第4章 ⑥
書店は、とっくに閉店してしまったに違いない。
周囲には、夜の気配が立ち込めていた。
遠い空は、青紫色になっていて、陽は完全に落ちている。再び静けさを取り戻した私邸の前で、響くのは時間によって吹き上がる仕組みの噴水の水音だけだった。
「エスティーナ様。今、何とおっしゃって……?」
「あら。女性に何度も愛の告白をさせようなんて、野暮な男ね」
「本気でおっしゃっているのですか?」
アイゼルは碧眼を瞬かせて、何度もエスティーナを見返していた。
「それに、薬をばら撒いて、わたくしを足止めしても無駄よ。アイゼル。貴方とは付き合いが長いのだから、対処の薬くらい持ち歩いています」
「…………申し訳ございません」
(薬……って?)
……一体、どういうお国柄なのだろうか?
リアラがどっと疲労感を覚えていると、いつの間にかレイヴィンがすぐ隣に戻っていた。
彼もまた疲労困憊なのだろう。小さく欠伸をしていた。
「姫様は王子との破談が信じられなくて、この国にいらしたのではないのですか?」
「おい、アイゼル。破談も何も、元々私と彼女の間には縁談の話自体なかったんだからな」
レイヴィンが鋭く突っ込むと、エスティーナも首肯した。
「そうよ。何度も同じことを言わせないでちょうだい。わたくしがここに来たのは、お前を捜していたからよ」
「…………本当に?」
「黙ってわたくしのもとからいなくなろうだなんて、ひどい男よね」
エスティーナは静かな眼差しを、アイゼルに向けていた。きっと彼女は彼に会った時に、絶対告白しようと決めていたのだろう。一切の迷いがなかった。
「しかし、エスティーナ様。貴方はいつもレイヴィン殿下と一緒にいらして」
おろおろしながら、声を潜めたアイゼルは、先ほどとは別人のようだった。
「だから、思い違いだ。エスティーナは私を当て馬にしていたのだ。まったく最悪だった。お前に振り向いてもらえない腹いせで、私に好意があるふりをしていたのだ。お前の目がない時は、それはもう辛辣な女だった」
「本当、レイヴィンは口が悪いわね。でも、そうね。その通りよ。わたくしは、ずっと貴方に振り向いてもらいたくて躍起になっていたのよ。アイゼル」
「……ですが、エスティーナ様」
「分かっているわ。貴方とわたくしは結ばれない。だから言わない方がいいと思っていたの。でも、結婚しなければならない年齢が近づいてきて、レイヴィンは敏感に察したのね。恋人がいると宣言して、わたくしに貴方と向かい合うよう、うながしたのよ」
「ぼっ、僕には無理ですよ。そんな……、急すぎて、何が何やら混乱してしまいます」
語尾になるにつれて、アイゼルの声は細く小さくなっていった。
レイヴィンが苦笑混じりに言い放った。
「……まあ、お前が無理かどうかは、私にとってどうでもいいのだ。私はエスティーナとの腐れ縁を、切りたかっただけなんだから」
「腐れ縁……?」
(あっ)
そうして、リアラは、レイヴィンが彼らの仲を取り持とうとした理由を見つけた。
彼はただの善意で、エスティーナとアイゼルを引き合わせようとしたわけではなかったのだ。
(…………そうか)
彼は、あまりにも本について無知だった。
そして、毎回発刊されるのは、身分差の悲恋物語。王子の文章は、緻密で細部も入念に書かれている。リアラの好みではなかったが、臨場感あふれる話には、熱狂的な愛好者も数多く存在している。
(……私小説っぽかったわよね)
ならば、身分差愛を経験していないだろうレイヴィンがあんな文章を書けるはずがない。
レイヴィンの本を書いていたのは、きっと…………
「…………王子の本を書いていたのは、エスティーナ様だったのですね」
「リアラ嬢……」
ぎょっとした顔でリアラを威嚇したのは、イファンだった。
「いや、だって、すいません。考えてみたら、王子が身分差の恋物語を書くようには見えなくて……ですね」
レイヴィンは、リアラの肩に手を置いた。
「………………ああ、そうだ。もう良いだろう。バレてしまったのなら、隠す必要もない。君の言うとおり、私の寒い本は、すべてエスティーナが書いたものだ」
…………やっぱり。
リアラの思ったとおりだった。
もっとも、レイヴィンが下手な嘘をついていることには、気づいていたのだから、妄想狂のリアラでなく、常人であれば、もっと早く見破ることもできただろう。
(……て、じゃあ、つまり王子が私を雇った理由って、ほとんどが嘘だったのね)
ようやく、レイヴィンがリアラに異様に優しかった理由が分かった。
……まあ、この期に及んで、文句を言っても仕方ないこととはリアラとて分かっている。
しかし、現状、とてつもなく癇に障るのは、後ろめたいことをしていると、あれほどリアラに謝罪していたくせに、とても上機嫌なレイヴィンの姿が近いことだった。
(どうして、嬉しそうなの?)
