9 十六番めの机
十六番めの机
僕はひどくお腹が痛かった。こんなことは初めてだった。この教室で目覚めてから、一度だってこんなことはなかった。お腹が痛くなることも、頭が痛くなることも、咳が出ることもなかった。くしゃみもしなかったし、お腹が減ることも、喉が渇くことすらなかった。それが……、どうしてだろう。急にお腹が痛み出した。それもかなりひどい。
僕はお腹を抱え、「うぅぅ……、うぅぅ……」と唸り声を上げながら、窓辺の床にうずくまった。暑いのか寒いのかわからず、じっとりと汗をかき、ガタガタと震えた。うずくまっていることすら辛くなり、床に横になった。このまま死んでしまうのかと思った。誰も助けてくれない。どこかに逃げることもできない。このまま……、このまま……。
気を失ったのか、眠っていたのかわからない。何かに起こされた時も、お腹は強烈に痛かった。痛みで目を開けることも辛かった。拳を握り締め、お腹を抱えたまま、指一本動かすことができない。微かに目を開けると、うっすらと緑色の光が見えた。またいつもの鹿だった。鹿はどうやら、僕を立ち上がらせようとしているようだった。服を噛んで引っ張ったり、僕の顔の下に頭を差し入れ、持ち上げようとした。
「や、やめて……。苦しい……」僕はそう言うのがやっとだった。従うことも抵抗することもできない。
やがて鹿は、僕のズボンの腰の部分を噛むと、後ろ向きに、そのまま強引に引きずって教室の中を移動した。ちょうど教室の真ん中くらいで鹿は止まり、今度は僕を持ち上げようとした。
僕は鹿が何をしようとしているのかわかった。
椅子に、座らせようとしている。
「ここに座りなさい」心の中に、そんな声がした。鹿が僕に話しかけているのだとわかった。鹿は僕の右腕の袖を噛むと、それを持ち上げ机の上に置いた。
「さあ、座りなさい」
僕はふと、その声に聞き覚えがあると思った。どうしてそんなことを考えるのだろう。
三つめの机で、記憶をインプットされたせいだろうか。あれから、僕は時々変なことを考えるようになった。何か心の奥にしまい込んでいる記憶があるような気がすることがあった。
けれどそんなことはすぐにかき消されてしまう。それに鹿の声なんて、知っているはずがない。でも……、でも……、知っている声だった。懐かしい声だった。胸に心地良かった。いったい、いったい……。
そんなことを考えたせいで、僕は一瞬痛みを忘れることができた。鹿に促されるまま、僕は十六番めの机の椅子に座った。
目が覚めると、僕はベッドに横になっていた。小さな部屋だった。窓が見える。カーテンは大きく開かれていて、外の景色が見えた。大きな木が生えていて、枝や葉の向こうに青空が見える。ほんの少し窓が開いていて、春の匂いを運ぶ風が入ってきた。その風に乗って、どこかから笛の音や子供たちの声が聞こえてくる。
学校の、保健室だった。
お腹はまだ痛かった。僕は思わず目を閉じ、身をよじった。
「気が付いた?」
声のした方を見ると、椅子に座る女の子がいた。不安そうに僕を見ている。そっと立ち上がり、僕の額に手を置いた。
「熱はないけど、顔色がすごく悪い。お腹が痛いのね?」
僕は返事をしようとしたけど、あまりの痛さに頷くことしかできなかった。
「いいのよ、何も言わなくて。そのままにしてて」女の子はそう言って、僕の肩まで布団をかけてくれた。
どこかで聞いた声だなと、僕はふと思った。けれどそれがどこなのかわからなかったし、その女の子に見覚えは無かった。
保健室は、つい立てが立てられていて、部屋の全部を見ることはできなかった。けれどどうやら、保健室にいるのは、僕と女の子の二人だけのようだった。
「お腹が痛くなる前、何か食べたり飲んだりしなかった?」
僕はあの教室に来てから、何も食べなかったし、何も飲まなかった。何も……、飲まなかった?
