後編:二千年後の僕達に―――
林を抜けた先。そこに存在する竜宮城はあの海浜以上に浦島太郎へ感動を与えた。
「すごい」
何を見てもそんな感想しか口に出せなかった。
海底の神秘を城の形へと作り上げたような竜宮城の外観もさることながら、招待されて足を踏み入れた内部もまた華々しかった。
何気なく存在する柱や通路にさえ精美な意匠が施され、手の届かぬ高い位置に有る窓には曇り一つ無い硝子が填め込まれ暖かい日差しを取り入れ、各所に設置された調度品はどれもが一目で格調高いと思わせる物ばかり。
その全てに共通している要素が有った。
それは水。
海神の住処と呼ぶに相応しく、この竜宮城に存在する全ての物には水と縁の深い意匠が見られた。
壁や天井には豊かな色彩で描かれる魚群や海の生命達が。柱や床には千変万化の海流を見事に表現した群青が。硝子窓は水中から見る日差しの如く陽光を万華鏡のように透過している。
水と調和した城。
それが浦島太郎がこの竜宮城へ抱いた印象であり、その中に居る自分もまた海の生命の一つに成ったかのような気持ちにさせた。
「ふふふ」
亀は目をキラキラと輝かせて辺りを見る浦島太郎を微笑ましそうに見詰める。乙姫のその視線に気が付いた浦島太郎は「あ」と声をもらして自分が年甲斐も無くはしゃいでいたことに赤面する。
「……あ、あのっ」
「気に入ってくれたようで良かったです。貴方もこれからここの住人になるのですから自分が良いと思える場所であるに越したことは在りません」
その後も浦島太郎は亀に連れ立って竜宮城を歩く。
そんな時である。
「ぁ」
一瞬。まばたきするようなとても小さな時間。
浦島太郎の瞳に『羽衣』が水中を漂うようになびいた。
羽衣を身に纏うは、この世の者とは思えない美しい女人。
天女か、はたまた女神か。
息をするのも忘れて見惚れるような美女が浦島太郎に微笑み掛ける。―――その瞳はとても見覚えがある。浦島太郎は先程からずっとそんな目で彼女から見られていたのだから。
この水の世界で煌めく美女の正体。それは―――
「―――では早速、海神様へお目通りしましょうか」
「 ! 」
浦島太郎は亀が発したその言葉で我に返る。
目の前から美女は消え、代わりに亀が浦島太郎を見上げている。その亀が言った言葉の意味を耳に入れて、しっかりと理解させた浦島太郎は、それでも驚く。
「……えっ? 今から?」
「こういうことは早め早めが吉と考えます」
呆気に取られる浦島太郎を置き去りにするように乙姫は城の奥へと突き進む。
―――そのあたりで浦島太郎は違和感に気が付いた。
「……あれ? そういえば……竜宮城に入ってから誰も見てない……」
人影一つ無い。
海浜で出会ったフジツボやずっと共に居る亀のような不可思議な海の生物も見ていない。
だが無人という感じはしなかった。
つい先程まで誰かが存在した気配はそこかしこに残っている。
そんな違和感に首を傾げる浦島太郎へ亀はやはり微笑むように目を細めて答える。
「きっと御父さ……海神様が皆を呼び集めたのでしょう」
「な、なんで?」
理由がわからない。
「私が貴方をこの竜宮城の黙って連れて来たからでしょうね」
…………。
歩く。歩く。ふたりは竜宮城の中を歩く。
浦島太郎は豪華絢爛な城内をまた見渡すと亀に向かって口を開く。
「……ごめん。もう一回言って?」
聞き捨てならなかった。亀が言った理由は浦島太郎にとって到底聞き流せる物ではなかった。
「もう一度ですか? わかりました。―――海神様に浦島太郎を亡き者にせよと拝命された私はしかし、その命を反故にして殺さずこの竜宮城へ連れ込みました」
「――――――」
「もしかしたら海神様は私に逆心在りとして迎え撃つ構えなのかもしれません。……ふふふ。愉しくなってきましたね」
愉快そうにころころと笑う亀。それに浦島太郎は……
「ぅええええええええええええええええええっ!!?」
