第2章 ③
私室の本の扱いについて、あれこれと悩んでいたら、すっかり暗くなっていた。
リアラは、根気強く待っていてくれたレイヴィンと、イファンと自宅近くの小さな食堂で夕食を済ませ、持参する本をようやく選別してから馬車に乗った。
そんなことで、レイヴィンの私邸に入ったのは、夜中である。
真夜中の王都は、漆黒の闇に包まれる。
明るい街灯も繁華街のみに設置されているもので、住宅街には存在していない。
道を照らすのは、馬車の御者台に吊るされた二つのランプだけで、すれ違う人もいなかった。自分が今、都のどこにいるのか、どんな邸宅に向かっているのか、リアラは暗闇の中に見つけることも叶わず、ただ馬車が止まった時点で、唐突に肩を叩かれただけだった。
やはり、私邸も真っ暗だ。人の気配もしない。リアラは心底、不安になった。
「……ここ、誰か管理している人とかいらっしゃらないんですか?」
「いや。ここは本当の意味で私個人の家だからな。定期的に掃除はさせているが、人は誰も置いていない」
その言い草からすると、他にも数軒、家を持っているようだ。
(私は別に何処でも良かったのに……)
本当の私邸ということは、ここだけは狭くて小さな個人所有の家ということだろうか?
人を置かないで済むのだから、きっとそうだろうと、リアラは先に明かりを点けるために入ったイファンの後を追った。
――が、リアラの想像は今回もはずれた。
磨き上げられた大理石の床に、白の螺旋階段。廊下はリアラの実家がすっぽり収まってしまうのではないかというほど広く、いくつもの部屋があることは十分察することができた。お邪魔するのを躊躇いたくなるような豪邸だ。
「狭くてすまないな。まあ、その分寛げるだろう」
「…………それは、嫌味ではないですよね?」
思わず疑ってしまった。
「何だ。嫌なのか? もっと広い方が良かったのか?」
言いながら、レイヴィンはすたすたと、灰色に汚れてしまったクロックコートをはためかせ、室内を闊歩する。
「おい、イファン。とりあえず、浴室の準備をしてくれ」
「はっ」
そそくさと、イファンは準備に走った。
「あの……」
「早く、上がったらどうだ? 今、浴室の用意をするから。君の方こそ、灰を洗い流した方が良いだろう?」
「いやいや。風呂場でどっきりは、私、裸体には自信がないのでご容赦して下さい。風呂は先に王子が行って下さいね。まさか、私が先に入るわけにはいかないでしょうから」
「……そうか。遠慮は良いと言いたいが、まあ、今回は君の言葉に甘えるとしよう。でも、風呂場でばったりか。考えていなかったな。そんな企画もあったか?」
レイヴィンは本当に忘れていたらしい。そして、コートのポケットから、いつの間に取り上げたのか、リアラの走り書きしたメモを取り出した。
「王子、それは……?」
リアラは、そのメモを、わざと自宅の私室に置いて来たつもりだった。
実現したら不毛なことを、真剣に実践するなんて愚かだ。
また適当に書き直そうと、いっそそのメモは捨ててしまうつもりでいたのに……。
(どうして、持ってきちっゃたのかな。この人……)
あざとい。
ついでに、痛い。
更に、恥ずかしいくらい平生の声音で、それを読み上げる。
「えーっと、一つ屋根の下→(やじるし)薄着にどっきり→(やじるし)お風呂でばったり→(やじるし)高熱看病→(やじるし)雷による添い寝→(やじるし)床流れ」
「頼みますから、音読しないで下さい」
自分の痛さが手にとるように分かって、リアラは逃げ出したい衝動にかられる。
レイヴィンが涼しい顔なのが、信じられなかった。
彼は馬鹿にしているのか、揶揄しているのか、まさか、本当に感心しているわけではないいだろうし……。
「すごいな」
感嘆の溜息を吐かれて、リアラはとっさに顔をそむけた。
今更、羞恥を感じるのだと叫んでも、相手にはしてもらえないだろう。そんな気がする。
「すごくないです。……というより、もういっそ穴があったら入ってしまって、埋めてもらいたいです。思えば、幸せな人生でした。見届けて下さり、有難うございます」
「まあ、待て。早まるな。私にはさっぱり分からない暗号めいた言葉の数々に、私の好奇心が擽られているのだ。恥じることはないだろう。どう解読すれば良いのか教えてくれ。まず、一つ屋根の下で何をするのだ?」
「色々です」
「このメモに書いてあることを訊いているのだ」
――おかしなことを言う。そんなことを知ってどうするのだろう。
王子の小説に、『一つ屋根の下』から、『風呂場でばったり』な挿入部が出てきたら、クオーツ国民の大半は卒倒し、連日の報道特集が組まれてしまうに違いない。
――王子の心を破壊した悪魔の本と女。
