1 夜の教室で
夜の教室で
目が覚めると、僕は夜の暗い教室の真ん中に、独り座っていた。
ぽつん、と。
ただ独り。
暗いと言っても、まったく何も見えないほどではない。
閉められたカーテン越しに、うっすらと淡い光が差し込んでいる。
きっと月の光だ。
並べられた机の輪郭が、ぼんやりと浮かび上がっている。
カーテンは全部閉められていた。
外が見えない。
窓が少し開いているのか、眠った動物が呼吸をするように、ゆっくり、しずかに、カーテンが揺れた。
時計に目をやると、十時四十二分だった。
夜の、十時四十二分。
やけに静かだ。
十時四十二分と言うのは、こんなに静かなものだろうか? まだ人々が寝るには早い。遠くに人の気配や、車の走る音なんかが聞こえてもよさそうなものなのに、まったくない。まるで夜中の一時か二時くらいのように、静まり返っている。
息を潜めている。
またカーテンが揺れた。今度は少し大きく。隙間に月が見えた。やはり、月だ。月の淡い光が教室を照らしているんだ。
僕は再び時計を見た。
十時四十二分。
そこで僕は気が付いた。
時計は、動いてはいなかった。
目が覚めると、と僕はさっき思ったけれど、それが正しいのかどうかわからなかった。と言うのは、僕は眠っていたわけではないような気がしたからだ。だからと言って、気を失っていたわけでもない。気が付くと……、そう、気が付くと、僕はここにいた。まるでテレビのスイッチを入れると「ポンッ」と人が現れるように。それまでどこにも存在しなかった人が、いきなりテレビの中に現れる。僕も……、もしかしたらこの教室に、そんな風にして現れたのかも知れなかった。
ポンッ。
どこから来たのでもなく、過去から存在していたのでもなく、さっき気が付いた瞬間、「ポンッ」と存在を始めたのかも知れなかった。
その証拠に、僕は何も思い出せなかった。
自分の名前も、今までどこにいたのかも、自分の家がどこにあるのかも、お母さんの顔もお父さんの顔も、何もかも一切思い出せなかった。それはつまり、僕には過去がないと言うことではないか?
つまり、今この瞬間、「ポンッ」と、存在したのではないだろうか。
風にそよぐカーテンが気になって、僕は立ち上がって窓際へ歩いた。窓を閉めようと思ったのだ。音をたてないようにそっと立ち上がり、誰も起こさないように静かに歩いた。誰かがいたわけではない。ただ、そうしようと思っただけだ。
窓際に立つと、やはりほんの少し窓が開いていた。
風が吹くのを待った。
僕は息を潜め、気配を殺し、臆病な風がすっと頬を横切るのを待った。
風は吹かなかった。
窓を閉める前に、僕は少し外の様子を見ようと、窓を肩の幅くらいまで開けて顔を出した。この教室は、三階にあるらしかった。広いグラウンドを見下ろしていた。遠くに家々が見えた。明かりの点いている家はひとつもなかった。みんな寝ているのだろうか。それとも、誰もいないのだろうか。
月は輝いていた。
月の光を遮る雲は一つも見当たらない。
月の光に敵う星は一つもなかった。
ただ何もない透明な闇の真ん中に、まあるい月だけが輝いて浮かんでいた。
僕は顔を入れて窓を閉め、思い出したように時計を見た。
十時四十二分。
時計が動かないのは、壊れているからだろうか、それとも、時間が止まっているのだろうか。
僕は今度は黒板の前に歩き、その上にかけられた時計を見上げた。黒い木枠の、大きな丸い時計。不機嫌に教室を見下ろしている。針を動かさないのは、何かに無性に腹を立てているからだ。僕が触れれば、機嫌が直り、再び針を動かすだろう。
僕は触れようと手を伸ばしたけれど、あと五センチ、指先が届かない。
椅子に乗ろう。
そう思って教室に目を向けた途端、ぼくは途方に暮れた。
あれ?
僕はさっき、どこに座っていただろう?
僕が目を覚ましたのは、どの席だっただろう?
僕の席。
僕の戻るべき場所。
それが見つからない。
後ろの方だった気がする。
ほんの少し、窓に近かった気がする。
けれど、どれが僕の席か、わからなかった。
僕はいつも、そこに座っていたはずだった。
「いつも?」僕は自分に問いかけようと、声に出して言った。
いつもとは、いつのことだい?