竜宮城に響き渡る絶叫を上げた。そして浦島太郎は掴み掛かるように亀へ詰め寄る。
「ちょ、ちょっと亀さん!? それって危ないですよね!? 結局僕殺されちゃうんじゃないですか!?」
「大丈夫ですよ……たぶん」
「最後に不安になるようなことを呟かないでください!?」
「まあまあ。ここまで来たら腹を括りましょう。男は度胸、女は愛嬌です。私は貴方が物理的に括られている後方で愛嬌を振りまいていますから。にこ♡」
「怒りますよ!? ほんと怒りますからね!? 僕だって堪忍袋ぐらい在るんですから!?」
浦島太郎と亀がそんな風に騒ぎながら進み、そして―――
そして辿り着く、この竜宮城で最も貴き場所。
道中で目にしたどの扉よりも荘厳な扉が浦島太郎の眼前に広がる。……その奥に乙姫が言う海神が待ち受けている。やはりと言うべきかこの扉前にすら門番の一人も置いていなかった。
浦島太郎はその扉を目にして逃げ腰になる。
「……開けた瞬間に首を飛ばされる……なんてことはありませんよね?」
「心配性ですねぇ、浦島太郎は」
「ん? 誰の所為だと思ってるのかなこの人」
他人事みたいに語る亀に浦島太郎は若干苛つく。顰め面を見せる浦島太郎に、亀はそれすらも愉しそうに笑う。
「平気へいちゃら、でございます。もし海神様が怒り狂って襲ってくるなら私が相対しますから」
「……それはそれで気が咎める。男として女をまえに立たせて隠れるのは承服出来ないです」
「あら。私、亀なのに女子として扱ってくれるのですか?」
「え、だって陸に上がってくる海亀は雌だけですし……後は乙姫って呼ばれてましたし」
「そういえば御存知だと言ってましたね。まあ乙姫は異名で本名は別に有りますが」
「何て言うんですか?」
「そうですねー……。玉座の間へ入ってから耳にするでしょうし、名乗りはしないでおきましょう。濫りに名を教えるのもはしたないと思いますし」
「……はぁ……」
そんなとりとめの無い会話をしている内に浦島太郎の腹も据わってくる。彼は小柄な体をしゃんと立てて扉の前へ近付く。
「……そう。そうです、そうなんです。悩んでてもしようが無いです。本当なら亀さんと会った時点で死んでたかもしれないんです。……それがこうして生きながらえて綺麗な物を見られたんです。これで死んでも良い冥土の土産になりました」
あどけない顔をした浦島太郎。だが彼はこれでも立派に元服を迎えているのだ。
浦島太郎は一端の男の顔をする。
「……浦島太郎。ちなみに、この竜宮でこの蓬莱で、一番美しかった物は何ですか?」
「一番美しかった物?」
「ええ。海でも浜でも。この城でも何でも」
突拍子も無い質問。だが浦島太郎は律儀に考えて、そして自分が最も美しいと心動かされたものを答える。
「女神」
「え?」
その答えに亀は目を丸くする。
「今何と?」
「……僕はこの竜宮で、女神を見た。白昼の夢だったかもしれないけど……これまでの生涯であれほど心奪われたことは無かったと思います」
「……そのような方、居なかったと存じますが……」
「居ました」
浦島太郎は断言する。そしてそれだけでなく、彼は亀の目を真っ直ぐ見て言う。
「……その……だ、誰よりも……これまで目にしたどんなものより……綺麗だったです」
恥じらいがあるのか少しだけ言葉に詰まったが、それでも浦島太郎は言った。
他の誰でも無い。……目の前に居る亀に向かって。
亀は意表を突かれたように狼狽する仕草を見せるが、直ぐに落ち着くと浦島太郎へ尋ねる。
「……まさか、見えていますか?」
「いえ。今は普通の?海亀に見えてます。……ただ竜宮城を案内してくれている最中に、一瞬だけ」
「……私としたことが……どうやら浮かれて変化が乱れてしまったようですね」
浦島太郎と亀。その両者の間を遮るように羽衣がたなびく。
羽衣が舞い上がり、そして所有者の身へ返り、飾り立てる。
