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第三章 誰のために泣くのか


風が焦げた匂いを運んできた。


森を抜けた先──そこに広がっていたのは、

まだ煙の立ち上る、ひとつの村の姿だった。


崩れた家屋。裂けた柵。倒れた水桶。

人影は少なく、動いているのは燃え残った木片が弾ける音だけだった。


 


「……遅かったのか」


僕は、小さく息を吐いた。


レナは何も言わず、ただ立ち尽くしていた。


彼女の視線の先に、焼け焦げた木の柱が倒れていた。

ほんの数日前、自分が見送られた村の光景と──似ていたのかもしれない。


 


感情波形が、強く揺れた。


彼女の周囲に“灰色”と“青”が交差する。

深く、重く、けれど“確定しない”色。


思い出している。でも、それを言葉にしない。


涙をこぼさない代わりに、全身で受け止めている色だった。


 



 


まだ息がある人がいないか探して回ると、

倒れた小屋の裏で、少年が蹲っていた。


服は破れて、手には擦り傷。

だけど、ちゃんと生きていた。


「君、大丈夫か?」


声をかけると、少年ははっとこちらを振り返った。

瞳の奥に、強い“赤”があった。


──怒り。


「……なんで……なんで来るのが遅いんだよ!」


涙まじりの声で、少年は叫んだ。


「ギルドに何度も頼んだのに!魔物が出るって……お願いしたのに!」


「それなのに、誰も来なかった!誰も……っ!」


 


拳が地面を叩く。


その一撃のたびに、赤の波形が強くなる。


でも、それは──純粋な怒りではなかった。


《感情視》が見せている色は、赤と……青と……そして、白。


 


「君は、怒ってるんじゃない。悲しいんだ」


そう言った僕に、少年は驚いたように顔を上げた。


 


「……違う、俺は……っ!」


「違わないよ。悔しいんだよね。誰も来なかったことが。誰にも気づいてもらえなかったことが」


「自分が叫んでも、誰にも届かなかったことが……本当に、悔しかったんだ」


 


少年の表情が歪む。


「……っ、う、わああああ!」


次の瞬間、少年は顔を両手で覆って、声を上げて泣き出した。


波形が一気に変わる。

赤が消え、青と白が混ざり合い、やがて淡い灰に溶けていく。


感情のうねりが、怒りから悲しみ、そして少しの安堵へと変わっていくのがわかった。


 


レナがそっと近づき、少年の隣に膝をつく。


何も言わず、ただ隣にいた。


波形が、少しだけ落ち着いた。

レナの方にも──“共鳴”が生まれていた。


静かな青。深い透明。沈黙の中にある、同じ痛み。


 



 


「……誰かのために、泣くことがあるんだね」


焚き火の前で、レナが呟いた。


その日は、少年と共に、無事だった村人たちと合流し、夜を越すことにした。


夕焼けが、焦げた屋根の残骸を静かに染めていた。


「前は、自分のことでさえ泣けなかったのに」


「今日は、誰かの気持ちが、痛くて」


「それで、涙が出そうになった」


 


《感情視》は、その波を映していた。


青ではない。


橙が少しだけ混じった、新しい“色”。


 


「……ねえ、ユウ」


「このスキルって、自分にも向くの?」


その言葉に、僕は首を傾げた。


「自分の感情……?」


「そう。ユウの波形って、自分で見えるの?」


 


僕は、しばらく答えられなかった。


意識したことがなかった。


自分の心を“色で見る”という行為を、

いつからか避けていた気がする。


他人の痛みばかりを見て、

自分のことは、ずっと見ないままでいた。


 


「……どうなんだろうね」


そう答えた声は、少しだけかすれていた。


 


その瞬間。視界の端で、波形が揺れた。


それは、自分の影のような、淡い“灰色”。


揺らぎのような、遠くから差し込む光のような──


けれど確かに、僕の中に在る、感情だった。


 



 


夜が更けていく。


風の音に混じって、どこかから子どもたちの笑い声が聞こえた。


それは焚き火を囲む人たちの輪から漏れたものだった。


壊れた村の真ん中で、小さな“温度”が確かに生まれていた。


 