「川の水を飲んだ」そうだ、かなと森で出会った時、僕は暑くて川の水をたくさん飲んだ。
「川の水?」
「うん。たくさん飲んだ。暑かった。すごくすごく、暑かったんだ」
「きっとそれだわ。いくら喉が渇いても、川の水をそのまま飲んじゃ駄目よ?」
僕はやはり、お腹が痛くて目をきつく閉じて頷いた。
「待ってね、お薬あげるから。起き上がれる?」女の子はそう言うと、僕が起き上がるのを助けるために、背中に手を差し入れた。小さく温かな手が僕の背中に押し当てられ、僕はベッドの上に座らされた。
女の子は僕が独りで座っていられることを確かめると、小さな机の引き出しから薬の入った容器を取り出した。女の子は落とさないように、慎重にその薬を四粒数えて小皿に出し、僕に差し出した。赤くて丸い、小さな薬だった。僕がそれを受け取り口に入れると、女の子は机の上に置いてあった水差しからコップに水を注ぎ、僕の手から小皿を受け取ると、代わりにそれを手渡した。
薬は小さかったので、一口で飲み込むことができた。
女の子はじっとその様子を見ていた。生ぬるい水が胃に流れ込むのを感じた。薬がそんなに早く効いたわけではないし、お腹はまだ痛かったけれど、僕は体中から力が抜けるのを感じた。そして女の子の落ち着いた身のこなしと話し方が、僕を安心させてくれた。
「落ち着いた?」
僕は頷いた。
「少し、眠るといいわ。すぐにお薬が効いてくるから」
僕は「ありがとう」とつぶやくと、すぐに眠りに落ちた。
どれくらい眠っていたのかわからない。外の明るさは変わっていなかったので、時間はそんなに経っていないようだった。けれど、まるで一晩ぐっすり眠ったように体が軽かった。お腹はもう嘘のように痛くなかった。薬はとてもよく効いてくれたようだ。
何か嫌な夢を見ていたのを思い出した。けれど内容は思い出せなかった。とてもとても嫌な夢だった。心の中に、黒い芯のようなものが残っていた。僕は不安になって、女の子の姿を探した。それと同時に、つい立の向こうから女の子が顔を出した。
「あら、よくなった?」
僕は頷き、「ありがとう」と言った。
女の子は嬉しそうににっこりと笑った。
「お水は?」そう言って女の子は椅子に座り、水差しからコップに水を注いだ。
僕は体を起こし、それを受け取って一口飲んだ。
女の子はそれを見届けると、安心した表情を見せコップを受け取り、「もう少し寝ててね」と言った。僕は……、どこかでその光景を見たような気がした。けれど、「気がした」だけで、それが本当に見た光景なのかどうかわからず、何も思い出せなかった。なんだかまだ頭がくらくらした。目を開けていると景色がぐるぐると回るようだった。僕は目を閉じた。けれど……、何かを確かめなければいけなかった。なんだか気分が落ち着かなかった。なんだろう……、なんだろう……。僕は目を開けた。視点が定まらなかった。けれど、確かめなければいけなかった。それがなんなのかわからなかった。僕は時計を見た。なんだか見たことのあるような時計だった。
十時三十八分。
駄目だ、駄目だ、駄目だ……。
心の中に僕の声が聞こえた。けれど僕は何も言っていなかった。
駄目だ、駄目だ、駄目だ!
なんだろう、この泣きたくなる気持ちは。なんだろう、居ても立っても居られない。大声を上げて泣き出しそうだった。
「もう、休憩時間が終わっちゃう」不意に女の子は言った。どこかで聞いたことのあるような言葉だった。
駄目だ! 駄目だ! 駄目だ!
女の子は立ち上がった。
駄目だ! 駄目だ! 駄目だ!
「駄目だあああ!!! 行かないで!!!」気が付くと僕は、頭を両手で抱え、女の子の背中に喉を切り裂かんばかりの声で叫んでいた。
何か、心の中にとてつもなく恐ろしい影が爆発して、僕は大声をあげて泣き出した。
「どうしたの? 大丈夫、大丈夫よ、どこにも行かないね。だから安心して」女の子はそう言って、僕の震える肩を抱きしめた。
僕は「うわああああああ!」と泣き叫んだ。
涙がとめどなく溢れ、叫び声も止まらなかった。
お腹の中からこの世界を覆いつくすような真っ暗な影が飛び出してくるような気がした。
「ああああ! ああああ! ああああ!」と鳴き声とともに叫んだ。
「大丈夫、大丈夫よ。さあ、落ち着いて」女の子はそう言って僕を抱きしめたまま、頭を撫でた。そして僕は止まらない涙と叫び声をどこか遠くに自分の耳で聞きながら、必死に目を開けて時計を見た。
十時四十六分。
時間は過ぎていた。僕はなぜかその時間を見て、ももながそばにいるのを見て安心した。体中から力が抜けるのを感じた。ももな。どうして僕は今、この子の名前を知っていたのだろう。そう思いながら、意識がとてもとても深く暗い場所に落ちて行くのを感じた。