第5章 ①
……まいったな。
王宮の執務室で、レイヴィンは頭を抱えていた。
このままでは、今日も重大な仕事に手をつけられないかもしれない。
理由は、一つ。
――ついに、リアラが私邸を出て行くと、宣言したのだ。
昨晩、エスティーナとアイゼルを見送ったそのすぐ後に、彼女は自然に切りだしてきた。
『あっ、そうだ。もう私の役目は終了ですよね。元々、妄想ネタの実践なんて、必要なかったんですし、明日、家に帰りますよ。贅沢させて頂き、有難うございました』
…………何だと?
レイヴィンはあまりの衝撃に、返す言葉も失ってしまった。
今も思い出すだけで、心が破裂しそうだ。
きっと、彼女は、策士に違いない。
あんなにきつく抱きしめても、激しく抵抗する素振りは見せなかったのに、気持ちの一片も傾けてはくれないのだ。
そうして、ずっとレイヴィンを翻弄し続ける。
(くそっ。あれは、明らかに私から解放されて、良かったという顔だ)
そんなに紙の世界が良いのか? レイヴィンの私邸に、何の不自由があるというのか?
「良かったですね。これで変態痴女と手が切れるじゃないですか。自分も一安心ですよ」
レイヴィンの感情を逆なでするように、イファンが微笑みかけてきた。
相変わらずの鈍感ぶりである。
(……だから、お前はモテないんだ。この堅物め)
一方でむかつきながらも、しかし、もう一方でレイヴィンは、心配になっていた。
「……イファン。まさか、お前は、私に興味があるのではないよな?」
「どうしたのです。殿下? 熱でもあるのですか?」
逆に問われて、レイヴィンはイファンから目をそらした。
……駄目だ。明らかに、リアラから悪い影響を受けている。
「正直、殿下もどうかしているように思いますよ。変態痴女だと散々言っていたわりに、昨日の彼女に対するあの振る舞い。あれでは、彼女の身を害する危険は去っても、違った危険が起こりそうで、怖いですよ。からかうにしても、節度というものがあります」
「話しただろう? 彼女とは二人きりでいても、枕投げ程度しか出来ない間柄なんだ。間違いを起こそうにも、起こさせてくれるほど、彼女は普通じゃない」
「それは、つまり、間違いを犯したいということですか?」
「………そんなはず……あるわけ……ないだろう」
枕投げの一夜のことは、イファンにきちんと話して聞かせたが、リアラに対する微妙な気持ちの変化については、話していないし、話せるはずもない。
いや、まず……、話すも何も。
(私は一体、どうしたいんだ?)
リアラに対して、好意を抱いていないのなら、彼女の希望通り自宅に帰してやれば良い。
そして、一切の交流を絶ち、馬鹿な思い出として、記憶の奥深くに沈めてしまえば、すべてが終わる。
女性を欲しているのなら、何も変態痴女のリアラでなくったって、良いはずだ。レイヴィンが頑張らずとも、こちらにすり寄ってくる女性は星の数ほどいるのだ。
――でも。そこが煮え切らないから、レイヴィン自身、困惑しているのだ。
「殿下。まさか、おかしなことを考えてはいませんよね?」
「おかしなこと……とは?」
「……リアラ嬢のことですよ。まさかとは思いますが、殿下は彼女のことを……?」
言いかけて、イファンは口を噤んだ。
しんと静まり返った室内に、ノックの音がこだまし、イファンはさっとレイヴィンの後ろに控えた。
「誰だ?」
今日は、昼過ぎまで来客の予定はないはずだ。エスティーナ? アイゼルか?
レイヴィンが首を傾げて、扉を見遣れば、衛兵が恭しく伺いを立てた。
「サンドラ様が殿下にお会いしたいと仰せです」
「……サンドラが私にか? 分かった」
レイヴィンは立ち上がり、妹を出迎えた。
存在感をほとんど感じないような、まるで空気のようだったサンドラが、最近レイヴィンの執務室に来ることが多くなった。
先日は、誕生パーティのダンスの練習だと言っていたが、それでも、今までのサンドラだったら、何もかも正反対の兄の部屋に、寄り着こうとはしなかっただろう。
(サンドラも大人になったんだな……)
しみじみと感じていたものの、現れたサンドラの表情は、やはり硬かった。一足飛びに成長ということもないらしい。
「どうしたんだ? サンドラ。今日もダンスの練習か。そういえば、誕生パーティまで、あと七日……だったな」
レイヴィンが務めて優しく問いかけると、サンドラは、子供らしいあどけない表情で、こくりとうなずいた。
華やかな赤いドレスは、ふんだんにフリルが使われていて、艶やかさより、可憐さが強調されていた。
「ええ、そうなの。誕生日が近づいているから、ダンスを頑張ろうと思って。兄様も、私の誕生パーティには、参加して下さるのでしょう?」
「もちろん。私も、お前の誕生日を祝わせてもらうつもりだ。せっかくダンスも頑張っているようだし……」
一連の騒動のせいで、レイヴィンはすっかり忘れていたが、当然、来週に迫ったサンドラの誕生パーティには兄のレイヴィンも参加する予定だ。妹の誕生日とはいえ、レイヴィンにとっては、ある種の公務にも等しい。
「それでね、兄様。私から一つだけ頼みがあるの……。いいかしら?」
「ああ。お前が私に頼みとは珍しいな」
自発的に喋りかけてくるサンドラに、レイヴィンは完全に呑まれていた。
「どうしても、パーティに来て欲しい人がいるの」
「ほう。そうか。私の関係者か? いいだろう。他でもないお前の頼みなら」
誰だろう? まったく想像がつかない。
思考が追い着かず、曖昧にうなずいたのも束の間だった。
サンドラは恐るべきことを口にした。
「兄様、恋人がいらっしゃるんですってね?」
「………………はっ?」
「兄様の大切な方に、私一度きちんと挨拶をしたいのです。……だから」
「大切な方って、おい。ちょっと待て」
「サンドラ様、それは誤解ですよ。彼女は……」
しかし、イファンがすかさず口を挟んできても、今日のサンドラは引き下がらなかった。
「いけませんか? 兄様。先日、兄様の大切な方にお会いした時、きちんと挨拶出来なかったので、とても気になっていたんです」
「いや、いけないも何も……」
まず、リアラはレイヴィンの恋人ですらない。大体、恋人役自体を、嫌がっていた彼女が、本物の恋人と勘違いしているサンドラと会うはずもないのだ。――だけど。
(その要求を呑めば、少なくともパーティまでは、リアラを留め置くことができるのでは?)
嫌だと言ったところで、これは国家行事の一端でもあると説き伏せれば、あるいは……。
そんな計算を、レイヴィンは冷静に、偏執的に心のどこかでしていた。
(情けない)
困惑と迷いの中で、ぼうっとしていると……
「兄様」
サンドラがしずしずと頭を下げた。その今までに見たことのない妹の殊勝な態度に、レイヴィンは思わず、まかせておけと、胸を張って了承してしまったのだった。