僕とレナは、その輪の外に座っていた。


でも、心はそこに寄っていた。


波形が、同じリズムで揺れていた。


──ひとつの心が、ふたつで揺れるように。


──その夜、雨が降った。


強くはない。けれど、空気を濡らすには十分な雨だった。


 


レナは、屋根の残った倉庫の中、乾いた藁の上に座っていた。


窓の外では、火を囲む人々の声がかすかに聞こえていた。


子どもの泣き声。

母親の慰める声。

疲れきった大人たちが、何かを分け合っているような音。


それは、壊れた村の、わずかな営みの残響だった。


 


レナの周囲には、静かな“青”が揺れていた。


深く、澄んだ色。

悲しみではなく、思い出すような、静かな想いの波だった。


 


「ねえ、ユウ」


「……泣くのって、弱いことかな」


その言葉に、僕は少しだけ考えてから答えた。


「泣けない方が、弱いこともある」


レナは目を見開いた。


その視線の先、僕の感情波形が、わずかに“揺れていた”。


 


「僕さ、昔──」


そこで一度言葉を切る。


レナは黙って待っていた。言葉が出てくるのを。


「……子どもの頃に、友達を一人、亡くしたことがある」


「事故だった。僕はそのとき、何もできなくて」


「ただ、その子が最後に泣いてるのを、見ていた」


「見えていたのに……何も言えなかったんだ」


 


火の光も届かない夜の部屋。

ただ雨音だけが、天井を打っていた。


レナの感情波が揺れる。


“共鳴”ではない。

“応答”に近い。


言葉では返せないけれど、

確かに触れた時にだけ、生まれる波。


 


「そのときから、たぶん……人の感情を見ることが怖くなった」


「見えるのに、救えないことがあるって、知ってしまったから」


「でもさ──」


「今日、レナと一緒にいて思ったんだ」


「誰かの心が“触れた”って、ほんの少しでも伝わると」


「きっと、それは、“無駄じゃなかった”って思える」


 


僕の視界の端で、波形が揺れた。


灰色から、薄い光の“白”へ。


あたたかい雨が、感情に降り注ぐように、静かに色が変わっていく。


 


その瞬間だった。


レナの目に、一粒の雫が浮かんだ。


雨じゃない。

それは、彼女の瞳から、すっと流れ落ちた涙だった。


頬をつたって、衣服の襟元に消える。


「……わたし、いま、泣いてる?」


彼女が問う。


「……うん。泣いてるよ」


僕は答える。


「誰のために?」


「……さあ。たぶん……全部だよ」


「助けられなかった人のことも、助けてくれた人のことも、今、生きてることも」


「悲しいのも、嬉しいのも、いっしょに流れてる」


 


レナは、もう一粒、涙を流した。


それは決して、壊れるような涙ではなかった。


芯を持ったまま、ゆっくりとほどけていくような、あたたかな涙だった。


 


《感情視》の波形が、彼女の周囲に柔らかく広がる。


青。白。橙。そして、名前のつかない“光”のような波。


静かに、確かに、癒えていく感情。


 



 


翌朝。


空は晴れていた。

泥濘んだ地面も、少しずつ乾き始めていた。


村人たちは再び集まり、損壊した家の修復を始めていた。


少しずつ、日常が戻ろうとしていた。


 


「ありがとう、助かったよ」


あの少年が、僕に言った。


「お前が来なかったら、たぶん俺、ずっと怒ってたと思う」


僕は笑って、それに頷いた。


その波形は、穏やかな“橙”。

もう、混乱も怒りもなかった。


 


レナは、少年に手を振った。


彼は少し照れたように、でもまっすぐ応えた。


その様子に、僕はこっそり《感情視》を使ってみる。


──ああ。


波形が、重なっていた。


色は違うけれど、リズムが同じ。


小さな“通じ合い”が、確かにそこにあった。


 



 


「ユウ」


歩き出した小道で、レナが言った。


「次に、誰の涙を見ると思う?」


僕は少し考えたあとで、こう答えた。


「わからない。でも──」


「誰かの涙が、ちゃんと見えるうちは、大丈夫な気がする」


レナはそれを聞いて、小さく笑った。


風が頬を撫でる。


空は高く、どこまでも青かった。

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