第十二話 赤い月と追撃者
もうダメだと思った瞬間、聞こえてきた声。それは、絶望を希望に変える声だった。
「―――何を笑っている?」
『?!』
そいつは、赤い月をバックにしながら窓際にいた。
ゆるく縛った髪が、開けた窓からふわりと風にゆれる。
妖美に美しくも怪しく光り輝く赤い月。
その光に照らされた黒い髪が優美に輝く。
その瞳が、キラリと強いひかりを放っていた。
ストッと降り立った瞬間、窓が勢いよく閉まった。
それを見ながら鼻で笑う彼は、まるで閉じ込められるのが分かっていたとでもいうように、軽く笑っただけだった。
刀を肩に乗せて、目を鋭く細め、その肖像画へと一歩、また一歩と近づいていく。
肖像画の女と言えば、身体半分が絵から飛び出た状態で、その長い長い髪をつかってシュウを絡めており、囚われているシュウを見ながら、そいつはますます緑色のきれいな瞳を細めた。
「そいつを、どうするつもりだ?」
『…おなか。おなか空いてるの…食べなきゃ…食べなきゃ消えちゃう…』
ピクリと、彼の眉が動いた。
彼女は彼の雰囲気が変わったのにも気付かずに続ける。
悲痛な声がその場に鳴り響く。
『たべなきゃきえちゃうのォォォオオオオ! おなか空いてるのォォおオぉォオオ! 魂たべたいのぉぉおおあああぁぁああああ!!』
「…もはやお前は…霊などではなく、悪霊と化してしまったのだな…」
鋭くそして淡く緑色に光り始めた彼の瞳。
真剣な顔つきの彼は、スチャッと刀を構えた。
「生きるものに死したものが干渉し続けてはいけない」
静かに彼はそう語り、スッと刀へと手を伸ばす。
『たべさせて!!食べたい食べたい食べたい食べたい!! 食べたいのぉおおお!!』
頭を抱え、この世のものではないような、喉が引き裂かんばかりの彼女の苦痛のような悲鳴を聞きつつ、彼はスッと流れるような静かな動作で鞘から刀を抜くと。
「すまない」
そう言いながら、目に留まらぬ速さで……フッと体制を低くし、迫り来る髪を一振りで圧倒した。
『?!』
「その子供を食らうお前を、見逃すわけにはいかないんだ」
『いや…いやいやいやいやぁぁああああああああ!!!!消えたくなぁぁあああいいいいいいいい!!!』
彼がその刀を左手に持ち替えた瞬間。
チリン…。
その鈴の音は、刀の装飾品についていた鈴が鳴ったものだった。
透明な水晶作りの綺麗な鈴。
気がつけば、風が側を通っただけとも感じられた。だが。
『うっ…うぎゃぁぁあああああ……ア、アア…アアアアア!!』
実際は彼が刀で彼女を切ったのだった。彼の着ている紺色で白い狐模様の着物が少し気崩れていたが…。
彼はそんなことまったく気にかけていなかった。
「安らかに眠れ」
言いながら、哀しそうな瞳で消え行く彼女を見守った。
「どうか…もう苦しむことのない、安らかな眠りに―――…」
後にはカタンと地に落ちた真っ白な額縁と、その側に気絶してしまったシュウが残されただけだった。
刀を鞘におさめて、おもむろにシュウへと近づくその人は―――。
フッ。と安堵のため息をこぼした。
「どうやら間に合ったらしいな…」
そして右のほうへ顔を向けながらシュウを背負う。
「ふむ。あっちからも気配が感じられる…まだいるのか」
そう呟くと、タンッ。と空気を蹴るように素早く移動し始めた。
その頃、健路たちはというと。
「走れ走れ走れ走れ走れぇぇええええ!!」
「うわぁあああぁぁああ!!!」
わき目もふらずに一心不乱に走っていた。
もちろんそれは後ろから追ってくる黒い汚臭のする物体からでもあり、窓にへばりつきながら追ってくる、血だらけの青白い男から逃れるためでもあった。
「一気に二つ同時に追いかけられるってどんな無理ゲーだよ?!」
「喋ってる暇なんかないぞナオ!!」
とにかく走るんだ! そう大声で言うと、二人は走る事に集中した。
さっきの出来事で、あいつらが健路たちを引き離そうとしているのはわかった。
そうすれば恐怖が勝ってなにもできなくなり、思考も行動も単純になる。
判断も鈍くなる。それをあいつらは知っている。
「嫌に人間を熟知しているな」とナオが苦々しく言うと、「元は人間だったんだし、幾人か襲って把握したんだろ」と健路が重苦しく言う。
その言葉にわずかにヒッ。と声を漏らしたナオは顔色が若干悪くなっていた。
想像してしまったのだろう。もちろん健路にこれっぽっちも悪気はない。
二人は階段を上がり、そのまままっすぐまた階段を上がる。
隣を見ると運動神経の塊のナオが息切れを起こし、今にも倒れそうな顔をしている。
恐怖で息が上手くできないのか、顔色は悪いまま。
このままだと引き離される可能性が高い。
そう判断した健路は、あと三枚しかないお札の一つを黒い物体へ投げつける。
途端にその物体は劈くような声とともに消滅した。
だがもう一方の男は好都合だとでも言うかのようにニタリと笑う。
『ぎゃぎゃぎゃぎゃ!』
「お前はこっちを食らいやがれ!」
言いながら健路が塩をふりまいて、印を組んで、霊力を無理やり開放した。
父がやった事を見よう見真似しただけだったが、案外すんなりできてしまった。
途端に清められた塩が霊力に反応し、悪霊である男の周りを取り囲み、浄化するために火花が散る。
しかし浄化するためには繊細なコントロールがどうしても必要になってくる。
生憎、今の健路にはそんなものない。すぐに疲労し、意識が保てなくなる。
『ぎぃぃぃああああああああああ!!』
「しつっこいな! いい加減成仏しやがれ!!」
しかし何処から捻り出したのか。健路はそのまま霊力を使い、とても荒作業だったがその悪霊を取っ払うことができたのだった。
「ケン…すっげぇ…」
それを間直で見ていたナオはポカンとしながらも嬉しそうに健路に話しかける。
「すげぇじゃん健路! お前やっぱ、親父さんみたいなすっげぇ人になるんじゃ…」
そこで、健路の様子がおかしい事に気がついた。
心臓のあるほうの胸を押さえて、苦しそうに息をしている。
汗だくになりながらも、必死に倒れないで足を踏ん張ってはいるが…今にも倒れて気絶しそうだった。
「ケン、大丈夫かお前…」
「はぁ…っ…はっ…くっ…!」
とうとう方膝をつく彼を見かねたナオは、背中をさすってやった。
しかしそれだけで治る気配など微塵も感じられなかった。
心なしか彼の身体が熱くなっている気がする。
「お前…熱…っ!」
「へ…へいき…だっ…!」
無理やり立ち上がろうとして失敗し、両手を廊下に押し当てていた。