第6章 ②
あのとんでもない宴の夜から、有無をも言わさない勢いで自宅に戻ったリアラは、レイヴィンから……、正確にはイファンから支給された金を前に迷っていた。
この金があれば、当分何もしなくても生きていけるはずだ。
けれど、レイヴィンに対しては、結構、いや、かなり酷いことを口にした気がする。今後、金を返せと言われるかもしれないし、更に、両親のことを調査されたら、罪人扱いされてもおかしくない。実際、レイヴィンならやりかねない心配があった。
……色々考えると、手をつけるのが怖いお金だった。
「今後の保釈金のためにも残しておいた方が良いわよね。……としたら、早速働かないと生きていけない……か」
……出来れば働きたくない。けど、本の発売日は待ってくれないのだ。
「まったく、ほとぼりが冷めるのって、いつなのかしらね?」
寝椅子に寄りかかり、溜息混じりに独り言を呟いていたら、しかし、思わぬところから返答が飛んできた。
「……ほとぼりも何も、リアラさん。今から貴方を器物破損容疑で連行しますから」
「………………はい?」
たっぷりと時間を置いてから、リアラは目を丸くした。
銀髪の小柄な青年、アイゼルが土足で居間に入り込んでいた。
自室でなくて良かったと、一瞬、喜んでしまったのは、リアラが病んでしまった証拠かもしれない。
「一体、何処から入ったんです?」
「愚問ですね。入ろうと思えば、窓からでも玄関からでも、何処からでも可能です」
「そうですよね」
アイゼルの言う通りだ。彼であれば、不法侵入など容易いことだろう。
「それで、私は何を破損したのですか?」
「先日、姫様が好意で貴方に貸したドレスです。二着共に、汚れがありました」
「分かりました。洗濯料金をお支払いすれば宜しいのですか?」
「クオーツ王国のお金で一〇〇〇シーヌですかね」
「その額を支払えば、王宮近くの一等地に豪邸が建ちますね?」
「そうなのですか。僕は姫様の仰せのままにお伝えしているだけなので……」
「分かりました。エスティーナ様は最初から、弁償させるつもりなんてないのでしょう」
「ともかく、僕は貴方を姫様のところまで連行します」
「……はいはい。了解です。もう好きにしてください」
リアラは頭を抱えた。どうせ最初から自分に拒否権なんてないのだ。
今日が本の発売日ではないことを脳内で再確認してから、安心したリアラは、大人しく馬車に乗せられ、エスティーナの滞在するホテルに連れて行かれた。
――だが。
ホテルの部屋の前は、どういうわけか、いつもとがらりと雰囲気が違っていた。
エスティーナ付きの侍女の他に、大柄の男たちが数人、宿泊部屋の前に並んでいた。背広姿ではあるが、リアラには何となく分かってしまった。
彼らは、アイゼルとお仲間なのだ。
目つきの鋭さが尋常ではない。
……でも、なぜ強面の方々がここに集合してしまったのか?
(前に来た時は、あの人たち、いなかったわよね?)
その物々しさが何やら不可解だった。そして、わざわざこんな形でリアラを呼びつけたエスティーナもおかしい気がする。
リアラの暗澹たる気持ちと対照的に、白地に派手な金色の装飾が施された扉を開けると、眼下を一望できる窓の前で、純白のドレス姿のエスティーナが麗しい笑みを浮かべていた。
いつもより地味なドレスを着ているのに、今日は一段と美しく見えるから不思議だった。
「ご無沙汰しています。何だか、私ドレスを汚してしまったみたいで、申し訳ありません」
社交辞令とばかりに、ぺこりと頭を下げれば、エスティーナはリアラに近寄るわけでもなく、そのままの姿勢でさらりと言った。
「わたくしが国に帰らないものだから、とうとうね、お迎えが来たのよ」
「……ああ、外の方々ですか?」
なるほど。アイゼルとは、同僚であっても、仲間というわけではないようだ。 どうりで、いつも彼女の傍らにべったりと侍っているアイゼルがいないわけだ。同僚の目を気にしているのかもしれない。
「貴方を普通に呼び出したら、あれこれ詮索されそうだし、さっさと帰ろうと念を押されそうだから、わたくしのドレスを駄目にした罪人を呼び出すってことで待たせているのよ」
「そうだったんですか」
ほっとしたのもつかの間だった。
「はい。リアラさん」
言うや否や、エスティーナは小さな固形物を宙に放った。
リアラ目がけて何かを投げつけてきたらしい。
動体視力が優れていないにも関わらず、リアラが必死で受け止めた小さな物は、銀輪に大きな青い石が煌めく指輪だった。
「何ですか? これ」
こんな大きな石。偽物でなければ、相当高値の代物に違いない。
「餞別よ。それ、貴方にあげるわ」
「いりませんよ。こんなもの」
言下に本音を言えば、エスティーナは肩を震わせ豪快に笑った。
「いいじゃない。あの二着のドレス。本当に染みがあったのよ。受け取るだけ受け取りなさいよ。レイヴィンには今更、渡しにくいし、貴方なら良いと思ってあげるんだから」
「そこまで言われるとかえって怖いです。何なんです? もしや、呪いの指輪ですか?」
「まあ、ある意味、長年の因縁ものには違いないけれど。貴方がいらないんじゃ、捨てるしかないわね。レイヴィンが悲しむわよ。彼はこの指輪のせいで結婚できないのだから」
「……どういう意味ですか?」
