【A-2】
母の作った手料理を食べたのは久しぶりだ。まぁトーストと目玉焼きだから誰が作っても味は変わらないだろうが。
それでも、トーストに目玉焼きを乗せて食べる俺の回りを忙しそうに行き交いする姿を見ていると、最近の母とは違うなと思う。
「早く食べて、早く行きなさいよ?」
どうやら母を眺めていたのがぼんやりのんびりしているように見えたらしい。
「分かってる分かってる。」
洗濯機を回しながら、掃除機を引っ張り出し、合間にグラスに注いだオレンジジュースを飲みながら、とにもかくにも落ち着きがない母。
昔からそうだ。
昔はそうだった。
今は別々に住んでいる母は、たまに会うたびに小さくなり、座っている姿ばかり見るようになった。
「お皿、洗いたいから早く食べてよね。」
急かす目の前の母も、やがて自分が使った食器を片付ける度にヨイコラショを唱えるようになる。
「ごちそうさま。はい。」
「あら。自分で片付けるなんて珍しい!」
その後に「さすが中学生!」とか言ってきたが、実は中身は立派な大人なんですとは当然ながら言えるわけなかった。
学ランに袖を通すのも三十年ぶりだな。高校はブレザーだったし。
しかしながら『いい歳をしたオッサン』である俺が学ラン姿をしている事が我ながら滑稽に思えて仕方ない。
「(これじゃ忘年会の余興じゃないか)」
しかし、そうやって違和感を抱いているのは俺だけのようだった。それはそうだろう。見た目は中学生なのだから周囲の人間からすれば自然も自然、ごくありふれた登校中の生徒の一人でしかない。
そうと分かっていても落ち着かない。とりあえず通学路を同じ方向に歩く子供たちに紛れ、目立たぬように学校を目指した。
その行く道の途中、おばあさんが一人、畑で野良仕事をしているのが目にとまった。
「ここは今、コンビニになってるんだよな。」
おばあさんは時折、背中を伸ばし腰をコンコンと叩く。
きっと、あのおばあさんが亡くなった後、誰も畑の手入れができず、親族が土地を売ったんだろうな。
まだ何を育てているか分からない土と、額に汗するおばあさんに思わず足が止まってしまった。
「よぉっ!」
ノスタルジーな感傷に浸る俺の背中を誰かが叩いた。
驚いて振り返るとヤンチャそうな少年。
「二年になっても一緒のクラスだったらいいのにな?」
言いながら少年は歩き始める。
「あさ……い?」
「あん?なに?」
見覚えはある少年。おぼろげな記憶をたどり少年の名前を口にすると彼は首をかしげた。
「い、いや。何でもない。」
どうやら彼は浅井で間違いはないようだ。
浅井。うん。友達だ。
いや、友達『だった』と言うべきか。
そのまま俺は浅井の横につき学校を目指すことにした。
懐かしき我が母校。今となってはどこに何があったのか思い出せない。時の流れとは恐ろしいものだ。
「おまえ何組?俺は一組だったわ。」
浅井が新しい学年のクラス分けを示す大きな掲示物の前で肩をすくめた。どうやらそこに自分の名前があり、そして俺の名前はない事にガッカリしたようだ。
「俺は………三組。」
一組、二組と探したが見つからず、ようやく三組に俺は自分の名前を探し出す事ができた。
「別々か~!」
彼は悔しそうにしたが、俺は知っている。
数ヵ月後には同じ一組で仲良くなった奴等とつるむようになり、やがて俺とは疎遠になる。卒業する頃には話すらしなくなり、二度と会う事もなくなる。
よくある話だ。仕方のない事だ。
二年生の教室が並ぶ三階まで一緒に歩きながら、彼は少年らしく無邪気にゲームの話なんかを話していたが、全く俺には響く事はなかった。
「んじゃな!」
階段を上がってすぐの一組の教室の前で、彼は少し手のひらを見せてから中へと消えていった。
三組の教室に入り、自分の席についた俺は考えた。
俺は『自分の生涯を走馬燈のように見ている』はずだ。
それなのに、どうしてこんなにリアルなんだ?
朝食の味も、この椅子の座り心地の悪さも現実そのもの。
落下している最中に見た、それまでの映像とは明らかに違いすぎる。
一体何がどうなっているのか。
「(いきなり現実に戻るという事も有りうるな)」
そうしたら確実に俺は死ぬだろう。
全身を地面に叩きつけて………。
「ちょっと、いいかな?」
軽いめまいに眉間を指で摘まんでいると、不意に女の子の声が俺の名前を呼んだ。
つまむのをやめ見てみると一人の女子生徒。
「何かな?」
あどけない少女はソワソワとした様子でうつむく。
「さっき、畑で何を見てたの?」
何用かと思えば、それは通学路の途中の事を聞きに来たようだ。
「いや、特に意味はないよ。そのうちコ………。」
そこまで口にして急いで言葉を飲み込んだ。さすがに『そのうちコンビニになるんだなと感傷に浸っていた』なんて事は言えない。
「?」
不思議そうに首をかしげる少女にたいして、大人気ない誤魔化しをするしかない。できるだけそれっぽく、また嘘にならないものを。
「あ、その、おばあさん一人で畑の手入れって大変そうだなとね。うん。そう思っていたんだよ。うん。」
「そうなんだ。」
疑いを知らない無垢な瞳が俺を見つめ、納得して踵を返す瞬間、小さいがはっきりとした声で少女は言った。
「………優しいんだね。」
キラキラとした黒髪が軽やかに揺れる。
その輝きに目が釘付けになってしまう。
「ちょっと待ってくれ。こんな事………実際にはなかったぞ………。」
自分の生涯を映し出すはずの走馬燈が、自分の生涯とは違うものを映し出している。
さらに分からない事が増え唖然とするしかない俺の耳にはチャイムの音が不気味にさえ感じられた。