤”。
恐怖。
でも、単純な“目の前の恐れ”ではない。
もっと、奥から滲んでいるような色。
「怖くないよ。無理に何か聞かない」
「でも、君が辛いなら、黙ってそばにいることはできる」
彼女は何も言わなかった。
けれど、少しずつ力が抜けていくのが見えた。
波形が赤から、白に近い色へと変わっていく。
「レナ、水ある?」
「うん」
鞄から水筒を取り出すと、レナはそっと差し出した。
少女はおずおずとそれを受け取り、少しだけ口をつけた。
「……ありがとう」
かすかな声だった。
でも、確かに“自分の意志で出た言葉”だった。
その瞬間、視界の隅に波が走った。
“感謝”の波形。
透明で、あたたかく、静かに輪を描くような色だった。
◆
「名前、聞いてもいいかな?」
しばらく経ってから、僕が尋ねると、少女は小さく頷いた。
「……ミルフィ」
「そっか、ミルフィ。いい名前だね」
少女は、それに対して返事をしなかったけれど、視線をそらさなかった。
「ここで何があったか、聞いてもいい?」
「……追われてたの」
「……誰に?」
「……わからない。ずっと、誰かに見られてる気がして、逃げてきた」
「気がついたら、誰とも話せなくなってた」
視界の波形が揺れる。
それは“恐怖”の中に、沈殿していた“孤独”の色だった。
「……泣きたかったのに、誰かが見てる気がして、泣けなかった」
その言葉に、レナがはっと顔を上げた。
僕も、同じ感覚を抱いた。
──それは、まるでかつてのレナのようだった。
「……わたしも、前、そうだったよ」
レナが言った。
「泣けなかった。でも、ユウがそばにいてくれて……泣けた」
「ミルフィも、きっと、泣けるよ。いつかじゃなくて、“もうすぐ”」
少女──ミルフィは、何も言わなかった。
けれどその目の奥に、わずかな光が浮かんでいた。
涙ではない。けれど、それにとても近い何かだった。
◆
その夜、野営をすることになった。
空には星が浮かび、焚き火が小さく揺れていた。
ミルフィはレナの隣で、ひとつの毛布にくるまっていた。
最初のころと比べて、身体の緊張がほどけていた。
レナは、小さな声でミルフィに何かを話していた。
その言葉は風に流され、僕には聞こえなかったけれど──
波形だけは、はっきりと揺れていた。
やさしく、柔らかく、白と橙と、そしてまだ名前のない“希望”の色。
それを見て、僕は思った。
感情は、伝播する。
痛みも、救いも、優しさも──
ただ見ているだけではなく、触れた心から、確かに伝わっていくのだと。
朝になっても、ミルフィは何も語らなかった。
焚き火の灰が冷え、空に薄明りが満ちてきたころ──
彼女は眠ったままのように、膝を抱えていた。
けれど、まぶたの奥は何かと戦っているように揺れていた。
夢か、それとも過去か。
レナは、その隣で静かに見守っていた。
自分がそうされたように。
言葉ではなく、存在そのものを差し出すように。
「ねえ、ユウ」
レナが小声で言った。
「ミルフィ……たぶん、“見えてる”と思う」
僕は少しだけ眉を寄せた。
「スキルのこと?」
「ううん、そうじゃなくて。自分の中の“何か”が見えてるってこと」
「逃げてるのも、泣けないのも、怖がってるのも、たぶん、全部……わかってる」
「でも、それを“誰にも見せられない”だけなんだ」
その言葉に、僕は静かに頷いた。
《感情視》が示す波形は、眠っているはずの彼女の周囲で、
わずかに“青”と“白”が混ざっていた。
それは、外へ向かう色ではない。
内側で揺れて、誰にも届かない場所で沈んでいる色だった。
「……わたし、少し前まで、そうだったから」
レナの手が、毛布の端を握る。
「でも、“見てくれた人”がいたから、変われた」
「ユウが、見てくれたから──」
そのときだった。
焚き火の残り火が、ふっと風に揺れた。
一瞬、空気の重みが変わった気がした。
そして、ミルフィの身体が、ぴくりと小さく震えた。
「……やだ……やだ……!」
うわごとのように、かすかな声がこぼれる。
「……また……誰かが……見てる……」
「──“見ないで”……」
その声に、空気の温度が下がる。
《感情視》が、一気に反応した。
──黒い波。
初めて見る色だった。
怒りでも、悲しみでも、恐怖でもない。
“拒絶”と“否定”が交じった、濁った感情の波。
それが、ミルフィの内側から、外に溢れようとしていた。
「ミルフィ……っ」
レナが肩に手をかけようとした、その瞬間──
「──こないで!!」
ミルフィが叫んだ。
波がはじけるように広がり、周囲の空気が鋭くなる。
それはまるで、空間ごと“跳ね返す”ような感情の圧だった。
僕もレナも、手を止めた。
無理に触れてはいけないと、そう思った。
彼女の波形が──何かに近づきすぎていた。
その“何か”は、彼女のスキルではない。
もっと、深くて、古い。
“誰かに見られる”という恐怖が、彼女自身を閉じ込めていた。
◆
やがて、ミルフィはゆっくりと呼吸を整えた。
泣いていなかった。けれど、顔は濡れていた。
「……ごめん」
その声は、消え入りそうだった。
「こわくて……ずっと、誰かに見られてる気がしてて」
「寝てるときも、歩いてるときも、目の奥に、誰かがいる感じがして……」
「“この気配は、わたしのものじゃない”って、思うの」
レナがゆっくりと、言葉を選ぶように答えた。
「……それ、本当かもしれない」
「わたしも、前に似た感じがあった。自分の中に、他の誰かがいるみたいな、あれ」
「でもそれって、本当に“他人”じゃなくて……」
「“前の自分”だったりすることも、あるんだと思う」
ミルフィは、その言葉を聞いて、小さく瞬きをした。
感情波形が、わずかに揺れる。
さっきまでの黒は消え、
代わりに“灰”と“白”が混ざった、複雑な波が生まれていた。
「……わたし、“見られる”のが怖かったのに……」
「……今、見てほしいって、思ってるのかも」
「こんなふうに思うの、はじめて……」
ミルフィの目元から、ゆっくりと、一粒の涙がこぼれた。
それは、苦しみを吐き出す涙ではなかった。
ひとつの怖れを、言葉にできたことへの、ささやかな“解放”だった。
波形が、透明に変わっていく。
その変化に、僕は静かに目を閉じた。
◆
午後、森の端から明かりが差した。
街道の先に、人の声が聞こえてきた。
商人の行列だ。荷馬車に荷物を積み、町へと向かっている。
「行こうか」
僕が声をかけると、レナは頷き、ミルフィも静かに立ち上がった。
彼女はまだ不安げだったけれど、波形は穏やかだった。
揺れてはいるけれど、もう、“跳ね返す”ものではなかった。
誰かと、並んで歩ける心。
それだけで十分だ。
道は、開けていた。
次の町へ。
次の涙へ。
そして──まだ見ぬ誰かとの、出会いへと。