多分諸悪の根源は、リアラとなるだろう。
「一つ屋根の下は、敷居が高いですよ。実践的なことは、やめましょう」
「そうか。まあ話したくないのなら、良いが。しかし、私はここで寝起きするつもりはないから、お互いに安心しよう。君も変に身構えなくて良いぞ」
「何だ。そうなんですか。それなら、そうと仰ってください。焦りましたよ……」
「焦ったのか?」
「そりゃあ、焦りますよ。ただでさえ、愛しの本の山と別れて来て、不安いっぱいなのに。王子と一緒だなんて」
「ふーん」
できれば、速やかにレイヴィンには帰ってもらって、リアラはぐっすり休みを取りたかった。
「……じゃあ、もう一つ質問だが、このメモの最後「床流れ」とは何のことだ?」
「それは、床にどんと、女性を転がすことです」
「押し倒すということか? 最近の本では、結構過激なことも赤裸々に書くのだな……」
「床は恋人と検証してください、王子にはきっと書けるでしょう」
「…………何だかな」
弱々しい溜息を零すと、レイヴィンはメモ用紙を再びポケットの中に仕舞って、前を歩き出した。……酷い。返してくれないようだ。
「とりあえず、居間で休んでいてくれ。部屋には後で案内する」
こちらを見ずに、そう言った。
(居間か……。寛げないっぽいなあ……)
それでも、リアラは彼の言葉に従うしかない。レイヴィンの前で読んでいても、当たり障りのない本を荷物の中から選んで用意しつつ、居間のマホガニー製のソファーにへたりこんだ。
「……疲れた」
いつも、この時間は、自宅の寝台で妄想に心を震わせている。
予習と称して、本の続きを自分なりに想像して興奮し、また復習と称して、好きな本を何度も読み返し、頭の中でその光景を映像にして一人で悦に浸り、寝台をごろごろと転がりまくっている。何も妄想できないほど、疲れ果ててしまう日がやって来るなんて、悪夢以外の何物でもなかった。
(早く、家に戻りたい……。何で、あの時パンなんて拾っちゃったんだろう……)
後悔しても、仕方ないことは分かっていたが、心の中で毒づくことくらい許して欲しい。
重くなってきた目蓋に耐えられず、リアラは瞳を閉じた。
……しかし、心地よい眠りを享受できるまでには至らなかった。
突然、ぷつりと明かりが消えたのだ。
「…………なっ、なに!?」
手にしていた本を床に落としてしまったことで、リアラははっと身を起こした。
ランプの灯を誰かが消したのか?
いや、ここは自宅ではない。すべて電灯だったはずだ。
まさか、就寝時間が来たから寝ろということか?
いや、それは違うだろう。リアラは、まだ部屋に案内されていない。
「イファンさん? ……王子?」
小声で呼びかける。が、返事はない。
このまま待っているのも不安になったので、リアラはゆっくりと立ち上がり、居間を出た。少し体を落ち着けたせいで、かえって疲労感が増した体を無理やり動かす。
きょろきょろと周囲を見渡せば、細い光の線が真っ直ぐリアラの足元まで伸びていた。
(あの部屋の明かりだけは、活きているんだ……)
リアラは壁伝いに、ゆっくりと歩を進めた。
――どうして? ――何で? ――私が?
叫びたくなるのを、ぐっと堪えて、ようやく光源のある部屋の中に入る。
「王子! イファンさん! いらしゃいますか?」
しんとしている。誰もいないのか?
白煙が一面を占拠し、リアラの視界が塞がれた。
(えっ……。湯気?)
「まさか……」
――ということは、隣が風呂場で、ここは……
(脱衣所っ~!?)
「…………何でまた?」
「おいっ! 一体、どうしたんだ!?」
慌ただしい水音がその場に響き渡った。案の定、レイヴィンが風呂に入っていたらしい。
(ちょっと待ってよ。どうして私がいつもこんな目に……)
「いえ、何でもありませんから!」
リアラは言い放って、脱衣所から出ようとした。……だが、ドアノブを引いても押しても扉が開かない。
「嘘でしょ!? ちょっと! かたっ!」
閉じ込められた!?
(落ち着こう。落ち着いてここは対処法を……)
「何があったのか?」
「うおっ!?」
とてもじゃないが、落ち着けなかった。
タオルを腰に巻いてはいるが、適度に筋肉のついた均整のとれた麗しい体躯がリアラの視界の中央にある。
石鹸の香りだろうか。むせ返るような花の香りも一緒だ。
金色の髪から滑り落ちた水滴が首筋を通る。たったそれだけのことがどうしてか、艶っぽい。レイヴィンは髪をかきわけ、リアラの隣にやって来た。
「どうした? 扉が開かないのか?」
リアラは喉を鳴らした。言葉も出ずに、首肯するだけだ。
もう二度とこんな美しい裸体は目にすることができないのなら、目に焼き付けておいた方が良いのではないか?
