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第十五章 名前を呼ぶ声


夜の帳が、街全体に深く降りていた。


灯りがひとつ、またひとつと消え、静寂が広がっていくなかで──


ユウたちは、再びあの場所へと向かっていた。


 


鐘楼の裏手にある噴水広場。


昨日、ミルフィの記憶が“蘇った”場所。

新しい名前が刻まれた、小さな奇跡の現場。


そこに、“気配”が戻ってきていた。


 


レナが、小さく囁く。


「……いる。何かが、こっちを見てる」


 


風はなく、月も薄い。


それでも、背中を撫でてくるような“視線の重み”が、確かに存在していた。


ユウは、恐怖ではなく、静かな確信を抱いていた。


「“来たんだ”……やっぱり、呼ばれたんだよ。あの名前に」


 


“無喰”──


それは記憶を喰い、感情を消し、名を奪うもの。


だが今この瞬間、逆に“名前を呼ばれた”ことで、

世界のどこかにいたその存在が、ここへ足を踏み入れてきた。


 


そして、それが示すものは──


「“喰われた側”だけじゃない。“喰った側”も、名を刻まれると反応する」


 


まるで、感情という鎖が、喰った相手の中にも残り続けていたように。


 


 



 


「──っ来る!」


ミルフィの声が、空気を裂いた。


噴水の水面が歪み、色を失っていく。


その中心に、“影”が立ち現れる。


 


人のようで、人ではない。


輪郭は曖昧で、姿は黒く染まり、ただただ“喪失”そのものが形を成していた。


 


「……誰……?」


ミルフィが、無意識に声を漏らす。


すると、その“影”が、ほんの少しだけ動いた。


ゆっくりと、顔のない頭部がミルフィの方へと向く。


 


何かが、反応した。


記憶の底から呼び出されたものが、“自分を見ている”。


 


「……あれ……私、知ってる……?」


ミルフィの指先が震える。


目を閉じ、感情に触れようとする。


それは、恐怖を超えた“確かめたい”という願いだった。


 


ユウが、彼女の肩にそっと手を置いた。


 


「大丈夫。俺が“名前”をつける。そうすれば、“それ”は──」


 


──“無喰”でさえ、名前から逃れられない。


 


そう信じて、ユウは目を開いた。


そして“視た”。


感情の残滓。深い喪失。残された悲哀。


 


まるで──“愛された記憶”の名残。


 


「……エレナ、じゃない」


ユウは否定した。


これは、ミルフィの記憶ではない。


だが──“誰かの記憶の中で、愛された存在”の欠片だった。


 


「君は、──“アイレ”だ」


 


その名を、与えた瞬間。


黒い影の身体に、淡い光が走る。


 


名もなく、存在すら不確かなままだった“無喰”の一部が、確かに色づいていく。


 


レナが息を呑む。


「……名をつけたら、存在が反転してる……?」


 


「違う。名前が、“戻すんだ”」


ユウの声に、確信が混じる。


「記憶が食われても、感情の輪郭が残っていれば、そこから“形を再構築”できる。

 それが、このスキルの──いや、“人の心”の力だ」


 


影──アイレは、しばらくの間、その場に留まっていた。


まるで、何かを思い出そうとしているように。


けれどその姿は、やがて揺らぎ、再び空気に溶けていく。


“怒り”でも“拒絶”でもなかった。


 


──ただ、“応答”だった。


 


ミルフィが、そっと囁く。


「……ありがとう、アイレ」


 


その言葉に呼応するように、彼女の胸元のスカーフが、ふわりと揺れた。


そこに編み込まれていた色の一部が、淡い青に変わっているのを、レナが見つけた。


「……感情の共鳴? これ……スキル、じゃないよね」


 


ユウは頷いた。


「これは、“関係性”だ。スキルや魔法の枠を超えて、

 “誰かと、誰かが繋がっていた”証拠なんだよ」


 


 



 


その夜。


ユウは焚き火のそばで、ひとりノートを開いていた。


今日、名前を与えた“影”──アイレの痕跡を書き留める。


ミルフィの感情が共鳴し、何かが戻ってきた記録。


 


「……“戻る”って、こういうことなのかもしれないな」


 


“無喰”という存在は、ただの敵ではない。


それは、人々の喪失、悲しみ、思い出の“欠落そのもの”だ。


だからこそ、記憶をただ奪うのではなく──


誰かがその欠けた部分を“想い直す”ことで、少しずつ修復ができる。


 


名を与えることは、願いでもある。


“君は、確かにここにいた”という証明を、この世界に残す行為だ。


 


 


──それは、ユウ自身が誰かに“忘れられた”過去を持つからこそ。


彼がこのスキルに目覚めた原点には、まだ語られていない“喪失”がある。


それが、物語の核を静かに形づくり始めていた。



夜の静けさのなか、ユウはただ、火のゆらめきを見つめていた。


パチリ、と小さく薪が弾ける音が、空気を震わせる。


誰もがもう眠りについている時刻──


だが、ユウはまだ、あの影のことを考えていた。


 


