5 四つめの机
四つめの机
僕が四つめの机に触れるためには、少し時間が必要だった。
僕はまた眠った。
窓際の、揺れるカーテンが見える位置で、心を落ち着けるために眠った。
眠った時に、夢を見た。
この教室に来て、何度か眠ったことはあるけれど、夢を見るのは初めてだった。内容はでも、めちゃくちゃだった。夢はだいたいいつもめちゃくちゃだ。けど、それにしても、あまりにめちゃくちゃだった。見たこともない風景や人や、聞いたこともないような音楽や動物の鳴き声が、まるでメリーゴーランドに乗っているかのように頭の中をぐるぐる回った。何かに触れているような気もしたし、宙に浮いているような気もした。泣いている気もしたし笑っている気もした。夢の内容は全部、知らないことであるような気もしたし、記憶のどこかから引っ張り出してきたもののような気もした。つまり、ぜんぶ曖昧で……、これはもしかして、あの実験室のような場所で、「記憶をインプット」されたからなのだろうかと考えた。
そして僕は、四つめの机に触れ、その椅子に座った。
一瞬ふわりと宙に浮き、次の瞬間柔らかい何かの上にどすんっと落ちる感触があった。痛くはなかった。僕は何かに埋もれていた。あおむけに倒れ、空を見ていた。鼠色の空だった。
柔らかい何かは、すぐに厚く積もった雪だとわかった。空から次々と雪が降っていたし、手や首筋や、靴の中に入ってきたものは濡れていて、ひんやりと冷たかった。
僕は体を起こした。
辺りを見渡したけど、ここがどこかさっぱり見当がつかなかった。
どうやら森の中のようだった。
深い深い森の中。葉を一枚もつけず、雪の重さに耐えるように木々が生い茂っている。辺りが暗いのは、厚い雲のせいばかりではなく、日が暮れかけているのだと思った。
僕は立ち上がった。
雪は厚く、歩こうとすると膝のあたりまで雪に埋もれた。
僕はもう一度辺りを見渡した。
誰も……、いないのだろうか。
僕は少し不安になって歩き出した。
どこへ向かって歩けばいいのかわからなかったけれど、木々が少なく、平らで歩きやすそうな方へ向かって歩いた。靴の中はすぐにずぶ濡れになり、氷のように冷たい水が足を包んだ。しばらく歩くと、足跡のようなものを見つけた。たぶん、人間の足跡だろう。それくらいの大きさだ。
この足跡をたどるなら、早くしなければいけないようだった。降り続く雪に、いまにも消えそうになっている。僕はその足跡を頼りに、森を進んだ。辺りはみるみる暗くなっていく。
百メートルほど歩いただろうか。ひどく時間がかかった。遠くの方に、小さな明かりが見えた。僕は心底安心した。足跡はもう、降り積もる雪でほとんど見えない。足の感覚も無くなっている。
僕は急いだ。
必死に重い足を上げ、前に進めると、残った足を雪から引っこ抜いた。明かりの下にたどり着くと、そこには小さな丸太小屋があった。
本当に小さな小屋だった。
小人でも住んでいるのかな? と思うほどだった。扉なんかは、しゃがまなければ入れそうもなかった。三角屋根に雪が積もり、明日の朝には埋もれてしまうのではないかと思われた。煙突が付いていて、細い煙が昇っていた。
僕はかじかむ手でコンコンッと扉をノックした。
誰も出てはこなかった。
もう一度、コンコンッとノックした。
「すみませーん」と声を上げ、気配はないかと扉に耳を押し当てた。
けれども、中からは物音ひとつ聞こえてはこなかった。僕は試しに扉を押してみた。
扉は、ギギー……、と言って開いた。もう一度中に、「すみません」と声をかけた。けれども返事はなかった。
外から見た通り、中は狭く、背伸びをすれば中から屋根に手が届くのではないかと思われた。普段なら、誰もいない家に勝手に入ったりはしないのだけれど、僕はひどくずぶ濡れだったし、足はもう感覚がなかったし、手は寒さに真っ赤になっていた。
僕は恐る恐る、中に入った。
それはまるで、おとぎ話の世界に紛れ込んだようだった。中には窓際に小さなテーブルとイス、煙突へと続く下には暖炉があり、その中では小さな炎がぱちぱちと音を鳴らしていた。玄関の隅に薪が積まれているのを見つけ、僕はそれを何本か暖炉の中に放り込んだ。
濡れた靴と靴下を脱ぎ、暖炉の前に置いた。小屋の中はとても温かく、顔に暖炉の炎の熱を受けていると、僕はとてもとても眠くなってしまった。
うとうとしていたのはほんの数分だと思う。
