第4章 ④
レイヴィンの私邸とはいえ、玄関から外に出るまでの距離はずいぶんと離れている。
リアラは、正面の人工池を回って、延々と続けく花壇を横にして歩いた。
こちらの植物は、早朝、園丁を呼んで手入れをさせているらしく、リアラはまったく関与していなかったが、要するに下手な公園よりも、自然豊かで広々としていて、歩いていると疲れるのだ。
だからこそ、リアラは、焦燥感にかられている。
無駄に広い敷地の中で、迷わないように必死になっていた。
(早くしないと、書店が閉まってしまうわ……)
いつもは、書店まで馬車で送ってもらっていたような気がする。
何処に行くのも、誰かの目があった。
『今日も、出掛けたらしいな』
私邸に立ち寄ったレイヴィンに、よくそう声をかけられた。リアラはその言葉に、何の感情も抱かなかったが……。
(あれは、私の行動を確認していたのね?)
……だったら、リアラは、うかつだったかもしれない。
「…………私」
最悪、死んでも良い存在だから、恋人役に抜擢された。
そうだしたら、リアラは傷つくことこそが前提の囮だ。
レイヴィンは、何者かがリアラに襲いかかってくることを期待しているらしい。
つまり、一人になることは、襲って下さいと、相手に誘いをかけていることと同じなのだ。
(そんなに楽しみな本でもないのよね……)
発売日を忘れていたような本だ。明日、買っても良いのではないか?
危険を冒してまで、書店に行く必要なんてない。
囮だと分かった今、どうせ襲われるのなら、空気のような護衛を頼るより、見知った誰かと一緒にいた方が安心できるはずだ。
(でも、手ぶらでは帰りたくないしな)
今、ふらりと帰ったら、いかにも二人を意識して外に飛び出したふうに見えてしまう。
リアラはレイヴィンに対して、何の感情も抱いていないし、抱くはずもないのだ。平凡薄幸美少女ならともかく、変態と王子。世の中を冒涜したような組み合わせではないか。
(……そんな、恐ろしいこと考えたこともないわよ)
嫉妬なんて、恐れ多い。
(不毛だわ……)
自分の身の程を、リアラは弁えているつもりだ。
…………………いつだって、友だちも恋人も、紙の中にいた。
きっと、これからも本だけは自分を裏切らないと、思い込みながら生きていくのだろう。
――でも。
(……本当に、私はそれでいいの?)
「おいっ! リアラ!! 待てと言っただろう!」
背後から、レイヴィンが猛烈な速さで追ってくる。
「へっ」
陸上選手に鞍替えするつもりなのではないだろうか。それほどの見事な走りこみだった。
(何で?)
リアラは驚倒しそうだった。なんという王道的な展開を迎えているのだろう。夢でも有り得ない。
一瞬、逃げ切ってやろうかと思ったが、何でリアラが逃げなければならないのか分からなくなって、立ち止まった。
分からない。
――どうして、彼がリアラなんぞを必死に追いかけて来るのか?
「…………私、屋敷に忘れ物をした記憶はないのですが?」
「私は、君を追いかけてきたんだ」
率直に告げられて、リアラは言葉に詰まった。
その間隙を逃すまいと、レイヴィンは早口になって喋る。
「すまない。私は君に酷いことをしていたし、今もしている」
「あ、いや、大丈夫です。分かっていますから……」
何だ。謝罪するためにわざわざ追ってきたのか。
……良い人だ。
リアラは、務めて明るく笑った。
「王子は気にする必要ありません。お国のことはよく分かりませんが、ちゃんとお代は頂いていますし、私は好きな本も沢山買えて大助かりです」
「いや、私はまだ君に隠していることがある。……だから」
「話さなくていいですよ」
リアラはあっさりと言い放った。
「私も同じです。王子に話したくないことが沢山あるんです。だからいいんですよ」
「リアラ?」
これ以上、話を深刻にさせてくれるなと、拒絶する。
「怪我をする気はありませんが、本は命より大切なので、今から買い出しに行ってきます。誰か護衛の方も、私の近くにいるのでしょう。だったら、私のことは気になさらないで下さい。ちょっと、書店に行くだけですから。あっ、エスティーナ様によろしく」
強情を張って……、けれど、歩き出したリアラの腕を、レイヴィンが強く引いた。
「うおっ!!」
後ろにひっくり返りそうになったリアラは、血相を変えた。
「危ないじゃないですか? 掴むなら掴むと言って下さいよ」
「ああ、そうだな。分かった。じゃあ、今から私はこのまま君を抱き寄せるから、心の準備をしてくれ。いいな」
「はっ……?」
拒否するほどの時間もなかった。
レイヴィンが抱え込むようにしてリアラを抱擁した。
ーー刹那、突風と共に、空から人が降って来た。
リアラは瞳を眇めて、それを目撃した。
黒ずくめの格好をした男たちと、白銀の髪の青年がもつれあうようにして、目の前に鈍い音を立てて着地する。
「なっ!?」
「……どうやら、ようやく、待ちに待っていた目的が来たらしい。私が君といる時で良かった」
「目的……とは?」
「暗殺者だ」
「………………は?」
――暗・殺・者?