僕は自分の中の自分が問いに答えるのを待つため、息を潜めてその声を待った。けれど、僕は何も答えなかった。
僕は、帰る場所を失ってしまった。
こんなに狭い教室で、僕は完全に迷子になってしまった。
途方に暮れて教室を見渡した。どこに戻ればいいのかわからない。机は全部で二十六個あった。偶数だ。僕は偶数が好きだ。横に六列。縦に四つ机があるのが四列と、五つ机があるのが二列だ。
机の数を数えていると、気持ちが少し落ち着いた。
そうだ、この教室から外に出よう。僕は不意にそう考えた。
なぜか今までこの教室から外に出ようとは思わなかった。出たいとは思わなかった。お腹も減っていないし、喉も乾いていない。トイレにも行きたくないし、寒くも暑くもない。とてもいい気分で、安心できる。
けれど、ずっとここにいるわけにはいかない。
なぜだろう? なぜ僕は今、「ずっとここにいるわけにはいかない」と考えるのだろう? いいじゃないか、ずっとここにいたって。
けど……、だめだ。外に出なければ。
ずっといていい場所なんてないんだ。
僕はやはりさっきと同じように、そっと静かに歩き、ドアのところに行った。教室の入り口のドアは、前と後ろ、二か所にあった。まずは前にあるドアに近づいた。あまりに緊張して、手の感覚がなかった。取手に指先をひっかけ、ドアを横に開けた。明けたドアの向こうから、闇が差し込んだ。闇が僕を包み込み、まったく何も見えなくなった。目の前にかざした自分の手のひらすら見えない。
僕はあわててドアを閉めた。
やはりだめだった。思った通りだった。教室を出るべきではなかったんだ。この向こうには、行ってはいけない場所がある。
後ろの扉を試そうとは思わなかった。
きっと同じに違いない。
僕はここから出られない。
僕は閉じ込められている。
時計の針は、十時四十二分をさしていた。
僕はしばらくドアのところから動けなかった。脚に力が入らず、その場に座り込んでいた。夜はずっと続くようだった。
時計の針が動かないのは、やはり時間が止まっているからだ。時計のせいではない。僕がそのことに気づいたのに少し機嫌を直したのか、時計はもう怒ってはいないようだった。
何かの気配を感じて窓に目をやると、さっき窓は閉めたはずなのに、またカーテンが揺れていた。
まるで僕を呼んでいるようだった。
僕は立ち上がり、さっきの窓辺へゆっくり静かに歩いた。この教室のルールだ。ゆっくり、静かに歩くこと。誰も起こさないように、ゆっくりと、とてもとても静かに歩くこと。
窓辺に近づくと、やはりまた窓が開いていた。
僕はカーテンの隙間に体を入れ、そっと窓に触れた。
何かに見られているような気がしてグラウンドを見ると、薄い緑色の光に包まれて、何かが真ん中に立っていた。
四つ足の、何かだ。
僕をじっと見上げている。
ここからでは、それが何なのかよくわからない。
犬や猫のような小さなものではない。
もっと大きい四つ足の何かが、薄い緑の光に包まれて、僕を見上げていた。
「こっちへおいで?」その四つ足の何かが、そうささやいたような気がした。
その声は、耳に聞こえたのか、心の中に聞こえたのか、判然としなかった。
「こっちへ、おいで?」
また聞こえた。
怖くはなかったけれど、それがいったい何なのかわからなかったし、どうすればいいのかわからなかった。
しばらくの間、僕たちはじっと動かず見つめあった。
けれどしばらくして、その四つ足の何かはしびれを切らしたのか、不意に向こうを向いて歩き出し、どこかへ行ってしまった。
僕はまた窓を閉め、丁寧にカーテンを元に戻し、黒板の前に戻った。時計の真下で座り込み、壁に寄り掛かった。
どれくらいの時間が過ぎたのかわからない。
少し眠ったような気もするし、ただ目を閉じていただけのような気もした。
突然、「ガラガラ……」と音がして、僕は目を開けた。後ろの扉が開く音だった。驚きはしたが、怖くはなかった。いったい何が扉を開けたのだろう? 僕はじっとその場所を見ていた。すると、トントントンと、固い物が床を叩くような聞きなれない足音とともに、暗闇の中から鹿が顔を現した。鹿はまだ若い雌の鹿だった。大きな目を潤ませ、教室の中をきょろきょろと見回すと、トントントンと足音をさせて中に入ってきた。
鹿は薄い緑色の光に包まれていた。
そこでぼくは、さっきグラウンドにいた四つ足の正体は、この鹿だったんだと思った。
鹿は僕を見つけると、トントントンと足音をさせて僕に近づいてきた。
トントントン。
よくみると、鹿は薄い緑色の光に包まれているわけではなく、鹿自身が、淡い緑色の光を放っているようだった。
トントントン。
それはとても神秘的な姿で、まるで森の妖精でも見ているような気分だった。
トントントン。
鹿は僕に近づいた。まるで古い友人を訪ねて来たかのように。
「あら、久しぶり。ちょっと近くまで来たの。変わらないわね、嬉しいわ」とでも言いそうな感じで近づいてきた。
トントントン。
鹿は僕の手の届くところまで来ると、立ち止まった。僕はまだ、黒板の前に座り込んでいた。鹿は僕を見つめて鼻先を近づけると、目を細めて静かに匂いを嗅いだ。僕はその鹿を見て、何かを思い出しそうになった。
けれど、何も思い出せなかった。
やはり僕には、思い出すべき過去などなかったのだろうか。
僕は鹿が僕の匂いを嗅ぐ間、呼吸を整え、できるだけ鹿を脅かしたり匂いを嗅ぐ邪魔をしたりしないようにじっとしていた。僕はその鹿がなんとなく好きになった。優しい顔をしていたからだ。黒い瞳に意思を感じたからだ。鹿は何かを考えていた。何か目的を持って僕の匂いを嗅いでいた。鹿は僕を探しに来たのだろうか。それとも、他の誰かを探していたのだろうか。
鹿はもう僕の匂いを嗅ぐのをやめ、鼻先を離して目を開くと僕を見つめ、「自分の机と椅子を探しなさい」と言った。
鹿の声はやはり、鼓膜に聞こえているのか、心の中に聞こえているのかわからなかった。
「迷子のままでは連れて行けないの。自分の机と椅子。いいわね? また来るわ」鹿はそう言うと振り返り、トントントンと足音をさせ、元来た机の間を抜け、後ろの扉から出て行った。
ちゃんと「ガラガラガラ、ゴトン」と後ろのドアを閉めるのを忘れなかった。
僕は途方に暮れた。
自分の机と椅子。僕だって、そこに戻りたい。けれど、どれが僕の机と椅子なのか、見当もつかなかった。ついさっきまでは、だいたいあの辺だったはずだ、と言うくらいには覚えていたのに、今はもう、一番前だったか一番後ろだったかさえ思い出せなかった。