女神が姿を顕わした。
その女神の姿は浦島太郎がこの竜宮で垣間見た美しい女人と同一で、そして……それは亀の正体でもあった。
「もう少し後で見せて驚かせようと思っていたのですが……やはり法眼を欺くのは生半な気持ちでは無理だったようですね」
「……亀さん。貴女はいったい?」
やはり目を奪われ見惚れる美しさ。それでも浦島太郎は気をしっかり持って尋ねる。
女神の姿を顕わした亀は楚々とした礼を見せると、浮雲に対して見せていた鷹揚な雰囲気で答える。
「私、この蓬莱を統べる海神様の娘で……名を……」
女神は少しばかり逡巡すると、彼女もまた意を決して言葉にする。
「我が父海神豊玉彦より賜りし名は豊玉毘売。そして浦島太郎様が存じ上げる通り又の名を、乙姫と、しております」
女神乙姫は静々とした態度で浦島太郎に向き合う。
―――そして次に乙姫が口にしたのは……謝罪であった。
「浦島太郎様。申し訳ありませんでした」
「……なにが、でしょうか?」
謝罪の意味がわからず浦島太郎は首を傾げる。そして乙姫は語る。謝罪の理由を。
「実は私、貴方様に『ほの字』でして」
「…………」
「懇ろになりたいと思いまして」
「…………」
「竜宮に連れ込み、御父様に企てがバレる前に既成事実を作ってしまおうかと考えまして」
「………」
「浦島太郎様がもろ好みで辛抱堪らない状態だったんです。ですので御父様から『法眼を宿す浦島太郎なる人の子を排除せよ』という命をほっぽりだしました」
「…………」
どうしてか。浦島太郎は病に罹ったわけでもないのに頭痛がしてきた気がした。
「……えーっと……つまり?」
浦島太郎は乙姫にそう尋ねると彼女は袖から扇子を取り出しパッと開くと口元を隠す。海中を泳ぐ青い竜が描かれた見事な扇子の裏で乙姫は照れ隠しで「ふふふ」と微笑むと……更にぶっちゃける。
「稚児趣味(ショタコン)な私が好み弩真ん中の男性を連れ込んで情欲溢れるままの子作り性交を―――」
「はい帰りまーす!! お疲れ様でしたー!!」
浦島太郎は回れ右して男らしい力強い歩みで外へ向かう。乙姫は慌ててその背へ縋り付く。
「お、お待ちになって! どうして逃げるのですか!?」
振りほどけない乙姫に浦島太郎はそれでもなんとか逃げだそうと力の限り藻掻きながら叫ぶ。
「僕なんかに神様の御相手なんて荷が重すぎますっ!? どうかもっと屈強で逞しい男性に頼んでくださいっ!?」
「嫌です! むさい男は好みじゃありません! 御父様が連れて来る相手は誰も彼もそんな感じなのですよ!?」
「知りませんよそんなのっ!? 仮にもお姫様なんですから親の言い付けは守ってくださいっ!!」
「一年! いや二年……やっぱり三年! 三年共に過ごしましょう! それで私の嫁力を御理解頂いて―――」
「なんで年数増やしてるの!? 普通は譲歩して減らすとこですよね!?」
「……え? たった一年でこんな可愛い合法稚児を堪能しきるなんて無理じゃないですか?」
「…………」
「…………」
「…………」
「……にこ♡」
「帰ります」
「待って待って待ってください!? 冗談! 冗談ですから!?」
「嘘だ!? 目が本気でした! 獲物を狙ってる鰐(鮫)みたいな目をしてました!」
「確かに私の神としての姿は八尋和邇と呼ばれる海竜ですけど! 大丈夫です取って食べたりはしませんから!」
「……じゃあ、引き留めるのに便乗して涎垂らしながら体を弄るのやめてくれません?」
「…………」
「…………」
「……にこ♡」
「うわーっ!? 食べられるーっ!?」
「待って待って待ってください!? ……じゅる……冗談! 冗談ですから!?」
―――そんな風に浦島太郎と乙姫が不毛なやり取りをしていた時であった。
玉座への扉が弾かれたように開かれる。
その向こうから巨大な影が伸ばされ……その勢いのまま―――
バチンッ!
