その18 白いボードと世界ー最終回 前半ー
パソコンの電源を落とした博士は、椅子にもたれたままディスプレイから白いボードに視線を移した。
何もない、薄汚れた白いボードの表面をじっと見ていた。
今まで目にしてきた写真やメモ、走り書きは、そこにはもうなかったが、博士の目には残像が映っていた。
ぼんやりとした残像を追いやるように固く目を閉じた。
博士は、緑と実際に会うはずだった日のことを思い出返した。
緑は退院後に、通院しながら様子を見て、全快とは言わなくても命の危険はなく、日常生活を送るのに支障がないくらい快復したとモモから聞いた。
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もも:(あした、家にいるよね?)
ナス:(ああ、まだ、余裕はある仕事だけど、早めに仕様書案作っときたいから、家にこもってるかな。)
もも:(わかった。じゃ、明日そっちに緑をつれていくから)
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「えっ?」
驚いて声を出したが、そこから何を書いていいのかわからなかった。
前日のチャットの文字の会話はそこで終わった。
次の日、博士は朝から少し緊張していた。
博士には、自分を見た緑がどんな反応を示すのか全く想像できなかった。
ただ、その日も仕事をしているうちに没頭してしまい、いつものように時間の感覚がなくなっていた。
博士は仕様書案をまとめ終わると、窓の方に目をやった。
外は暗く、夜の冷気が感じられた。
「今日は何か予定があったような。」
パソコン画面に表示するpptのページを送りながら、その流れを確認していた。
今回の仕様案は、ストーリーの骨組みを書き出しただけのもので、本格的なものではないから12時間もあれば十分作成できた。
「あっ、そうだ。
モモが緑を連れてくるって。
しまった、気がつかずに居留守したことになったか?」
博士は、ページを送るために回していたマウスのホイールから手を離すと、立ち上がり玄関まで歩いた。
そして、我に返り、元のパソコンデスクの前の椅子に座った。
「今更、玄関に言っても意味がない。
俺は何を焦っているんだ。
えっと、そう、ケータイだ。」
博士は、再度立ち上がり、今度はベッドわきの机に置いていた携帯を取りに行った。
携帯にはショートメールが1件入っていた。
緑が事故ったから今日はパス
博士は脱力して、そのままベッドに座り、背中から倒れ込んだ。
「なんだ。
来なかったんだな。
よかった。」
自分の言葉にはっとして、博士は起き上がってベッドに座りなおした。
「いや、事故って書いてある。
俺は相手の心配もせずに何を安心しているんだ。」
その日は結局そのまま寝てしまった。
博士は緑が何の病気だったのかを知らないし、過去のなかでも聞こうとも思わなかった。
2次元の世界の緑しか知らず、博士にとっては、「それ」は元気で前向きで自分の気持ちを素直に言える少女だった。
「「私は、いつも、大好きなナスのこと考えてるよ。」か。
メロンの「大好きなナス」は、自分を理解してくれなくもメロンと一緒にいることを望むナスで、ナスから見たメロンを理想化していないナスだということか。」
博士はそう言いながら、椅子を引くとゆっくりと立ち、薄汚れた白いボードの前に立った。
「緑の情報をインプットして作っていったメロンは、最初から、お前のなかにしか「大好きなナス」がいないことを理解していたんだな。」
人差し指を白いボードに触れさせて、そのまま下に移動する。
薄汚れた白いボードだったが、指を滑らせた跡がすこしだけ白に近づいた。
「モモが緑から伝え聞いていたナスと、バーチャルで俺に絡んできた緑の情報、そして緑の友人たちから聞いたこと。
メロンをつくって動作させていくうちに、俺ではなく、メロンが作ったナスを同じバーチャルのなかに置いた。
そこで、俺はもうメロンのナスであることを、拒否してしまっていたんだな。」
何の情報も残さない白いボードだが、それでも、自分の情報を書いてはいなかったことに今更気がついた。
自分の情報ではなく、あくまでも、緑から見たナスの情報だけを無意識に書き出していた。
「最初から、否定される自分のことを情報化することを避けていたのか。
いや、もう、プログラムは完成した。
仕様バグだったとしても、納期がなくても、これ以上は俺が俺である限りきっと作れない。」
博士は黒くなった人差し指の先を見て、ため息をついた。
博士自身も、自分がログインして、メロンやナスと話すとき、自分がナスではないことを自覚していた。
だが、それが、自己否定の結果であることを自覚していなかった。
「モモは、俺のことをまだ時々ナスと呼んでいたけど、もしかして、わかって呼んでいたのか。」
ふと、モモのことを思い出したとき、モモから言われたことを思い出した。
(とりあえず、ナスが嫌なら 博士さん と呼ぶわね?
納期のないVRプログラムのことはゆっくり作って?
リアルの納期を忘れないてないでね?)
「リアルの納期って、明日じゃなかったか?」
博士は白いボードからパソコンの前に戻り、キーボードの左横に置いていたケータイのスケジュールを確認した。
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最終回 前半/後半 に分けました。