浦島太郎異聞
(何故、こんなことになったのだろう……)
太郎はボンヤリと、眼前の海を眺めた。その足下には、見事な細工が施された箱。僅かに開いた隙間から中がみえる。
靄とも、煙ともつかぬものがたなびいている。
「何故、こんなことに……」
今度は、声に出し呟いた。あまりに、理不尽だと思った。
事のはじまりは、一匹の亀だった。
四、五人の子供たちにいじめられていた亀を不憫に思い、子供たちに僅かばかりの銭を渡し、その亀を買い取った。
海へと逃がそうとした、そのときであった。その亀が人語を喋ったのだ。
「助けていただいた御礼に、海の底の都へと御案内いたします」
無論、初めは断った。
「そう、ご謙遜なさらずに。海の底の都は、良いところでございますよ」
謙遜……。そう、謙遜も確かにあっただろう。だが何よりも、
気味が、悪かった。得体の知れないものに、海の底などという得体の知れない所に連れていかれるという恐怖の方が勝っていた。
「助けていただいたので、礼を尽くすのは当然の事でございます。私の思いを無になさるおつもりですか」
都は、確かに楽しかった。そう、この世のものとは思えぬ程に。
同時に、恐ろしくもあった。
ここは、この世ではない。
この美味な酒肴も、側に寄り添う美しい姫も、この世のものではない。太郎はそれとなく、帰りたい旨を告げた。姫は少しだけ、悲しそうに目を伏せ、ひどくゆっくりとした動作で席を立った。程なくして戻った姫は、美しい細工を施した箱を手に携えていた。
「お引き止めはしません。ただ、何もなしに別れるのはあまりに辛うございます。これを持って帰って、私を思い出す縁にしてください。でも、」
この箱の中は、けしてご覧にならぬよう。それだけは忘れないでくださいましね……。
薄暗がりの海の底で、魔魅のような瞳がぼんやりと光った。太郎は半ば義務のように、それを手にとった。
(箱を開けてしまったから、姫が怒ったのだろうか……)
不意に、クスクスと笑い声が聞こえた。あの姫かと思い、振り返る。無論、そんな事はなかった。そこにいたのは、四、五歳くらいのあどけない少女だった。愛くるしい顔に笑みをうかべ、こう言った。
「おじいちゃん、さっきから一人でブツブツ言ってて、可笑しい」
「おじいちゃん?」
その言葉に眉をひそめたが、すぐに今の自分の姿に気がついた。今の自分は老爺である。姫から手渡された箱。あの箱を開けてしまったからだ。
「おじいちゃん、海のみやこに行ったんでしょう。あたし、わかるんだ。きれいな箱をもらったんでしょう。開けなきゃ良かったのに。フフフ……」
笑う少女の顔は、何故か子供らしく見えなかった。ずっと長く生きてきたような、人生の何たるかを知り尽くした大人の女の笑みにみえた。
海の都の姫を、ふと思い出した。
「ねえ、おじいちゃん。もとの姿にもどりたくない?」
太郎は、必死に頷いた。少女はそんな彼をしばらくじっと見つめていたが、やがて意を決したように口を開いた。
「ここから、あの山の方へずーっと行った所にね、おいしいお水の湧く滝があるの。……ゴメンね。一緒に行ってあげたいけど、だめなの。お父ちゃんに叱られる」
「危ないからかい?」
「ううん。ちっとも危なくなんかない。いつもそこは誰かがいるから。男の子たちがいっぱいいるから。だから、ダメだって。知らない男の子と、あんまり仲良くなっちゃいけないって。……あ、お父ちゃんだ! じゃあね、おじいちゃん」
向こうから、歩いてくる男が見えた。まだ、わかい男だ。妙なことに、少女が『お父ちゃん』とよぶにもかかわらず、顔が似ていない。
「こんなところにいたのか。さ。かえろう。知らない男の子なんかと話しちゃ駄目だと言っただろう」
「男の子じゃないもん。おじいちゃんだもん。……これから『男の子』になるのかも知れないけど」
少女の最後の呟きは、太郎には聞こえなかった。彼は滝を目指して歩きはじめていたからである。
「あの人、飲みすぎなければいいけど。私のように」
「まず、無理だろうな。そしてまた、子供がふえる」
「若返り過ぎた自分に絶望して、亀を恨むでしょうね」
「すべての元凶となった亀を……。いつものことだ。ずっと繰り返されてきたことだ。歳をどうこうするという事は、人ではなくなるという事なのに」
「ずっと若いままで未来永劫生き続ける事と、寿命を取られて夢うつつのなか死ねるのと……どちらが幸せなのかしらね……」
少女と、わかい男はだいたいそんな事を話しながら、家路を辿る。
その姿は親子というよりも、まるで仲睦まじい夫婦のようにみえた。