影は浦島太郎から乙姫を引き剥がすように彼女を床へ叩き潰した。
「あびゅっ!?」
蛙が潰れたような悲鳴を上げて乙姫が竜宮の床を彩る敷物になる。
「え? え? え?」
困惑する浦島太郎は乙姫をねじ伏せた物に目を向ける。
それは尾だった。
青い宝石のような鱗に覆われた巨大な尾。それが扉の向こうから伸びてきて乙姫を叩き潰していた。
尾がスルリと引き戻されていき、そして玉座が存在する場所から声が響く。
『法眼の持ち主、浦島太郎よ。来るがよい』
乙姫以上の威厳を備えた低い声。
考えるまでもない。海神様である。
「え、でも、乙姫さ―――」
『その阿呆は捨て置け。お前一人で来い』
「あ、はい」
浦島太郎は完全に伸びている乙姫を跨いで越えると玉座の間へ入る。
玉座の間には大勢の者が居た。
人……人に近い容姿の者も居るが、その大多数は人ではなかった。
魚。海蛇。蛸。海栗。魚人。貝。海豚。人魚。烏賊。ヒトデ。……そんな普遍種・幻想種問わない多種多様な水棲生物達が整然と列になって並び立っていた。
魚のような水が無ければ生存出来ない者もどのような原理か宙に浮いており、まるで空中を水中のように漂い滞空している。
そんな海神の眷属達が浦島太郎が玉座の間へ進んできた時、三つ叉矛を掲げ、対面の者達と穂先を重ね合わせて弓形を作る。
一糸乱れぬ動きによって浦島太郎の目の前には玉座へ続く道が出来上がった。
『さあ来い』
海神が誘い浦島太郎はその声に従って矛が頭上を囲む道を進む。もし何かの間違いで矛が振り下ろされればその刃は容易く浦島太郎の命を奪うだろう。
その凶器の道を潜り抜け、浦島太郎は遂に玉座に腰掛ける海神を眼前に戴ける場所まで辿り着く。そこで彼は自然に跪くと頭を垂れて平服の意を表わす。掲げられていた矛がそこでようやく下げられた。
頭を下げた浦島太郎の頭上へ海神は声を掛ける。
『我が城へよく参った人の子。面を上げることを許す』
「はい」
浦島太郎は跪いたまま顔を上げる。そこで初めて海神の姿をはっきりと目に映すことになる
―――至上の存在。
一目見ただけで海神が人では到底手の届かぬ高みに立つ存在であると浦島太郎は理解する。
必要最低限の衣服で鍛え抜かれた肉体を惜しげも無く晒す精悍な美丈夫。その端々には粋を集めて作り上げられた珠玉の宝飾が数多に吊り下げられ、飾り立てられた男がどれ程強大で偉大な力を有しているか目にする者へまざまざと見せ付ける。
だがその宝のどれもが男の引き立て役にしか成り得ない。
玉座に座するその男こそが蓬莱の主。|
大綿津見を統べ、水を司り、豊作・豊漁を齎す生命の支配者。
―――海神“豊玉彦命”
乙姫の父であり浦島太郎を排除せよと命を下したこの海神は、玉座の間へと入ってきた矮小な人の子を碧く輝く龍眼で睥睨しながら歓迎する。
『小さいな人の子。飯はしっかり食べているのか? それでは大きくなれんぞ』
「恐れながら海神様、拙はもう既に元服した身。もう成長は望めないかと」
『ふ。知っておる。なんとまあ可愛い大人に成ってしまったものよ。……だからこそあの愚女はお前に懸想したと言えるが』
海神は立ち上がると玉座を降りて浦島太郎の傍まで歩み寄る。一歩一歩近く付いてくる度に浦島太郎の矮躯に深海の底の如き重圧がのし掛かってくる。
畏怖の感情で顔を青くする浦島太郎。海神はそんな彼の傍まで来て立ち止まると少しばかり気の毒そうな表情を見せる。
『ふむ。目が良いと云うのも考え物だな。もし我がお前に向かって怒鳴ったとすると、お前はそれだけで死んでしまうだろう。……それは全てお前の目に宿る法眼の所為である。何もかも見通すとはその目で知ったこと全てをその身に受け止めることと同義。お前はこの世で誰よりも真理に近く、それと同時に誰よりも繊細でか弱い生き物であるということだ』
「っ!」
海神の大きな手が浦島太郎の頭に乗せられる。近付かれただけで気を失ってしまいそうなのに、触れられればどうなるか。そう思って身構えていた浦島太郎であったがその心配は杞憂であった。
「……?」
さっきまで感じていた重圧が消えて無くなる。むしろ穏やかな安心感が湧き出てくる。
