番外 ⑤
(……頭が痛い)
レイヴィンは、霞がかかっている脳内で、必死に頭を働かせていた。
いつの間にか、自分は眠っていたようだ。
…………気絶していたともいうかもしれない。
熱は上がっているのか、下がっているのか……。
元々、高熱を出していたことすら、自覚がなかったくらいだ。
具合が悪いことには、慣れている。
だが、体が鉛のように重く、動くのすら億劫なのは、いい加減飽きていた。
リアラの言うとおり、着替えた方が良いことは分かっているが、体力を使うことが、今のレイヴィンには面倒だった。
……でも。
だからといって、リアラの良いように扱われるのは、癪なのだ。
(……体を拭くと言われても……な?)
服を脱がせると主張した時のリアラの双眸は、怪しい色に輝いていた。
大体、「撫でまわさない」「蛇のような目で見ない」と宣言されて、体を拭かれる男の身にも、なってもらいたい。
(安全だと言われたところで、鼻息荒く、体を拭かれた日には、良い気がしないではないか?)
――と、そこまで想像してから、レイヴィンは、毛布の中で小さく首を振った。
(…………違う。そうじゃないんだ)
問題は、リアラにあるわけではないのだ。
レイヴィンは、リアラのことを恐れているわけでも、疎んじているわけでもない。
不思議なことであるが、レイヴィンはリアラの妄想癖を、彼女が無意識に身に着けた処世術のようなものだと思っている。
自分は変態なのだと、誇張して告白することによって、自分に触れるな、近寄るなと、暗に威嚇しているように感じられた。
きっと、本人すら無自覚なことだろうが、レイヴィンだけは、そんなリアラを理解しているつもりでいるのだ。出来たら、自分の手で振り向かせたいと……。
もちろん、素で変態なのかもしれないと疑う時もあるが、それに対しても、良いのか悪いのか、レイヴィンには耐性がついてきているし、おかしなことを口にしていても、結局、彼女からレイヴィンに行動を示すことは万に一つもないだろうことは、分かっている。
仮に、もし、これがいつものレイヴィンであったら、今回のことを絶好の機会ととらえたはずだ。逆手にとって、彼女を寝台に引きずり込むくらい、平生のレイヴィンであれば、造作もないことだった。
(そうだ。私が嫌悪しているのは…………)
むしろ、体調不良の方であった。
彼女に対して、まったく手が出せない自分に苛々していた。
更に、歯がゆいのは、こんなに弱っている自分を、長い時間、リアラの前に晒していることだった。
耐え難い屈辱だった。
格好悪い自分が、無抵抗のまま、リアラの妄想の餌にされるのが嫌なのだ。
彼女の鑑賞物なんかに、なるつもりはないのだ。
リアラにとって、唯一の男でありたいと思っているのに……。
だけど、以前、それを言ったら、「いやいや、そう思っている人がですね。堕ちてゆく様が、重要なのです」と、リアラが歪な笑顔を返してきたことがあったような気もするが……。
(…………怖いな。なんか、やっぱり、変態かもしれない)
ぶるりと、体が震えた。
それが熱のせいなのか、本能的な恐怖なのかは、レイヴィンには分からない。
けれども、震えたことで、レイヴィンの意識は、一気に現実に戻ってきた。
(寒い……な)
あれから、どのくらい時間が経ったのか……。
確かめるつもりで、ゆっくり、目を開けたら、室内は真っ暗だった。
……ということは、まだ夜だということだ。
先程は、寝台の隣の机に置いてあったランプに、小さな明かりが灯っていたはずだが、もしかしたら、無意識のうちに自分で消してしまったのかもしれない。
しんとしているのは、リアラが近くにいない証拠だ。
彼女には、余裕がなかったとはいえ、酷いことを言ってしまった。
あれでいて、繊細な娘だ。傷つけてしまったかもしれない。
こうなったら、とっとと元気になって、今度こそ彼女を寝台に引きずり込むのを目標にするべきだろう。
……しかし。
身じろぎした矢先に、この季節特有の乾いた空気が、レイヴィンの喉を刺激して、咳こんだ。
終わりの見えない空咳が怖くなって、あらん限りの力で、上体を起こす。
(今更、喘息の発作だなんて、冗談じゃない)
子供の頃、喘息が酷かったレイヴィンは、王都の空気が体に良くないと言う侍医の勧めで、国境近くのアスミエル島で静養していた。
あの頃より、遥かに健康体になったつもりだが、やはり、元々、肺は良くないのだ。風邪をひくと、すぐに咳が出る。
(リアラは、もう寝たのだろうか?)
暗い狭い部屋の中に、誰もいないというのは、心細いものだ。
咳を止めようと、リアラが用意してくれた水差しを探しても、この闇の中では、どこにあるのか分かりはしない。
(まいったな……)
やはり、外に出て護衛に医者を連れてくるよう、頼むべきだったのか?