背負っていた荷物が軽くなって、安堵したのだろうか?
身軽になって、気分が良いのは、大変宜しいことだが、気持ちも開放的になって、リアラとの距離をどんどん縮めてくるのは、やめてほしかった。
「あの、王子。ちょっと……?」
「凄いな。リアラ。慧眼だ。君の読解力はやっぱり、凄いんじゃないのか」
「……そんなことはどうでもいいから、離れ……」
横に押しやろうとしたら、逆にぐいっと、抱き寄せられた。
褒めながら、嫌がらせをしてくるなんて、なかなか器用な人である。
「そう、君の言うとおり、私が恋愛話なんて書くはずないのだ。なのに、エスティーナは強引にこの国で私の名で出版してしまった。パルヴァ―ナで王女が悲恋本を出版することなんて許されないから、仕方ないとは思ったが、それでも、文学賞を取った日には、生きた心地がしなかったな」
「…………それで、レイヴィン殿下は、僕とエスティーナ様を?」
アイゼルが魂が抜けたかのように、額に手を置いた。
「悲恋がなくなれば、あんな痛い話を彼女が量産しなくて済むだろう。私はずっとお前にそれを伝えたかったが、第三者が首を突っ込む問題じゃないと思って、あえて放っておいたのだ。……でも、もう限界だ。いい加減、エスティーナをどうにかしてくれ。アイゼル」
「しかし、僕は騎士でもなければ貴族でもないんです。そんな僕じゃ、姫様とつり合いが…………」
黙り込んで懊悩しているアイゼルに、リアラは、興味津々だった。
(ふふふっ。「身分差」、「禁断愛」「姫と従者」垂涎モノの単語が連発されているじゃないの……。おいしさ満点だわ)
現実に姫君との身分差愛に悩む青年を眺める機会なんて、これを逃したら二度とないだろう。
…………けれども、思わぬ方向から、リアラは舞台に引きずり込まれた。
「……貴方はどうなのです。リアラ=クラウス?」
「……………………はっ?」
気が付けば、アイゼルが澄んだ瞳をリアラに向けていた。
「貴方は身分差があっても、どんな試練があっても、レイヴィン殿下と共にいたいと願うのですか?」
「いえ、私の場合は……」
(何だ。この人、まだ気づいていないんだ)
真実を告げようとしたリアラだったが、突然、後ろからレイヴィンに腕を引っ張られた。
「…………な、なん?」
「ここで、奴に暴露してどうなる? 後のことは置いておいて、とりあえず、調子の良いことを言って、この場で、くっついてもらった方が後味も良いだろう?」
背後から密着した姿勢のまま、レイヴィンはリアラの耳に口元を寄せて、小声で囁いた。
「まあ、それはそうですが……」
確かに、リアラとしても不必要に二人の仲を壊す必要はない。
できれば幸せになってもらった方が後味も良いのだが……。
でも、どうやって芝居をすれば良いのか分からない。
仕方なく、リアラは付け焼刃な薄ら笑いを浮かべてみた。
「あー、えーっと、そうですね。私は、乗りかかった船ですし、そのまま乗ってしまうしかないかなって、思いまして……ね。考えたら負けが信条なんですよ。アイゼルさん」
「それは、……一応、殿下に対する愛情表現なんですよね?」
「…………まあ、人類愛は重要ですから」
「はい?」
「リアラ。君はどうして、エスティーナのように、簡潔できっぱりと言わないのだ?」
「簡潔できっぱり言うのは、私の流儀ではないのですよ。何しろ、人生がまどろっこしい遠回りの連続ですから」
「妄想世界の住人は嫌と言うほど、直截に愛情表現をしているのだろう。君は何故それを現実に言えないんだ? いっそ、ここが妄想だと思って口にしてみれば良いじゃないか」
「はあ?」
冗談じゃない。
(何で、私がそんな寒々しいことを言わなきゃならないの?)