海神は乱雑な手付きで浦島太郎の頭を撫でると『ハッハッハッハッハッハ!!』と豪快に笑う。そして撫でていた手を離すと玉座の外へ通じる扉に向かって声を張り上げる。
『乙姫! 此奴が竜宮で住むことを許してやろう! 婚姻を結ぶも子を拵えるも好きにするが良い!』
「へあっ!? ちょっ!」
海神の言葉に度肝を抜かれた浦島太郎は奇声を上げてしまう。彼は直ぐに海神へ理由を問いただそうと言葉を続けようとしたが―――それは出来なかった。
「か、海神様!? 僕は―――」
「ありがとうございます御父様」
「っ!?」
背後から乙姫に抱擁される浦島太郎。いつの間に近付いて来たのか彼には全くわからなかった。ただ感じるのは自身を包み込む、陶酔してしまいそうなほど甘美で骨の芯から熱を孕みそうな魅力を宿した乙姫の艶美な女体の感触。服で隔てている筈なのに気が遠くなってしまいそうな蠱惑の温もりが浦島太郎に囁きかける。
「親の許しが出た。つまり私たちは夫婦に成ったということっ」
目が。乙姫の瞳が父親である海神と同じ龍の輝きを見せる。
(あ。これはもう駄目みたいですね)
この瞬間、浦島太郎は自分が巨大な鯨に飲み込まれるしかない無力な小魚であると自覚する。絶対的な上位者を前にすれば矮小な人間の抵抗など全て無意味。
「…………」
「さあさあ。今度はこの竜宮にある私の部屋を案内します。……こ、これからは……夫婦っ、夫婦の部屋にっ……なる場所ですよっ!」
「……そうですかー……」
乙姫に抱きかかえられ身長差から足が浮いてしまっている浦島太郎は遠い目をして身を委ねている。その姿はまるで子猫が親猫に首元を咥えられて運ばれているかのよう。
海神はそんな風に連れられていく憐れな浦島太郎に向かって人の悪い笑みを浮かべ言葉を掛ける。
『お前の法眼も、この神仙が蔓延る蓬莱の地では少々特殊な才能に過ぎん。……だがまあ、我が愚女の婿としては及第点と言えよう。―――神と人の立場の違いなど気にするな。お前は愛執の化け物たる八尋和邇の婿に相応しい。……喜べ、新しき我が息子よ」
遠ざかっていく海神の姿。義父となってしまった海神に浦島太郎は「……はは」と乾いた笑いを返すと、乙姫の手によって玉座の間から退出した。
―――玉座の間に海神とその眷属達だけになる。
眷属の中の誰かが海神に尋ねる。
「……宜しかったのでしょうか? 彼に乙姫様の御相手は荷が勝ち過ぎるのでは……」
その問いに海神は一笑すると手を振って眷属達を平時の任に戻るよう指示する。戸惑いながらも頭を下げて解散していく彼等の背に海神は答えを返してやる。
『愚女もそうだがお前等も阿呆だな。良いか? あの愚女は初心な“ねんね”だ。それが如何だあの浦島太郎と云う男、あの稚児趣味の好み弩真ん中。……そんな男が腹を決めて逆に攻めに出たらどうなると思う?』
「……それは、いったいどういう意味で―――」
眷属が疑問に思った時であった。
―――バンッと音を立てて玉座の間の扉が外から勢いよく開かれた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
扉を開いたのはつい先程乙姫の手によって攫われた浦島太郎であった。それを見た眷属達がざわつき困惑する……しかしその中で海神だけは口元に拳を当てて震えている。何かを堪えるように。
息も絶え絶えな浦島太郎。彼は息を整える暇すら惜しむように大きな声で言う。
「―――亀さ……いや違って……乙姫さんがっ! 乙姫さんが卒倒しましたっ!?」
その浦島太郎の言葉で海神は堪えきれなくなった。
『ハーッハッハッハッハッハッハッハッハ!! やはり倒れおった! フハッ! まっこと愚女だ! ハッハッハッハッハッハッハッハ!!』
乙姫が倒れた。
理由は単純。“ときめき”がいき過ぎて興奮過多に陥り……失神したのである。
私室に浦島太郎を連れ込んだまでは良かった。だがそこで覚悟を決めていた浦島太郎の反撃にあった。
“……僕も、その……乙姫さんに……一目惚れしてました。だから……その……あの、えっと…………すきです”
二人きりの時にそんなことを告白された乙姫は―――
“いとをかし(もぅマヂ無理可愛い過ぎ。尊い)”
そう呟くや意識を手放し卒倒。地に伏した。
これに慌てた浦島太郎が一直線にこの玉座の間へ蜻蛉返りしてきたという訳である。
