第三章 誰のために泣くのか
風が焦げた匂いを運んできた。
森を抜けた先──そこに広がっていたのは、
まだ煙の立ち上る、ひとつの村の姿だった。
崩れた家屋。裂けた柵。倒れた水桶。
人影は少なく、動いているのは燃え残った木片が弾ける音だけだった。
「……遅かったのか」
僕は、小さく息を吐いた。
レナは何も言わず、ただ立ち尽くしていた。
彼女の視線の先に、焼け焦げた木の柱が倒れていた。
ほんの数日前、自分が見送られた村の光景と──似ていたのかもしれない。
感情波形が、強く揺れた。
彼女の周囲に“灰色”と“青”が交差する。
深く、重く、けれど“確定しない”色。
思い出している。でも、それを言葉にしない。
涙をこぼさない代わりに、全身で受け止めている色だった。
◆
まだ息がある人がいないか探して回ると、
倒れた小屋の裏で、少年が蹲っていた。
服は破れて、手には擦り傷。
だけど、ちゃんと生きていた。
「君、大丈夫か?」
声をかけると、少年ははっとこちらを振り返った。
瞳の奥に、強い“赤”があった。
──怒り。
「……なんで……なんで来るのが遅いんだよ!」
涙まじりの声で、少年は叫んだ。
「ギルドに何度も頼んだのに!魔物が出るって……お願いしたのに!」
「それなのに、誰も来なかった!誰も……っ!」
拳が地面を叩く。
その一撃のたびに、赤の波形が強くなる。
でも、それは──純粋な怒りではなかった。
《感情視》が見せている色は、赤と……青と……そして、白。
「君は、怒ってるんじゃない。悲しいんだ」
そう言った僕に、少年は驚いたように顔を上げた。
「……違う、俺は……っ!」
「違わないよ。悔しいんだよね。誰も来なかったことが。誰にも気づいてもらえなかったことが」
「自分が叫んでも、誰にも届かなかったことが……本当に、悔しかったんだ」
少年の表情が歪む。
「……っ、う、わああああ!」
次の瞬間、少年は顔を両手で覆って、声を上げて泣き出した。
波形が一気に変わる。
赤が消え、青と白が混ざり合い、やがて淡い灰に溶けていく。
感情のうねりが、怒りから悲しみ、そして少しの安堵へと変わっていくのがわかった。
レナがそっと近づき、少年の隣に膝をつく。
何も言わず、ただ隣にいた。
波形が、少しだけ落ち着いた。
レナの方にも──“共鳴”が生まれていた。
静かな青。深い透明。沈黙の中にある、同じ痛み。
◆
「……誰かのために、泣くことがあるんだね」
焚き火の前で、レナが呟いた。
その日は、少年と共に、無事だった村人たちと合流し、夜を越すことにした。
夕焼けが、焦げた屋根の残骸を静かに染めていた。
「前は、自分のことでさえ泣けなかったのに」
「今日は、誰かの気持ちが、痛くて」
「それで、涙が出そうになった」
《感情視》は、その波を映していた。
青ではない。
橙が少しだけ混じった、新しい“色”。
「……ねえ、ユウ」
「このスキルって、自分にも向くの?」
その言葉に、僕は首を傾げた。
「自分の感情……?」
「そう。ユウの波形って、自分で見えるの?」
僕は、しばらく答えられなかった。
意識したことがなかった。
自分の心を“色で見る”という行為を、
いつからか避けていた気がする。
他人の痛みばかりを見て、
自分のことは、ずっと見ないままでいた。
「……どうなんだろうね」
そう答えた声は、少しだけかすれていた。
その瞬間。視界の端で、波形が揺れた。
それは、自分の影のような、淡い“灰色”。
揺らぎのような、遠くから差し込む光のような──
けれど確かに、僕の中に在る、感情だった。
◆
夜が更けていく。
風の音に混じって、どこかから子どもたちの笑い声が聞こえた。
それは焚き火を囲む人たちの輪から漏れたものだった。
壊れた村の真ん中で、小さな“温度”が確かに生まれていた。
僕とレナは、その輪の外に座っていた。
