3 二つめの机
二つめの机
僕はそっと、寝ている人を起こさないように、そっとそっと、その席を離れた。
一つめの机は、僕の席ではなかったらしい。
それにしても、いったい誰が窓を開けているのだろう。そう思いながら窓に近づき、揺れるカーテンの隙間に顔を入れ、外を覗いた。グラウンドには、何もいなかった。空を見上げると、やはり月が眩しいほどに光を放っていた。
月は太陽の光を反射しているのだと聞いたことがあるけれど、きっとそれは嘘だと思った。太陽の光が、あんな冷たく透明なわけがない。太陽の光は、体を芯まで温めてくれるけど、月の光は心を清めるように、そして時に嘘を見抜くかのように、しんと冷たく眼球の奥に光を落とす。
僕は窓を閉め、鍵をかけた。けれど、少し考え直して、その鍵を開けた。もしかしたら、この窓を開けたい誰かがいるのかも知れないと思った。
来た時と同じように、そっとそっと静かに黒板の前に戻ると、教室全体を見渡し呼吸を整えた。
僕の席を探さなければ。
ほんの少し怯えながら、二つめの机へと近づいた。一つ目の机と同じように、その表面に指を滑らせる。椅子を引き、そこに腰かけた。その瞬間、ふわりと体が宙に浮く感覚があった。
そこは同じく夜であった。
見渡す限りの夜。
一面の星空。
僕は教室にいたはずなのに、僕を閉じ込めていた壁も天井も窓も扉も、どこかに消え去っていた。座っていたはずの椅子も、さっき触れたばかりの机も、止まった時間を示す時計も、何もなかった。それどころか……。
僕は宙に浮いていた。
宇宙のど真ん中、地面も空もなく、上も下もなく、僕は宇宙の真っただ中にいた。
後ろを見ようとしたけれど、つかまるところもなく僕は浮いていたので、首をひねることはできたけれど、体の向きを変えたりすることはできなかった。
その見えない後ろから、「ねえ、あなたはだれ?」と声がした。
僕はその声の主を見ようとしたけれど、やはり首の動く範囲でしか振り向くことはできなかったので、顔を見ることはできなかった。
「そのままでいいのよ。いずれこちらを向くことになる」
声の主は女の子のようだった。か細く、透き通った声だった。
ここはどこ? と僕は声を出したつもりだったけど、その声は自分の耳にすら聞こえなかった。
「声を出そうとしても駄目よ? ここは宇宙なんだから。音は出せない。私の心に直接話しかけて?」
僕は試しにやってみた。
ここはどこ?
僕は心の中で言ってみた。
「それじゃあだめよ、うまく聞こえない。ちゃんと私に話しかけるようにやってみて」
「ここはどこ?」僕は言われた通り、女の子に話しかけるつもりで言ってみた。
「そう! うまくいったわ。ちゃんと聞こえた。簡単でしょ? 誰でもすぐにできるの。心の中で話すことは、声に出すより簡単なのよ」女の子は僕がちゃんと話せたことが、とても嬉しいようだった。
「ああ、そう、あなたの質問に答えていないね。ここがどこか。見ての通り、ここは宇宙よ。私はこの宇宙を、果てまで漂い続けるの」
「果てまで?」
「ええそうよ。今は旅の途中。地球を離れて、もう何年にもなるわ」
僕は目の前に広がる無限の星を見ながら、女の子の言葉を心の中で反芻した。「この宇宙を果てまで漂い続けるの。今はその旅の途中」僕は意味を理解し、その孤独な旅を想像した。
宇宙を、果てまで漂い続ける。
「宇宙の果ては、どこにあるの?」僕は質問の続きをした。
「それがわからないから知りたいの。誰も見たことがない。誰も知らない。どんな本にも載っていない。私は知らない場所に行くのが好き。うんとうんと遠くて知らない場所にね。そうね、私はね、この宇宙を全部見たいの。望遠鏡なんかじゃ見れない、まだ誰も見たことのない星々や、そのもっとずっとずっと先にあるものを。ここは私の世界なの。あなた、教室から来たんでしょ? 今までにも何人か来たわ、あなたのようなお客様が私の世界に。私の、望んだ世界に」
「ここは、君の世界……」
「ええ、そうよ。気に入った? あなた、名前はある? 私はみつきよ。美しい月と書いてみつき。自分で決めた名前なの。教室にいた時、窓から月が見えたでしょ? ああ綺麗だな、私もあんな風になりたいな、って思ったの」
「僕には、名前がないんだ」
「うん、そうよね。ここに来た人たち、みんな名前がなかった。けど、名前はあった方がいいよ。自己紹介ができないもの。それに、名前がないと、自分が誰なのかわからない。自分が誰なのかわからないって言うのは、なんだか寂しいよ? だからちゃんと、私は『みつきです』って言えるように、私は自分でつけたの。ねえ、よければ一緒に考えよ? あなたの名前。時間はたくさんあるから」
「ほんと?」
「うん! ほんと!」みつきは、僕の後ろでくすくすと笑った。
それから二人で、僕の名前についていろいろ考えた。