「“名を与えられることで、存在が変わる”……か」


 


今日の出来事は、言葉では説明できないほど、異質だった。


名もなき“影”に名前を与えたことで、その姿が揺らぎ、記憶が残り香のように残った。


まるで、それ自体が「彼女の人生の一部だった」とでも言うように。


 


「──誰かが、忘れないでくれたからだ」


 


声が、闇の中から届いた。


それは、ミルフィのものだった。


夜風に包まれ、薄手のブランケットを肩にかけた彼女が、焚き火のそばに座る。


 


「眠れなかったのか?」


「うん。……なんかね、胸が苦しいの。今日の“アイレ”のこと、考えてたら」


 


ミルフィは、膝を抱えながら言った。


「影だったけど、優しかった気がする。……あれ、誰だったんだろ」


「たぶん、“誰かの中にいた、愛された記憶”の欠片」


ユウはそう答えながらも、それが彼女自身の一部だった可能性も捨ててはいなかった。


けれど、それを今伝えるのは、まだ早いと思った。


 


ミルフィは黙って、焚き火を見つめた。


しばらくの沈黙ののち──


彼女がぽつりと、漏らした。


 


「……私、誰かに“忘れられたこと”がある気がする」


 


その言葉に、ユウの指先がわずかに止まる。


 


「“忘れられた”って、どういう……?」


「わかんない。でも、何かが足りない気がするの。自分の記憶のなかに、ぽっかり穴が空いてるみたいで」


 


彼女の声は、静かに揺れていた。


その表情に、恐れではなく“寂しさ”が浮かんでいたのが、ユウの胸を強く締めつけた。


 


「それ、きっと──」


ユウは言いかけて、口をつぐむ。


それを“慰め”として言いたくはなかった。


だから、代わりにこう言った。


 


「……思い出そうとする限り、きっと、どこかに“残ってる”んだよ」


 


「え?」


「全部が消えてたら、もう何も感じないはずだ。そうじゃなくて、いま“胸が苦しい”って思えるってことは……君のなかに、確かに“想い”が残ってるってことだ」


 


その言葉に、ミルフィの目が少し見開かれる。


 


「……じゃあ、私のなかに、“誰か”が残ってるの?」


 


「残ってるさ。きっと」


ユウは断言した。


 


そして、それは──


「君だけじゃない。“俺”にも、ある」


 


「……ユウ?」


「俺は、小さい頃に……誰かのことを、すごく大事に思ってた気がするんだ。でも、名前も顔も思い出せない。ただ、忘れたくなかった。……忘れたくなかった、はずなんだ」


 


ミルフィの手が、ゆっくりとユウの腕に触れた。


「それって……“無喰”のせいなの?」


「……わからない。でも、もしそうだとしたら──」


ユウは、視線をあげて夜空を見た。


満天の星が、静かに瞬いていた。


 


「奪われた記憶も、名も。全部、“取り戻す”」


 


「──ユウ……」


「誰かを忘れたくないって思う、その気持ちに、ちゃんと名前をつけてあげたいんだ」


 


──それが、彼の戦いの意味だった。


 


スキルとして“感情が見える”のではなく、


それを“感じた”うえで、“名付ける”ことで世界に戻す。


それがユウにとっての「戦い方」だった。


 


 



 


翌朝。


ユウたちは、いつもと変わらぬように支度を始めていた。


だがその空気のなかに、わずかな変化が生まれていた。


ミルフィの瞳が、昨日よりも少しだけ、遠くを見据えている。


レナはそれに気づき、何も言わずにそっと背中を押した。


 


そして、ユウはポケットから一枚の紙を取り出した。


そこには、昨日彼が書き記した“名前”があった。


──アイレ。


それと並んで、もう一つだけ。


“ユウ”自身が、今朝になって書き加えた言葉。


 


──“ノエル”


 


それは、彼の記憶の底にかすかに響いていた、誰かの名前。


ほんの断片だけ。


だけど、その名を失うことが、ずっと苦しかった。


 


「この名前が、誰かの“心”に届きますように」


ユウは、そう祈るように紙を折りたたみ、懐へしまった。


 


たとえ答えに辿り着けなくても。


たとえその名が、二度と返ってこなくても。


 


──呼び続けることに、意味がある。


 


 



 


“影”が生まれる理由は、喪失だけではない。


そこには、誰かが誰かを「覚えていたい」と思う願いも、またあるのだ。


名を呼ぶ声は、きっといつか、失われた記憶の扉を開く。


 


そう、ユウは信じていた。


 


そして、その声が──


“ミルフィ”の内側にある、もうひとつの名前にも、届くことを。

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