でも、心はそこに寄っていた。
波形が、同じリズムで揺れていた。
──ひとつの心が、ふたつで揺れるように。
──その夜、雨が降った。
強くはない。けれど、空気を濡らすには十分な雨だった。
レナは、屋根の残った倉庫の中、乾いた藁の上に座っていた。
窓の外では、火を囲む人々の声がかすかに聞こえていた。
子どもの泣き声。
母親の慰める声。
疲れきった大人たちが、何かを分け合っているような音。
それは、壊れた村の、わずかな営みの残響だった。
レナの周囲には、静かな“青”が揺れていた。
深く、澄んだ色。
悲しみではなく、思い出すような、静かな想いの波だった。
「ねえ、ユウ」
「……泣くのって、弱いことかな」
その言葉に、僕は少しだけ考えてから答えた。
「泣けない方が、弱いこともある」
レナは目を見開いた。
その視線の先、僕の感情波形が、わずかに“揺れていた”。
「僕さ、昔──」
そこで一度言葉を切る。
レナは黙って待っていた。言葉が出てくるのを。
「……子どもの頃に、友達を一人、亡くしたことがある」
「事故だった。僕はそのとき、何もできなくて」
「ただ、その子が最後に泣いてるのを、見ていた」
「見えていたのに……何も言えなかったんだ」
火の光も届かない夜の部屋。
ただ雨音だけが、天井を打っていた。
レナの感情波が揺れる。
“共鳴”ではない。
“応答”に近い。
言葉では返せないけれど、
確かに触れた時にだけ、生まれる波。
「そのときから、たぶん……人の感情を見ることが怖くなった」
「見えるのに、救えないことがあるって、知ってしまったから」
「でもさ──」
「今日、レナと一緒にいて思ったんだ」
「誰かの心が“触れた”って、ほんの少しでも伝わると」
「きっと、それは、“無駄じゃなかった”って思える」
僕の視界の端で、波形が揺れた。
灰色から、薄い光の“白”へ。
あたたかい雨が、感情に降り注ぐように、静かに色が変わっていく。
その瞬間だった。
レナの目に、一粒の雫が浮かんだ。
雨じゃない。
それは、彼女の瞳から、すっと流れ落ちた涙だった。
頬をつたって、衣服の襟元に消える。
「……わたし、いま、泣いてる?」
彼女が問う。
「……うん。泣いてるよ」
僕は答える。
「誰のために?」
「……さあ。たぶん……全部だよ」
「助けられなかった人のことも、助けてくれた人のことも、今、生きてることも」
「悲しいのも、嬉しいのも、いっしょに流れてる」
レナは、もう一粒、涙を流した。
それは決して、壊れるような涙ではなかった。
芯を持ったまま、ゆっくりとほどけていくような、あたたかな涙だった。
《感情視》の波形が、彼女の周囲に柔らかく広がる。
青。白。橙。そして、名前のつかない“光”のような波。
静かに、確かに、癒えていく感情。
◆
翌朝。
空は晴れていた。
泥濘んだ地面も、少しずつ乾き始めていた。
村人たちは再び集まり、損壊した家の修復を始めていた。
少しずつ、日常が戻ろうとしていた。
「ありがとう、助かったよ」
あの少年が、僕に言った。
「お前が来なかったら、たぶん俺、ずっと怒ってたと思う」
僕は笑って、それに頷いた。
その波形は、穏やかな“橙”。
もう、混乱も怒りもなかった。
レナは、少年に手を振った。
彼は少し照れたように、でもまっすぐ応えた。
その様子に、僕はこっそり《感情視》を使ってみる。
──ああ。
波形が、重なっていた。
色は違うけれど、リズムが同じ。
小さな“通じ合い”が、確かにそこにあった。
◆
「ユウ」
歩き出した小道で、レナが言った。
「次に、誰の涙を見ると思う?」
僕は少し考えたあとで、こう答えた。
「わからない。でも──」
「誰かの涙が、ちゃんと見えるうちは、大丈夫な気がする」
レナはそれを聞いて、小さく笑った。
風が頬を撫でる。
空は高く、どこまでも青かった。