「そうなん……です。いきなり明かりが消えて、家の中をさまよっていたら、ここに明かりがあって、だから、……私」
「閉じ込められたのか? 分からんな」
レイヴィンが渾身の力で押しても引いてもびくともしない扉に閉口して、リアラに向き直った。
「何だ。私はてっきり、風呂場でばったりを君が仕組んだのかと思ったぞ」
「私は、現実の恋愛には興味がないのです。仕組むほどの体力もありません」
「そうだったな」
しんと静かになった。
濃霧のようだった湯気は消えて、脱衣所の全貌は明らかになっている。
白と黒のブロックチェック柄の床に、白の小さな箪笥があり、奥に洗面台がある。
その隣に、王子の替えの衣装が入った箱が置かれていた。
広い空間に必要最低限のものしか置かれていない。
そこの入り口に、ぽつんと二人で突っ立っている。
「王子、湯冷めをしてしまうので、ちゃんと風呂に入って来て下さい」
「しかし、ずっとここが開かないのも困るし、ここに私たちを閉じ込めた犯人が近くにいるってことも落ち着かない。すぐにここから出なければ」
「イファンさんは?」
「買い物に出したのだが……。どうやら、まずかったようだな。しかし、他の警備の連中はどうしたんだろうな? まったく……」
「ひとまず、このままでは風邪をひきますから、何とぞ、風呂に戻るか服を着るか、対処をなさってください」
「いっそのこと、君も一緒に入るか? 風呂場でばったりの検証もできるぞ」
「王子も、冗談をおっしゃるんですね」
「……………悪かったな」
レイヴィンはくすりと笑って、リアラに背を向けた。
「とりあえず、着替えておいた方がよさそうだな」
「了解です。私はこっちを向いているので……」
――と、その時だった。
「殿下! リアラさん!!」
「イファンさん!」
ノックと共に、イファンが叫ぶ。
「ちょっと待っていて下さい。今、開けるので……」
イファンがドアノブを力いっぱいに引いていた。
さすがのリアラも、今は心の底から素直に喜んだ。
「王子! イファンさんが来てくれましたよ!」
興奮して振り返ったのがいけなかったのだろう。
「…………あっ」
目と目がかち合った。
レイヴィンの腰には、タオルがなかった。
ーー全裸である。
リアラは瞬きもせずに、上から下までまじまじと見入った。
(…………なんと……まあ、雄大な)
言葉に出さなかったが、勝手に感動している。
「おいっ! いつまで見ているんだ?」
頬を赤らめたレイヴィンに怒鳴られて、リアラはようやく我に返った。
「あ、そうでした。すいません」
……と言いつつ、目を離さない。レイヴィンは慌てて、トラウザーを穿いた。
「君、…………変態だな?」
今更の質問だ。変態でなかったら、リアラは何なのか。
「あ、そうです。私は変態ですけど、おおらかな方向を目指しているので」
「変態に、種類なんてあるのか?」
「ありますよ。少なくとも、私は自分に正直に生きています。おかげさまで、とても結構なものを見せて頂き、眼福ものでございました。王子には厚くお礼を申し上げます」
深々と頭を下げて、顔を上げると、レイヴィンは無表情で固まっていた。
「結構なものって何だ。おいっ!?」
「……結構なものは、結構なものです」
レイヴィンが信じられないとばかりに、頭を振った。
「君は、現実に興味がないと言ったばかりだろう?」
「でも、美しいものは、紙の中でも、現実でも美しいじゃないですか?」
「屁理屈だ」
レイヴィンは耳まで真っ赤になっている。
あんなに素敵な体を持っていて、何を照れることがあるのか?
「風呂場でばったりすると、普通の女は叫ぶんじゃないのか?」
「あくまで、紙の中のことですが、まあ、あれは自分の裸も見られてしまったという羞恥の感情もあると思うので」
「じゃあ、君も脱げ!」
「はあっ!?」
今度は、リアラが驚愕する番だった。レイヴィンがじりじりと近づいてくる。
「私だけ不公平ではないか?」
「いや、今のは、疲労困憊した私へのご褒美というわけには……」
「それだったら、私の方が疲れているぞ」
「……だから、私の体は観賞用ではないのです」
「そんなのは、私が判断する。いいからここで脱げ!」
「…………殿下」
「………………えっ?」
ようやく扉が開け放たれた。のっそり脱衣所に現れたイファンは、目の色を変えていた。
「女性を前にして、今、とんでもない発言をしていませんでしたか?」
「ち、違う。イファン、誤解だ!」
「自分は、しかと聞きましたが? 彼女に大声で「脱げ」と命じていましたよね」
「わ、私が先に見られたのだ。それに命じていたわけではないぞ」
「では、どういうつもりで、「脱げ」と?」
「脱いで欲しいと、懇願していたのだ」
……この人、阿呆だ。
益々、立場が悪くなっている。
イファンの体中から、沸騰するような熱い怒りを感じた。
「なんと嘆かわしい。このようなことを平気で口にするお方が、建国五百年、由緒正しきクオーツ王国の第二王子かと思うと……」
「それよりも、扉だ。そこの扉が開かなかったのがいけないのだ」
「ここの扉は、元々立てつけが悪いのです」
リアラは、じろりと、レイヴィンに睨まれた感じがした。
「……そうだったんです……かあ」
気の抜けた声で、応じる。しかし、本当に開かなかったのだ。仕方ないではないか。
……何だか、いろんな意味で凄いことになってきた。
とんだ「お風呂でばったり」だ。
リアラは、緊迫した空気の二人から、そろろそと距離を取り始めたのだった。