8 七つめの机
七つめの机
僕は教室に戻ると、窓際に立って月を眺めながらしばらくさよこのことを考えた。
さよこはとても思慮深く、頭の良い子だった。笑顔を見せてくれたのは一度きりだったけれど、その瞬間眉間からしわが消え、とても愛らしい顔になった。そしてさよこはこう言った。
「消えてしまった人が、私をそう呼んだ」
「あなたの名前を呼ぶべき人は、まだ消えてはいない」
どう言うことだろう?
名前は自分でつけるものではなく、誰かに教えてもらうものなのだろうか。消えてしまった人とは、死んだ人と言うことだろうか。いったい誰のことだろう。机を巡れば巡るほど、答えにたどり着くどころか疑問が増えていく気がした。とにかく僕は、自分の望む世界を見つけなければならない。
僕はそっと七つめの机に進んだ。
椅子に座った途端、辺りの空気が変わるのがわかった。もわっと、蒸し暑い。息苦しいほどに、木々の緑や土の匂いがする。目を開ける前からわかった。ここは森の中だ。
見上げると、太陽はそこにあるのがわかるのに、遠く高い木々の重なる葉で覆いつくされ、その光を直接見ることはできない。何かが木の枝を揺らしたが、その正体を確認することができない。顔に生ぬるい水のしずくが落ちてきた。僕はそれを袖で拭って、辺りを見回した。
どこの森だろう。
知らない木や植物がたくさんある。時折聞こえる甲高い鳥の鳴き声や、どこかで呼び合う動物の声も、どれも知らないものばかりだった。赤道付近の、異国の森かも知れない。一年中蒸し暑く、気まぐれに猛烈な雨を降らせるような場所。
誰かいないだろうか?
きっといるはずだった。
この場所を、自分の望む世界としている住人が。
「おーい、誰かいないのかい!?」僕は叫んでみた。
けれど返事はなく、代わりに「グワー! グワー! グワー!」っとけたたましいサルのような動物の鳴き声が頭上から降り注いだ。どうやら一匹ではないらしかった。何十匹もの動物が、一斉に呼応するように「グワー! グワー! グワー!」と叫び声をあげた。僕はその声のする方を見上げたけれど、やはり声の主は見つけることができなかった。ぐるぐると目が回っただけだった。僕は再び辺りを見回した。どちらに進めばいいのかさっぱりわからなかった。とにかく、どこかに進もう。そう考えていると、どこかから川の流れるような音がするのが聞こえてきた。
僕はその音の方に進んだ。踏みしめる地面は、朽ちた木々や葉に覆われていて、柔らかかった。ゆっくり歩いていたけれど、熱気が首筋にまとわりつき、汗が噴き出した。
喉が渇いた。
たまらなく水が飲みたかった。
川に行こう、とにかく、川……、川だ。川に行こう。僕はぶつぶつと独り言をつぶやきながら歩いた。そしてしばらく歩き、ようやく川の音に近づいた時、「動かないで!」とどこか後ろから女の子の声が聞こえた。
「動いちゃだめ! じっとして! すぐ行くから!」
そう言われて僕は歩くのをやめ、声のした方を振り返った。すると今までどうしてそんな近くに人がいたのに気が付かなかったのだろうと思えるほどの近くの岩陰から女の子は顔を出した。
真っ黒に日焼けして、帽子をかぶってこの暑さだと言うのに長袖長ズボンを着ていた。髪は短く、声を聞かなければ男の子と間違えたかもしれない。
「動いちゃ駄目よ! 目の前にヘビがいるの」
そう言われて僕は飛び上がりそうになったけれど、「動いちゃ駄目」と言われていたので、その言いつけを守ることに専念した。
「ちょっと待ってね」そう言うと女の子は、背負ったリュックから長い木の棒を引っ張り出し、すっと僕の目の前、五十センチほど前に伸びた枝に絡みつく鮮やかな緑色の蛇の腹の下に差し入れた。そしてそっと持ち上げると、「ごめんね」とつぶやいて、その棒と一緒にヘビを遠くの方に投げやった。
「もう大丈夫よ」
「ありがとう。ぜんぜん気づかなかったよ」
「ええ、慣れてないとね、なかなか見つけられないわ」そう言って女の子は笑った。深い漆黒の瞳を持つ女の子だった。
「私の名前はかなよ。あなたは?」
「僕は……」
「まだ名前がないのね。気にしないで。教室から来たんでしょ?」僕が答える前にかなが引き継いだ。はきはきと明るく話す子だった。
「ここは、君の世界だね。君はここで何をしているの?」今度は僕が質問をしてみた。
「私はね、昆虫を探しているの」
「昆虫?」
「ええそうよ、昆虫。虫のことよ」