「お、乙姫さん……もしかして何か大病を患っていたのですか? あんな風に急に倒れるなんて……」
『まあ病気だな。不治系の』
「な、何か薬をっ」
『何とかに付ける薬は無いと言うぞ』
あたふたと右往左往する浦島太郎に茶々を入れながら面白そうに眺める海神。彼は手を叩くと眷属達に言い付ける。
『よし、お前達。賭けをするぞ。内容は『何年、幾日以内に乙姫と浦島太郎が閨事に至れるか』だ』
そんな下種な内容の賭け事が眷属達に伝わり切ると、彼等は次々に矛を上げて言う。
「―――五年!」「それはいくら何でも遅い! 二十日だろ!」「早過ぎ。乙姫様には無理。一年」「大穴狙いの明日!」「……無茶しやがって。手堅く一ヶ月」「……三年。浮雲は三年でお願いします」「浦島太郎殿も若い男。彼の方から迫ることを考え半年!」
……眷属達は娯楽に餓えていた。
この竜宮の絢爛豪華な内装も、元を正せば「暇。暇すぎ。何かやろう」といった退屈に耐えかねた蓬莱の住人達の手によって作られた物である。寿命が基本的に無いというのも考え物である。
蓬莱は暇人の巣窟だった。
「……え……えぇ……」
その俗っぽさに流石の浦島太郎も頭が冷えた。
乙姫の稚児趣味暴露からのここまでの流れは浦島太郎から蓬莱という神秘の土地の印象は粉々に砕いてしまった。
「…………」
―――しかし、その反面とも言うべきか。
「はは」
笑う。
浦島太郎は気が抜けたように笑う。
ふにゃりとした、容姿相応の、童のような笑顔で……浦島太郎は腹の底から笑った。
「あははは! ……はぁー。……随分遠くに来ちゃったもんだ」
驚きの連続。気の落ち着く暇など殆ど無かった。……それでも浦島太郎はその体験した全てを『愉快だった』と思えた。
村に居て天候や潮流を日々見通しながら、村人から崇められる。そんな日常では絶対に味わえなかったと断言出来る、神仙や人外達との破茶滅茶な交流。それらが本当に愉快だと思えた。
「明日はどんな日になるかな」
浦島太郎は期待に満ちた目で竜宮を眺める。法眼を持ってしても見通すことが出来ない未来に思いを馳せながら。
浦島太郎異聞。ここにて閉幕。
◆◆◆
―――これより三年後。浦島太郎と乙姫はどうにかこうにか頑張り夫婦として結ばれ、そうして子を儲けるに至る(最初の一年は同衾すらままならなかった)。
神と契ったことにより自身も神へと変じた浦島太郎は名を“火遠理命”と改め、人間の名残である釣竿を小舟へと変えて其れを必要とする者へ譲った。
船の受け渡しの際に火遠理命は相手へ「其の方、向かう場所は鬼が根城とする危険な島と聞き及びます。何故そこを目指すのでしょうか」と尋ねた。それに対して屈強なる勇士はこう返した。「劣生は己が正しさを貫くのみ」と。
火遠理命は其者の高潔な魂に敬意を表し―――勇士にして蓬莱の血に連なる神威“桃太郎”に鬼ヶ島への渡し船を譲った。
桃太郎に小舟を譲るやいなや、火遠理命は漁民に扮する為に幻で作っていた家などを跡形も無く消し去り自身も姿をくらませた。火遠理命が幽霊か何かのように行方をくらましたことに首を傾げながらも鬼ヶ島へ出立する桃太郎一行。……その姿を火遠理命は見送る。
「さようなら、神州無敵の兵。永い永い時の果て、この身が朽ちて魂解き放たれようと……縁の導きが再び僕達を巡り合わせるでしょう。―――いずれ、遙か先の地平で又」
火遠理命は届かぬ声でそう言うと糸を手繰って蓬莱へと帰参す。妻と子が待つ竜宮へ。
――――――
かくして物語は終わりを告げた。
人の世では持て余す異能を宿す我が身を托せる存在に托し、後に托せる物を後世の者へ托して家族の元に帰って物語は終わる。
大海に垂らした糸のようにか細く伸びる縁。
それが辿り着く場所は誰にも知れず。
只一人、それを見ることが叶う火遠理命は黙して語らず。
知る者が語らねば不定と同じ。故に物語は一つで終わらず。
人の数だけ物語は生まれ、人の数だけ物語は閉じられる。
―――誰もが既に知る世界、誰もが未だ知らぬ新世界。物事は一面だけでは語れぬ幽玄なりて。故に描かれるその全てが許される
ここで記されし物語は『幽玄世界』
物語がどのような結末を迎えるか、全ては書き手の綴るままに―――