第二章 泣けない少女と、見える涙
旅が始まって三日が経った。
レナと一緒に歩く道は、思っていたより静かだった。
森の小道、川沿いのせせらぎ、風に揺れる草の音。
誰も追ってこないし、誰も待っていない。
それが、今の僕たちの居場所だった。
レナはまだあまり多くを話さなかった。
でも、少しずつ表情は変わり始めていた。
ときどき、足を止めて空を見上げるようになった。
ときどき、パンを差し出すと、お礼を言うようになった。
ときどき──僕の隣を歩く足音が、ほんの少しだけ軽くなる瞬間があった。
「このあたり、魔物が出るって聞いたことがある」
そう言ったのは、四日目の夕方だった。
レナの言葉に、僕はうなずいた。
「村で受けた地図にも、“出没注意”って書かれてた」
「……行かなくていい?」
レナの声は、不安と決意が混ざったような色をしていた。
視界の隅に浮かぶ波形は、青と灰の入り混じる複雑なものだった。
「行くよ。誰かが困ってるなら、行ってみたい」
僕がそう答えると、レナは少し驚いたように僕を見た。
でも、すぐに小さくうなずいた。
◆
村から半日ほど歩いた谷のふちに、その“巣”はあった。
地面に開いた大きな穴。
周囲の草は踏み荒らされ、木々の幹には引っかき傷。
──そして、空気が濁っていた。
重い、鈍い、動物とは違う“怒り”のにおいがした。
レナは少しだけ後ろに下がった。
その足取りに、波形が反応する。
──赤黒い色。
怒りと、恐怖。
それが混ざったような、不安定な波。
「レナ、ここから先は、無理しなくていい」
そう言っても、彼女は首を横に振った。
「見届けたい……自分の、気持ち」
──“気持ち”という言葉に、スキルが共鳴した。
レナの波形が一瞬、白く明滅した。
それは、彼女の中に何かが“触れた”証だった。
◆
魔物は、夜になって現れた。
洞の奥から響く、低い唸り声。
姿は狼に似ていたが、目が異様に光っていた。
──赤紫の波形。
感情がある。
怒りでも、恐怖でもない。
“混乱”だった。
誰かが何かを壊し、壊された側が、ただそれに抗っている。
「……レナ、あの魔物、感情が揺れてる」
「揺れてる……?」
「何かに怒ってる。でも、自分でもわからないまま怒ってる。……そんな色だ」
魔物がこちらを見た。
その目が、僕たちを敵と判断した瞬間、波形が赤へと一気に変化した。
──来る。
僕はレナの腕を引いた。
次の瞬間、魔物が地を蹴り、こちらへ飛びかかってきた。
「──ッ!」
レナが悲鳴を上げる。
魔物の爪が目の前をかすめ、地面が抉れる。
けれど、その直後──
僕の視界に、ふと“異変”が走った。
魔物の波形に、青が混ざった。
──一瞬の躊躇。
その色に、僕は言葉を投げかけた。
「やめろ!」
叫びというより、祈りに近かった。
「怒ってるなら、話してくれ。怒ってるだけなら、まだ戻れる!」
──赤が、揺れた。
波形が、不安定に震える。
魔物の目が、わずかに迷う。
ほんの少しだけ、動きが止まった。
その一瞬の隙を、レナが見逃さなかった。
彼女は手に持っていた細枝を投げつける。
枝は魔物の足元に当たり、土埃が舞った。
魔物は驚いたように跳ね退き、身を引いた。
波形が──変わった。
赤は、もう消えていた。
残っていたのは、紫と青の複雑な感情の波。
まるで、心の奥底に迷っている誰かのようだった。
魔物は、逃げた。
森の奥へと、静かにその姿を消していった。
◆
その夜、僕たちは焚き火のそばにいた。
「……話せるんだね。魔物とも」
レナの言葉に、僕は首を振った。
「話してたわけじゃない。ただ──見えてただけ」
「……怒りの理由?」
「それが、ほんの少しだけ、わかった気がした」
レナは静かにうなずいた。
そして、小さく言った。
「……ユウは、強いね」
強い──
その言葉に、視界の端で白い波が揺れた。
嬉しさでも、誇らしさでもない。
それは、“肯定された”ことへの、小さな安堵だった。
この力は、戦えない。
でも、誰かの心に触れて、感情を変えることができる。
それだけは、確かだった。
翌朝。
風の音が、少しやさしくなっていた。
森の中の空気には、昨夜までの緊張がもうなかった。
レナは、焚き火の残り火を見つめながら言った。
「……あの魔物、すごく怒ってたけど、最後に少しだけ、寂しそうだった」
「うん。たぶん、誰にもわかってもらえなかったんだと思う」
「……ユウには、わかった?」
その問いに、僕は少しだけ迷って、それから小さくうなずいた。
「見えたというより、“伝わってきた”かな。怒ってるっていうより、誰かに気づいてほしかった感じ」
レナは、それを聞いて、しばらく何も言わなかった。
でも、視線の端で、感情の波形が変わるのが見えた。
──青と白の混ざる、淡い色。
やわらかい、けれど消え入りそうな、救いの気配。
「……わたしも、そうだったのかも」
ぽつりと、レナは言った。
「怒ってた。誰にも何も言われないことに。誰も気づいてくれなかったことに」
「でも……それが何に向いてたのか、自分でも、よくわからなかった」
僕は言葉を返さず、火を見ていた。
レナの感情波が、ほんの少しだけ揺れていた。
それは──“ほどけていく”波。
芯から変わるのではなく、かすかに、ゆるやかに、ほどけていくような色。
「ユウと会って、少しずつ、それが変わってるのがわかるんだ」
「わたし、まだうまく言えないけど──」
「見てもらえるって、こんなにあたたかいんだね」
その言葉が零れた瞬間。
波形は青から白へ。
そして、透明な光が混じったような、はじめて見る色に変わった。
それは、レナの感情が“今この瞬間に生まれている”という、確かな証だった。
◆
小道を歩くレナの背が、少しだけ軽く見えた。
荷物は変わらないのに、背中の沈みが和らいでいる。
僕はその後ろ姿を見ながら、心の中で小さく思った。
(このスキルは、やっぱり変だ)
(戦うことも、治すことも、何かを壊すこともできない)
(でも──)
(こうして、誰かと歩いていける)
(それだけで、十分な気がした)
視界の端に浮かぶ波形は、柔らかな橙に近い色だった。
“あたたかい安心”の色。
レナの心が、静かに落ち着いていることを示していた。
──そのとき。
風がふっと変わった。
鼻先をかすめる、金属の匂い。
そして、かすかな焼け焦げた空気。
「……煙?」
気づいたレナが、森の向こうを指差す。
空の一部が、灰色に染まり始めていた。
僕たちは、すぐに歩を速めた。
木々の間を縫って走り抜けると、そこには小さな集落があった。
ただし──
静かでは、なかった。
地面に倒れた荷馬車。
崩れかけた塀。
人の叫び。
そして──黒煙。
「村……襲われてる?」
レナが息を呑む。
そのとき、視界の端に、強烈な“赤”の波形が弾けた。
怒り。混乱。そして、悲鳴のような感情。
僕は、剣を持たない手を握った。
(また、だ)
このスキルが、戦う力にならなくても──
誰かの心が、壊れる前に。
何かを、止められるかもしれない。
そう思って、僕は走った。
レナも、僕のすぐ後ろでついてくる。
その足音は、昨日よりもずっと強く、確かだった。