【A-3】
自慢ではないが俺の人生に『モテ期』なるものはなかった。元来、俺という男は異性と話をするのが苦手であり、小学生から高校生においては女友達だとか皆無だったのだから当然の話だ。
そのような人間でも歳を重ねると多少の免疫は出来るようで、高校卒業後も苦手意識は変わらなかったが挨拶くらいはできるようになっていた。
そうやって加齢と共に少しずつ異性との交流にも慣れた30の夏、一人の三つ下の女性と出会い、人並みの交際を続け、34で結婚した。
俺たちの間には子供はいない。欲しくなかったわけじゃなく、出来なかった。
「…………。」
妻を思うと胸が痛んだ。
教室に入ってきた担任は始業式があるからと俺たちを廊下に促し、バラバラと席を立つ中で俺も廊下を目指す。
その途中、さっき声をかけてきた女子生徒と目が合い、彼女は微笑んだ。
微笑み返し。仏頂面の俺の表情筋には難易度の高い技。
「………くっ。」
やはり無理だった。片方の口角が上がっただけ。きっと不自然極まりない顔になっている事だろう。
しかし、そんな俺を見て彼女は小さく控え目にクスッと笑った。
「ほら急いで並べよー!」
担任の声に従い男女二列に並ばされた俺は、ふと覗いた窓の外の校庭の木々を揺らす春風が、閉まった窓からは吹き込むはずのない薄紅色の風が柔らかく心を撫でたような気がした。
走馬燈が映す記憶にない記憶は一体いつまでも続くのだろうか。
死ぬ間際に見る生涯の映像というのは、その断片を切り取り繋げた、いわゆる『ダイジェスト版』だと俺は漠然と思っていたし、小学生までは確かにそのようなものだった。
それなのに俺は始業式を始まりから終わりまで参加させられ、何一つ省略されていないものの中にいる。
「これではディレクターズカット版だな。」
改めて教室の席に座り小学生までに見た『ダイジェスト版』と、今の状況である『ディレクターズカット版』の違いを考えた。
まずダイジェスト版は俺の視点で見た一人称視点だが、体を動かしたりは出来なかった。まるで一人称で撮影されたテレビドラマや映画と同じ感覚だ。
それに比べて今の状況は一人称だというのは同じなのだが、こうやって立ったり座ったり、人と話をしたり、考えたりできる。
「ディレクターズカット版というより参加型アトラクションのほうが近いな。」
最近の映画には3Dだとか4Dだとかあるらしいが、残念ながらそういうのに疎い俺はそれらと今の状況が似ているかは分からない。
だから、妻と昔一度だけ訪れた某アトラクションテーマパークにあったコーナーを思い出した。
映画の世界をモチーフに、この中で逃げるという体感型アトラクション。うん。それのほうが近いかもしれない。
「うーん………。」
確かに近いかもしれないが、全く同じとは言い難い。
腕組みをして担任が話すのを真っ直ぐ聞く周囲を出来る限り頭を動かさず見渡すと、ふと、あの女子生徒と目が合った。
彼女も俺と同じく出来るだけ頭は担任の方に向け、目をこちらに向けていた。
俺が目を向ける事を予想していなかったのか。彼女は目が合うと少し目を丸くして、一旦そらし、また横目で見るを数回繰り返し、最終的にはまた微笑みを浮かべた。
「………うーん。」
これだ。一番の違いは。
このような記憶、思い出は俺にはない。
もしあったのなら、こんな『青春時代の出来事』を忘れるはずがない。
「見てるわけでも、体感しているわけでもなくて、まるで人生をやり直しているみたいだな。」
思わず呟いた自分の言葉に俺は彼女と合わせたままの目を丸くしてしまった。
これは『それまでの生涯を走馬燈のように見ている』のではなく、むしろ『走馬燈の中に入ってしまっている』のではないだろうか。
まさに今、俺は人生をやり直している最中にいるのではないだろうか?
それが一番しっくりとくる。
「(俺は人生をやり直している。この中学二年からの人生を)」
次第に根拠のない確信と、期体感と、人並みではあるが健全ではない欲望が自分の内に沸き上がる高揚感に俺は両方の口角を上げてしまった。
少女と目と目を合わせたそのままで。