「そのままの意味よ。詳細は彼に訊きなさいな」
「もう、王子とは会うこともありませんから」
「やっぱりね。そうやって、貴方は逃げるのよね。別に恋愛関係でなくとも、彼に友達として会ってあげてもいいじゃないの?」
「王子と友達という、あり得ない展開についていけません」
「王子が貴方に恋をするという、有り得ない展開の方についていけないんじゃないの?」
「はあ?」
うすら寒く恍けてみせても、彼女には見抜かれているのだ。
「貴方が必死で隠している根底の性格は、わたくしと少し似ていると思うの」
「まさか、そんな。……恐れ多い」
今度はリアラが笑ってみせたが、エスティーナは真剣だった。
「怖いのね。誰かを信用して裏切られてしまうのが。傷つくのが嫌なのでしょう? いつかは壊れるものだと悟っているから、最初から関係を築きたくないのね。だから、何か他に没頭できる世界を探して。わたくしも同じ。ずっとアイゼルとのことを悩んでいたから、貴方のこと少しは共感できるの」
「私の本好きは、そういう意味合いを凌駕していますよ」
不機嫌に眉を寄せると、エスティーナは得意げに腕を組んだ。
「そうね。それなら別にいいわ。わたくしの指摘が間違ってようが、正しかろうが、わたくしは、レイヴィンに借りを返すだけ。……まあ、格好つけたところで、たまたま上手く物事が運んだだけといえば、その通りなのだけど」
「私には、エスティーナ様が何をされたいのか、まったく分からないのですが?」
ただ単に、リアラの心を乱すために呼びつけたのなら、いい迷惑だ。早く帰って本を読みたい。だけど、どうしてだろう。近頃、本を読んでいても、ふと思うことがあるのだ。
――レイヴィンは、今頃どうしているのだろうか……と。
「貴方はわたくしとアイゼルの気持ちが通じたとして、破局する方に賭けるでしょうね」
「はあ?」
「わたくしは上手くいく方に賭けるわ。だって、本当に不思議。何も怖くないの。彼といるだけで、諦めていた未来が明るくなって、この先、何があっても平気だって思えるのよ」
……気の迷いでは?
言いかけて、リアラは喉元でぐっと押し殺した。かける言葉が見当たらない。
けれども、それは夢見がちな乙女の台詞ではなく、彼女が正気で本気であるということを示唆する一言だったことに、リアラはふと気がついた。
エスティーナが窓を開け、一つに結いあげていた髪留めを外した。
部屋中を駆け抜ける風に、長髪をなびかせて、彼女はリアラを振り返る。
「わたくし、駆け落ちすることにしたの」
丁度良い具合に縄を伝って、屋上からこの窓まで下りてきたアイゼルの姿があった。
「…………そのよう……ですね」
「良かったわ。貴方のおかげで、時間稼ぎができそうで」
女神の微笑のようだったが、それは実際、悪魔の微笑だった。
「ドレスを汚した貴方に汚した個所を見せたいから、着替えをするかもしれないと言ったの。だから、人払いが出来たのよ。ありがとう。リアラ」
二人の姿を唖然と見守っていたリアラは、そこでようやく慌てた。
――要するに、はめられたのだ。
リアラは今、大騒動のど真ん中に置かれているのだ。
「礼を仰られても困ります。私は今の今まで知らなかったんですから。この後、私はどうなるのですか? 二人の駆け落ちにご一緒できるというわけでもなさそうですし?」
「だって、貴方は本を手放せないのでしょう。重い荷物を持ち歩くほどの余裕はないのよ」
「エスティーナ様!」
涙目でリアラが訴えるているのにも関わらず、彼女は軽やかに無視をした。
「うーん。パルヴァ―ナ王女の駆け落ちを幇助した罪で、少し厄介なことになるかもしれないけど、でも、大丈夫よ。リアラ。貴方ならきっと」
「何が大丈夫なんですか。大丈夫……の根拠を教えてください」
必死に食い下がるリアラをエスティーナから引き離すように、アイゼルが彼女を片手で引き寄せた。
「末永くお幸せに。リアラさん」
「おっと! 勝手に話が完結してますが、それは私に天国で幸せになれという意味で?」
「本当に、面白い発想をするわよね。貴方」
エスティーナがしかめっ面でリアラの額を小突いた。
「ともかく、その指輪失くさないで頂戴。国家予算並みのお金がかかっている代物だから」
「何を一方的に押し付けているんですか。エスティーナ様!」
「じゃあね。リアラさん! 貴方に会えて、わたくし、とても楽しかったわ」
「今生の別れのようになってますが、理解に苦しみます。とにかく、一旦待って……まっ!」
感情露わに怒鳴り散らしたところで、見つめ合う色惚け馬鹿二人は、リアラを無視して縄を伝い地上へと降りていった。
さすがアイゼル。
エスティーナを抱えたまま、この縄を伝って下りて行くなんて、人間ではない。素晴らしい手並みだ。もしも、切迫した状況でなければ、全力で喝采を送っていたところだろうが、ともかく今はそれどころではない。
「姫様! どうしました。今、凄い音がしましたが!」
早速、激しく扉がノックされた。これは、酒に眠り薬を盛られた程度の騒ぎではない。
(死ぬなー。何か分からないけど、こんなところで私死ぬみたいよ。父さん、母さん)
リアラは神なんて信じてもいなかったが、今は空に手を合わせて死後の世界に祈りを捧げるしかなかった。