現実に自分が言ったら悪夢だからこそ、妄想出来るのだ。
彼は、まったくそれが分かっていない。
「それとも、君はやっぱり怒っているのか。リアラ?」
「私がですか?」
頼むから、耳の近くで呟くのをやめて欲しかった。
けれど、身じろぎしても、彼はやめる気配がないのだから、意見したところで無駄だろう。
………………絶対、わざとやっているのだ。
「私は君に嘘をついた。それに、色々と言ってはいけないことを言ったと思う」
それは、たとえば、他人が書いた小説の協力要請をしたのみではなく、それが嘘で、恋人役の囮だったことだろうか? それとも、先ほど、エスティーナに言っていた変態痴女というリアラを示す言葉のことだろうか。
(でも、まあ……)
リアラは満面の笑みを浮かべた。
「どうして? 私には別に根に持つ理由もありませんし」
「……だがな」
「まあ、現実世界では、そういうこともあるでしょう」
どうせ今日限りのことだ。彼の戯れに付き合うのも、ここまでだと見定めているから、リアラはどこまでも冷静でいられるのかもしれない。
「リアラ。君は……」
「あらあら、いやだわ。二人の世界を繰り広げないでちょうだい」
エスティーナが口元に手を当て、にやにやしながら、こちらにやって来た。
「まあ、いいけど。そちらは、必要以上に上手くまとまったみたいだし。飛び入り恋敵のわたくしのせいで壊れずに済んで良かったと思うことにするわ」
「それは、どういう?」
リアラが目を回しながら問うたが、答えが返ってくる前にレイヴィンに遮られた。
「礼はいらない。後は、とことん二人で勝手に話し合って決めてくれ。私はもうやるべきことはやったのだから、関係ない」
「まったく、感謝のしがいのない男ね」
「……も、申し訳ございません。姫様。僕はまだ」
すっかり小さくなってしまったアイゼルに、エスティーナは、艶然とうなずいてみせた。
「分かってるわよ。アイゼル。決まってしまった結婚を阻止しようなんて、わたくし思っていないわ。……ただ、せっかく作ってもらったこの機会に、ちゃんとお前に言いたかっただけ。一方的な告白なの。お前は何も気にしなくていいわ」
そして、向き直るとレイヴィンの肩を叩いた。
「いい加減にしなさい。レイヴィン。彼女にはまだ刺激が強いのよ」
「そんなことはないぞ。彼女の読書本の方が、刺激が強すぎる代物だ」
――それは言えている。
だけど、想像するのと、実際するのとでは大きく違うのだ。
レイヴィンは、仲の良さを、アイゼルに見せつけて、嗾けているつもりのようだが、一体、ここまでする必要があるのだろうか?
巻き込まれているリアラは、大迷惑だ。
せっかくエスティーナが指摘してくれたのに、見かねたイファンが間に入ってくれるまで、レイヴィンはリアラを離してくれなかった。