だけど、レイヴィンは、少しでもリアラと一緒にいたかったのだ。
(見事に、矛盾しているが……)
寄るなと言ったくせに、一緒にいたいなんて、めちゃくちゃだろう。
――しばらく会わなくても平気だ……と。
平然と、そう言った彼女が許せなかった。
しばらく会わないでいたら、本気で忘れ去られてしまうのではないか?
それこそ、何よりも、レイヴィンが恐れていることである。
(…………だから。後先考えず、私は)
「ああっ、もう! 大丈夫ですか。王子?」
突然、暗闇の中で、後ろから抱え込まれたレイヴィンは、その背中を温かい手で擦られた。
「な……に?」
程なく、明かりもついて、レイヴィンは初めて至近距離でリアラの澄んだ瞳を確認した。
「リア……ラ」
「ええ。一応、リアラです」
彼女はレイヴィンを安心させるように、はにかんだ笑みを浮かべた。
いつも、レイヴィンが顔を近づけた時、リアラはすぐさま目を閉じ、顔を背けて、距離を取るのだが……。今は逃げない。進んで近づこうとしている。
銀色の髪が灯の光に彩られて、今は橙色に輝いている。ほつれた髪の数本が彼女の頬に落ちていて、凄絶な色気すら感じた。
やっぱり、近くで見ると可愛いのだ。
他人のことを言えなかった。
結局、レイヴィンも、とっくの昔から、おかしいのだ。
「き……みは、今、……何処に?」
「王子の隣で、寝ていましたけど?」
「ごほっ」
あまりの強烈発言に、レイヴィンは咳を激しくさせた。
「と、とりあえず、水、水を飲みましょうか……ね?」
言いながら、リアラは首尾よく水差しの水をレイヴィンに含ませた。
「どうして、そんな……?」
繰り返せば、リアラは悪びれる様子もなく、あっさり白状した。
「何はともあれ、すいません。一人にしてくれと仰せだったのに……。でも、その……、部屋の明かりなども点いたままだったし、気になって、部屋に入ったら、王子が空咳をしていたので、心配になってしまって。しばらく床で大人しくしていたんですけど、何だか、寒くなっちゃいまして。だったら、寝台の隅っこで小さく横になっている分には、害もないかと思ったんです。あれ? 一応、お伺いは立てたんですけど、覚えてないですか?」
レイヴィンが、ぶるぶると首を横に振ると、リアラは
「じゃあ、すいません。でも、まあ、誓って何もしていませんから。ただ、寝ていただけなので、気にしてないで下さい」
――と、白々しく早口で告げた。
(何てことをさらってやってくれたのだ。更に何も覚えていないなんて、最低最悪じゃないか?)
「気に……するに、決まって……!」
興奮して声を荒げたら、途端に、吐き気を伴って激しい咳が出た。
……厄介だ。
リアラの言う通り、この家もリアラの存在も、病人には優しくないのかもしれない。
久々の苦痛に、涙目になって、肩を揺らしていれば、リアラが背中を擦っていた手を止めて、レイヴィンの顔前に両手を重ねて差し出してきた。
「王子、もしかして、吐きそうですか? 危険ですか? ちょっと受け止めるものがなくて、なんなら、えっと……、私の手とか、全然、平気なんで、どこでも、ばばっと、やっちゃってください」
「ばっ!」
――だけど。
怒鳴ろうとしてから、レイヴィンの胸が熱く疼いた。
リアラの言葉の意味に、顔が真っ赤になった。
(……何言っているんだろう?)