誰かの声に目が覚めた。
「ねえ、どちらさま?」と、女の子の声がした。
僕がその声に目を覚ますと、怯えたように小さな女の子が僕の顔を覗き込んでいた。
「あ、いや、ごめんなさい。勝手に入ってしまって。その、森で迷って、見ての通り、ずぶぬれで……」僕はなんとか言い訳の言葉を探して女の子に訴えた。
「ええ、いいのよ」女の子はそう言って笑ってくれた。
女の子は、背はとても低かったけれど、決して小人なんかではなかった。歳も、たぶん僕と同じくらいだろう。けどこの小屋は、明らかにこの子のサイズに合わせて作られているようだった。
「とてもいい家だね。温かくて、素敵だ」僕はそう言った。そう思ったのは本当だった。
女の子は家を褒められたのがとても嬉しかったらしく、「ありがとう」と言ってほほ笑んだ。
「ところでここは、いったいどこなんだろう」と僕は聞いた。
「見ての通り、とてもとても深い、森の奥よ」と女の子は答えた。
「あ、そうだ。僕はまだ自己紹介をしていない……。けれど、僕には名前もないし、紹介するようなこともなにもないんだ」
「そうなのね。気にしないで。私はつぐみと言うの。鳥の鶫よ。もう二百五十六年も、ここに住んでいるの。ずっと独り。たまにあなたみたいなお客様が来るけどね」
「つぐみちゃんは、ここで何をしているの?」
「わたしはそうね、庭を作っているの」
「庭?」
「そうよ。とてもとても大きなお庭。この家も、庭の一部なのよ」
「庭ってでも、ここは山の中では……」
「冬だから、わからないわね」そう言ってつぐみは笑った。
「春になるとよくわかるわ。この家の横には小さな川が流れていて、銀色の小さな魚がたくさん泳いでいるの。その川を下ってしばらく歩くと、大きな草原に出るわ。そこには色とりどりの花が咲き乱れている。全部私が植えたのよ。土を掘り返して、川の流れを作って。この森の木々も、いくつかは私が選んで植えたの。動物たちの餌になるように、どんぐりや栗や柿の木や、実のなる木が多いわ。あと、私は山桜が好きだから、それを目印に隣の山へ行けるように、五十メートルおきに植えてある。もっとも、それが目印になるのは、花の咲く春の間だけ。あとはもう、他の木々と見分けがつかない」そう言ってつぐみは笑った。
「素敵だね。けど、どうして庭を作るの?」
「うーん、難しい理由はないわ。私はたくさんのお花に囲まれて過ごしたいの。動物もいた方が楽しいわね。ちゃんと季節があって、それに合わせてとても楽しい気分になったり、寂しい気分になったり、そう言うのが全部好きなのよ」
「それがつぐみちゃんの望む世界なんだね」
「望む世界。ええ、そうよ」つぐみはそう言って笑った。そして付け加えた。「あなたはやはり、教室から来たのね? 自分の机と椅子を探しに」
「うん、そうなんだ。まだ何も見つからないけどね」
「ここは気に入った?」
「うん、とても。とても温かくていい場所だ」
「さっきまで雪の中で震えていたのに?」つぐみは笑った。
「そうだったね」僕も笑った。
そんな風にして、暖炉の火を見つめながらつぐみといつまでも語り合った。靴も靴下も、いつの間にかちゃんと乾いていた。時々外で、積もった雪が屋根からドサっと落ちる音がした。薪を暖炉に入れると、バチバチと大きな音がして炎が大きくなった。そのたびに、炎に照らされ僕は頬が温かくなった。
僕は気が付くと眠っていた。そして夢を見た。夢の中にはただ、つぐみの声だけが聞こえた。
「いつかきっと、あなたにも望む場所が見つかればいいわね」
「うん。頑張って探してみるよ」僕は答えた。
「ぜひほかの季節も見せてあげたかったな」
「ちゃんと見えたよ。つぐみちゃんの話を聞いて、胸の中に。たくさんつぐみちゃんの庭の景色を見ることができた。花の咲く草原も、山桜も、鹿や熊やリスが木の実を食べる姿も、鳥のさえずりや、セミの声が鳴り響く森も、フクロウの鳴く秋の夜の森も、ぜんぶぜんぶ、とても素敵だった!」
「よかった! きっとあなたの望む場所も、とてもとても素敵な場所になるわ」
「うん、ありがとう」
「それじゃあ、さよなら」
「うん、さよなら」
そう……、鹿。
鹿には気を付けて。
鹿はあなたのことを、とてもとても愛してくれる。
けれど、必ずあなたを幸せにするとは限らない。
胸のとてもとても深いところに、そんなつぐみの声が聞こえた。