「あなたはどんな世界に暮らしたい?」「あなたはどんなものが好き?」「あなたはどんな人になりたい?」
みつきはいろんな質問を持っていた。けれど僕はその質問の答えをほとんど持っていなかった。
「うん、そうよね。あなたはまだ、教室に生まれたばかりなのよね」
「うん。自分のこと、何もわからないんだ」
「私の机は、何個めだったの?」
「何個めって?」
「他の椅子にも、座ってみたんでしょ?」
「ああ、うん。二つめだよ」
「そうか。じゃあまだあんまりわかんないね。まだ始まったばかりだもんね」
「他の席にも、みつきみたいな子がたくさんいるの?」
「ええそうよ! みんな自分の世界を持っているの。たくさん見に行くといいわ。名前はそう、その後がいいね。とてもとても大事だから」
「みんな自分の名前を持っている?」
「わからないわ。私に出会った人たちは、きっと名前を持っていると思う」
「その人たちも、自分の世界を持っている?」
「ええ、教室にあった机の数だけ、誰かの世界があるはずよ」
僕は教室にあった机の数を思い出してみた。確か、二十六個だ。
「僕もそのうち、自分の世界を持つのかな」
「ええそうよ。教室のどこかに、あなたの椅子と机がある。あなたが自分の世界を持った時、それは見つかるわ」
僕には想像ができなかった。自分がどんな世界を望むのか。永遠の時を過ごす決意をするほどの世界が、どんなものなのか。
「怖いの?」
「うん、そうかもしれない」
「けれど、いつまでも教室にいても、幸福は訪れないわ」
「教室からは、出られないの?」
「いいえ、出る方法は、二つある。自分の望む世界を持つこと。もう一つは……」
「もう一つは?」
「簡単よ、望まない世界に行くこと」
「望まない、世界……」
僕は望む世界を想像することも、望まない世界を想像することも、どちらもできなかった。
「望まない世界っていうのは、どういう世界なんだろう」
「さあ、私にもわからない。行ったことがないもの」
それからしばらく二人は黙って星空を眺めた。
僕はまだ声しか知らないこのみつきと言う女の子を、ほんの少し好きになっていた。友達になって、もっともっといろんな話をしたいと思った。そして気になって聞いてみた。
「僕はまた、みつきに会える?」
「いいえ、もう会えないわ。一つの席には一度しか座れないの。それが自分の席ではないとわかってしまうから。そしてあなたはいずれ自分の机と椅子を見つけるのよ」
「自分の机と椅子を見つけたあとは、どうなるの?」
「あなたはそこから抜け出せなくなる。けれど、抜け出したいなんて思わなくなるわ。だって、そこが一番、自分のいたい場所なんですもの」
「みつきはどれくらいここにいるの?」
「わからない。地球を離れて、月に着くまでにひと月ほどかかった。月には一年くらいいたと思う。それから先は、もう数えることができなかった。もう何年も、この宇宙にいる。ゆっくり、ゆっくり、地球から離れているの」
そう言われて探してみると、とてもとても遠くに地球が見えた。さっきまで見えなかったのに。暗くて見えなかったのかなと思った。その向こうから太陽が昇るのが見えて、地球は陰になっている。
「あれ、地球だね。さっきまで見えなかったのに」
「地球はさっきからあそこにあったわ。さっきあなたが向いていた方向には見えなかっただけ。私たちはね、自転しているの」
「自転?」
「そうよ。ゆっくりね、回っているの。さっき言ったでしょ、いずれこちらを向くことになるって。この宇宙ではね、すべての物が回っているの。地球に一日があるように、あなたも何時間かかけて、一回転しているのよ」
だからさっきまで、地球は見えなかったんだ。僕は納得した。そう言われて見れば、見えている星たちが、少しずつ違っている。
「ねえ、こっちを向いてみて。あなたの顔が見たい」
そう言われて、僕は振り向いた。
地球の向こうに登った太陽の光が、みつきの顔を照らしていた。
眩しそうに目を細めたみつきの顔が見えた。笑っていた。優しく、眩しく、太陽のように。
僕はその美しさに息をのんだ。光の粒がきらきらとみつきの髪の毛にからみつき、金色に輝いていた。やがてみつきを照らす太陽の光は、地球の向こうから完全に姿を現し、目が眩むほどの光で僕とみつきを包み込んだ。
教室で再び目を覚ました後も、僕の目の奥には太陽の眩しさが残っていた。
暗闇だけではなく、光で目が見えなくなることもあるんだなと僕はぼんやり考えた。
だとしたら、暗闇に照らされて見える景色もあるのかも知れない。
僕はそっと立ち上がり、静かに窓際に歩いた。カーテンを開けると、やはり窓は少し開いていた。僕は空を見上げ、月の光を浴びながら星空を見た。あのどこかに、みつきは今もいるのだろうか。宇宙の果てを夢に見ながら。