本人もきっと、分かっていないだろうが、そんなことを、平気で即興で、口に出来るのは、彼女くらいのものなのだ。
みんながみんな、レイヴィンを王子として見ている。
国民の手本として、常に悠然と、背筋を伸ばして真っ直ぐ立っている姿を期待しているのだ。弱い姿なんて、論外じゃないか。
リアラだって、レイヴィンのことを「王子」としか呼んでくれない。
だから、レイヴィンは強くいるつもりでいたのだ。
………………リアラより、優位でいようとしたのだ。
「大……丈夫……だ」
気が付けば、レイヴィンは苦しさの中で、微笑していた。
「大丈夫……だから。リアラ」
「王……子?」
『王子』と呼んではいるものの、リアラはレイヴィンが王子だから、こんなことを言っているわけではない。
彼女はただ、直感的にそう思ったから、何の駆け引きもなく、レイヴィンの前に両手を差し出しているのだろう。
リアラは、肩書きではなく、レイヴィン自身を見ている。
それは、出会ってから、間もない段階で、レイヴィンが気づいていたことだった。
リアラは少女小説の世界を崇拝しているが、現実世界に対しては、こちらが驚くほどに冷静で淡泊な考えの持ち主だ。
多分、表向きレイヴィンのことを「王子」と呼んでいるのは、彼女なりの線引きのつもりなのだろう。
(でも、それは、「王子」に敬意を払っているわけじゃない。ただのリアラの威嚇行為だ)
レイヴィン以外の人間にも、リアラがしていることだ。
(それこそが、彼女の弱いところなのだから)
レイヴィンがいつか触れてみたい、リアラの核の部分なのだ。
いいところを見せたいとか、弱いところは見せたくないとか、王子だからだとか、そんなことを悶々と考えていた自分が馬鹿馬鹿しくなった。
悩むのは、レイヴィンらしくない。
(こんなに分かりづらくて、厄介で、難解で、でも究極にお人好しな彼女を受け入れることができるのは、私しかいないのだ)
腹を括ってしまえば、曝け出すことを躊躇ってなんていられなかった。
「もう……、平気だ」
先程、飲んだ水の効果だろうか、咳の発作は、何事もなかったかのように止まった。
そして、レイヴィンは導かれるように、差し出されていたリアラの両手を自分の両手で包み込んだ。
「……あの……、王子? 一体、何をしているんですか?」
面食らっているリアラには答えず構わず、レイヴィンはその手を強く握りしめ続ける。
「こういうのは、君の大好きなお医者さんごっこにはないんだろうな?」
「まだ、それを仰っているんですか?」
リアラは、レイヴィンの行動に狼狽しているようだったが、答えはきっぱりしていた。
「あれは妄想。こっちは現実ですからね」
「現……実か」
呟いたレイヴィンの声は、まだ本調子ではなかったが、気分はとても良かった。
「そうですよ。王子。現実での病気は、きれいごとじゃありませんからね。苦しくて痛いものです。…………私、よく、知っていますから。だから、王子も私のことなど気にしないで、だるい時は、だるいままでいれば良いんだと思います。王子だって、人間なんですから」
「そうだな。たった今から、そうすることにする」
「やけに、素直ですね?」
「ああ、素直になったついでに、謝っておく。さっきは、すまなかった」
「一体、どうしちゃったんですか。王子? やっぱり、熱が頭に回ってしまいましたか?」
リアラらしい、予想通りの反応に、思わずレイヴィンは、笑ってしまった。
「そうだな。私は、ある意味、熱にやられてしまっているのかしもれない」
「……とっても、危険ですよ。どうするんです?」
「いいんだ。熱があれば、君にも構ってもらえるし」
「…………とりあえず、私、外に出て、人を呼んで来ましょうか?」
そうはさせまいと、レイヴィンはリアラの手を引っ張る。リアラはあからさまに顔をひきつらせていた。
「素晴らしい、お力ですね?」
「もう、体の具合は落ち着いてきたんだと思う」
「そうですか。その割には、大変な咳のようでしたけど?」
「昔から、治りそうな時にああなるんだ。大したことない。数年ぶりで驚いただけで……」
「では、あとは、頭ということですか?」
「ああ、そうだな。これが一番、重症だ。頭の中が君で一杯だからな。どうしてくれるんだ?」
「…………末期症状じゃないですか。王子の心を占領するような、おぞましいことをした理由は何だったんでしょうか?」
「どうして、そう、君は自分に否定的なんだろうな?」
「否定的な意味以外で、王子の脳内で増殖する自分が信じられません」
リアラは本気で衝撃を受けているようだった。だが、この程度では生ぬるい。
レイヴィンは、さらっと告白した。
「やっぱり、君しかいないと思ったんだ」
「はっ?」
「……君しかいないんだ。私には」
――数瞬の沈黙。
リアラは、きょろきょろ周囲を見渡しながら、小首を傾げた。
「ああ。残念なことに、ここには私と王子しかいませんが……。どっかに、伏兵でもいるのですか?」
「…………………………ふむ。そうくるか」
……どうやら、そっちに思考が行ってしまったらしい。
近年まれにみる、話のそらし方だ。
見事に「私には~」の部分をぶった切っている。
彼女は、分かっていて、わざとはぐらかしているのか、それとも、分かっていても、心が分かりたくないのか……。
(まあ、いい)
レイヴィンは、リアラの手の感触に意識を置いた。
何であれ、リアラはレイヴィンのすぐ目の前にいるのだ。時間は無尽にある。
――これからだ。
レイヴィンの気持ちは、定まったし、再確認もできた。
今後、動かないし、揺らぐこともない。
……だから。
「…………まあ、その話は後でちゃんとするにして。ここはひとまず、私の着替えを手伝ってくれないか? リアラ」
レイヴィンは、隙あれば動こうとしている彼女の手を捕えたままに、華奢な肩口にこつんと頭を乗せた。
全力で抱きしめなかったのは、理性が崩壊するのを防ぐためだった。




