【A-5】
どういうわけか中学二年生から人生をやり直す事となった俺は死に物狂いで勉強に明け暮れた。
やる事、やりたい事が何もなかったのもあるが、それよりも『同じ生き方をしてやるものか』という思いが強く、それだけを活力源として生きてきた。
それでも時折、いきなり元の世界、あの落下の最中に戻されるのではという恐怖が沸き起こる事もあった。しかし、幸いな事に俺は元に戻されずに30年の月日を過ごす事ができた。
中学二年生からの勉強中心のお陰で俺の成績はうなぎ登り。
卒業後の進路も本当なら中の下の地元公立高校になるところが、地元でも優秀とされる進学校に。その後、高校生になった先も生活習慣は変わらず、一流とされる大学に一発合格。
「大学ではそれなりに苦労はしたよな。」
元の人生での最終学歴が高卒の俺にとって大学でのキャンパスライフは未知なる領域だった。が、周囲がどうであろうと俺は俺として過ごすだけ。サークル活動も合コンも興味もなく、また、誘ってくる人間もいるはずがなかった。
社会人になってからも一流企業に………そう言いたいのだが、そこまで世の中は甘くはなかった。
それまでに人と交流をしてこなかったのがネックとなり、地元有力企業には就職できるに留まった。
「まぁ、いいさ。」
収入も地位も以前より格段に上がった。以前はローンで購入したマンションも貯金をして一括払い。
順風満帆な俺の新しい人生。全てが思い通りだ。
「そういえば、屋上には行けるのか?」
何気に思い出したのは、このマンションの屋上へと続く扉。
特に用はないが、もしかするとと思い俺はフラりと部屋を出た。
このマンションは十五階建て。屋上へは外壁に備えられた非常階段を上がり、閉ざされた扉を通らなければならない。
明るいうちに行っては住人に見られるかもしれないが、腕時計を見れば夜中の一時。誰もいやしない。
あの頃と同じように十五階まではエレベーターを使い、非常階段を上ると、すぐさま扉は現れる。そのノブを握ると気味が悪いくらいスムーズに回転した。
ガチャ………。
「まったく。ここの管理人は相変わらずだな。」
あっけなく開いてしまった扉に笑いそうになる。
やはり屋上は風が気持ちがいい。懐から煙草を取り出し火をつける。ここで吸う一本は格別なのを俺は知っている。
ゆっくり吸い込んだ有害物質が全身に巡る感覚に、ふと、マンションに引っ越す前の母を思い出した。
「後は、お嫁さんもらって、孫を見せてくれたら………。」
白髪頭は俺を見なかった。独り言のように呟いていたが、きっと俺に聞いてほしかったのだろう。
「すまないね。俺、結婚したくないんだ。」
ここで紫煙に混ぜても母には届かない。
「俺は一人でいいんだよ。」
灰になった部分が風に舞い消えていく姿が『やり直す前の自分』のようだ。
「金もある。社会的に安定した生活も手に入れた。マンションを一括購入だぞ?家具もレイアウトもインテリアも俺の自由だ!そうだ俺は自由だ!素晴らしいじゃないか!!」
『お嫁さんもらって………』
母の背中。
「結婚したからって幸せになれるわけじゃないんだよ!」
『孫を見せてくれたら………』
寂しそうな老いた小さな背中。
「これまで俺は必死に勉強してきた!頑張ってきたんだ!孫を見せられなくても………それでも!!」
まだ吸える煙草を屋上に叩きつけ、蹴り飛ばしてみたが、母の言葉の続きは消えなかった。
『母さん、嬉しいんだけどね』
前の人生の時、彼女と会わせた時、嬉しそうにはしゃいでたな。
結婚を決めた時も、披露宴の時も、新居を構えた時も、母さん嬉しそうにしてたな。
それなのに、今の人生で俺は嬉しそうにする母さんを何回見ただろう?
毎日勉強しているのを見てる時も、受験の時も、合格した時も、就職した時も、嬉しいというより、一安心したという顔だった。
「結婚………か。」
新しい煙草を取り出し火をつける。
「おっと。このまま放置はマズいか。」
ゆっくりと吸い込むと、煙草の火は明るさを強め、さっき叩きつけた吸殻の姿を浮き出した。
そのままにすればいつか問題になるかもしれない。
「ちゃんと携帯灰皿ありますよ、っと。」
前屈みに拾おうとした時、何か足にガシャと当たった。
驚いて見てみると、それは工具箱のようだ。
「危ないな。引っかかって転んだらどうするんだよ。蓋も開いたままだぞ。」
きっと管理人の物だろう。まったく、屋上への扉の施錠も使った工具箱も忘れるとは………管理人としては失格じゃないか。
「さて、そろそろ部屋に戻るか。」
こうして呆れていても仕方ない。それに夜も深くなった。明日も早い事だからと足を踏み出したが、その足の裏は屋上まで届かなかった。
「え………」
何かを踏み、足裏にゴロリと回転する感触。そのまま俺は勢い余って真後ろに転んでしまった。
もちろん無意識に手が後ろに回り、体を支えようとする。
が、いつまでたっても手は何にも触れない。
久々の感覚だ。30年振りの浮遊感。
「バカ………な。」
叫び声も出ない。
まさかと思う。
せっかくやり直したというのに、こんな形で終わるだなんて。
マンションの屋上から落ちる体は加速していくだけ。これも変わらない。
「さすがに今度こそ俺は………。」
諦めるしかない。本当ならすでに死んでいる我が身だ。
自嘲に閉じた瞼に母が映る。
「幸せって何だろうな。」
それを自分自身が感じていない事実を俺は今更ながらに知る事ができた。