それはわかったけれど、どうしてこの子はこんな蒸し暑い森の中で昆虫なんか探しているのだろう。
「どんな虫を探しているの?」
「うーん、それがね、わからないの」
「わからない?」
「うん。伝説の昆虫なの」
「伝説?」
「そうよ。本当にいるかどうかもわからない。ユニコーンとか、ドラゴンとかあるでしょ? あんな風に、伝説、幻の昆虫なの」
「そうなんだ」
かなが先に歩き、僕はその後をついて行くようにして歩いた。かなはとても大きな荷物を背負っていて、その荷物のせいでかなの体はほとんど見えなかった。
やがて川にたどり着くと、僕は真っ先に水を飲んだ。
「そんなにたくさん飲むと、お腹壊しちゃうよ!」とかなは笑いながら言ったけれど、僕はもう喉が渇いて渇いて水を飲むのを止めることができなかった。冷たくて、今までこれほど水を美味しいと感じたことは一度もなかった。
「かなは、どうして伝説の昆虫を探しているの?」僕は落ち着くと、近くの岩場に座って聞いた。
「それもね、わからないの。自分がどうして伝説の昆虫を探しているのか、それがどこにいるのか、どんな色で、どんな姿をしているのか、まったくわからないの。本当にいるのかどうかすらわからないし、見つけてもそれがそうだとわからないかもしれない。見つけても嬉しいかどうかわからないし、『ああ、これがそうか』で終わっちゃうかも知れない。そもそも私、そんなに昆虫が好きってわけでもないの」そう言ってかなは笑った。
「それじゃあ……」
「そうね、私のやっていることは、まったく意味がないのかも知れない。けれどどうしてかわからないんだけど、そうせずにはいられないの。どうしてその昆虫を探しているのか、その答えが知りたいから、探しているのかも知れないの」
そんな話をしながら、かなを手伝ってテントを張った。大きい荷物だなあ、と思っていた中身は、テントと、虫を捕まえるための道具がたくさん入っていた。川辺だったので、少し涼しかった。テントを張り終えると、かなと二人で並んで岩場に座り、川の流れに足を浸して涼んだ。
「かなって言うのは、どんな字を書くの?」僕がそう聞くと、かなは木の枝を取って地面に自分の名前を書いた。
「『夏奈』って書くのよ」
「いい名前だね。自分で考えたの?」
「うん、そうとも言えるし、そうでないとも言える」
「どういう事?」
「私の中で、私でない誰かが、私のことをそう呼んだの。だから私、ああ私は夏奈なんだな、って思ったの」
「そうなんだ」そのうち僕も、誰かが僕の名前を呼んでくれるのだろうか。
やがて日が暮れてくると、空一面にたくさんの大きな鳥が、どこかへ向かって飛んで行った。
「みんな家に帰るのね」かなは赤くなった空を見上げながら、少し寂しそうに言った。
夜になると、かなは集めて置いた薪に火をつけて、小さな焚き火をした。暗くなると、鳥や動物の鳴き声は聞こえなくなった。川の流れる音だけが、心地よく鼓膜を震わせた。
「ねえ見て、ほら」そう言うかなの視線の先を見つめると、ほんのり黄色く何かが光っていた。
蛍だった。
やがて闇が深まると、蛍の光はいっそう明るさを増し、数も増えていった。
僕が「まるで光の葡萄みたいだ」と言うと、かなは笑った。けれどほんとうに、葡萄のように辺り一面の木々や草の上で何匹もの蛍が光を放っていたのだ。その数は、何千、何万と、数え切れなかった。
かなはそれを見て、「月の精霊が降りてきたみたい」と言った。
月の精霊。
なんて綺麗な響きなんだろうと僕は思った。そしてその通り、蛍はまるで、月の光を体に宿したかのように美しかった。
「ねえ、見てみて」かなはまた僕を呼んだ。
その声にかなに近づいてみると、セミの幼虫が地面から這い出ていた。僕はかなと二人でその様子を見守った。セミの幼虫は、長い時間をかけ地面を歩き、大きな木を見つけると、そこに前足を引っかけるようにして器用によじ登った。やがてその硬い背中にひびが入ると、それが縦に広がり、真っ白なセミの頭が顔を出した。セミはもがくように身を捩じらせ、足が動くようになると、今まで自分自身だった幼虫の体につかまり、全身を外に出した。重力に導かれる朝露の雫のように、薄く艶やかな透明の羽が形を成した。
かなと二人、その様子を見守った。
ふと目にしたかなの目には、うっすら涙が浮かんでいるように見えた。その理由は聞かなかった。東の空が白みだし、セミが飛び立つのを見届けると、僕はかなに別れを告げて教室に戻った。