真顔で聞いたこともないような単語を、リアラは何とか心の底で咀嚼する。
けれども、その空から降ってきた非常識な暗殺者は、リアラが動揺している暇すら与えてくれなかった。
「……貴方が、リアラ=クラウスですね」
意外に小柄な青年がリアラの前に立っていた。
口元に付着している血を拭う青年の顔には、表情がない。
無造作に手にしている武器は手のひら程度の大きさで、殺傷力は低そうだが、リアラの見たことのない両刃のものだった。
(さて、どうしよう?)
正直に名乗った方が良いか、リアラが迷っていると…………
「だんまりを決め込むつもりですか。いいですよ」
彼は勝手に結論付けて、素早く胸元で手を合わせた。途端に再び風が吹き荒れる。
まるで竜巻だ。地面を抉って発生した砂煙に、リアラの目は、使い物にならなくなってしまった。
「ちょっと、あの人が目的って、もはや人間じゃないですよ。暗殺者って、どこの本の世界の回し者なんですか?」
「本じゃない。現実だ。あいつの家系は、特殊な暗殺者の家系なんだ。代々、風を操る力を継承するらしい」
「その……、暗殺者に特殊能力の付録付きって、凄まじい人が存在するのも驚きなんですが、…………風使いって、それもまた」
…………魔法使いだ。
本の世界でも滅多にお目にかかれない「魔法使い」が、現実に存在して、リアラを狙っているのだ。
今、まさに、リアラの囮としての力を発揮する事態となっているのは、充分に分かったが……。
(こんな人がいきなり襲って来たら、普通死ぬわ……)
リアラに不死身設定はないのだ。
さすが、レイヴィン。とんでもないことをしてくれた。
こんな地域限定の嵐がいつまでも続いたら、本気で命が持たないだろう。
目に入った砂を取ろうと、リアラが必死に目元を擦っていると、近くで悲鳴がこだました。
「殿下っ!!!」
イファンである。切迫した状況をうかがわせる声音に、リアラは戦慄を覚えた。
先ほどは、大丈夫だとレイヴィンに請け負ったリアラだったが、やはり実際危険に晒されると、体が震えてしまう。無意識のうちに、リアラはレイヴィンのコートを掴んでいた。
「…………王子」
神に祈るがごとく、そう呟いた瞬間……、リアラは、更に強い力でかき抱かれた。
「……っ」
息が詰まるほど体が密着している。目が見えなくとも、彼の顔が間近にあることは、その吐息の熱さで分かった。
鼓動が跳ねる。それは恐怖のせいか、それとも……。
(ただの勘違いよ……)
人間、生命が危機に晒されると、種族を維持しようとする本能が働いて、相手を意識してしまうものなのだと本で読んだ。
(……落ち着け)
けれども、いくら自分に言い聞かせても、リアラの顔は火照ってしまい、つま先から指の先まで、がちがちに硬直するばかりだった。
(……大体、おかしいわよね?)
レイヴィンは、リアラをすっぽり包み込むようにして、抱きしめている。
(……王子様が囮をかばって、どうするのよ?)
盾にするべきリアラを、彼は自らの手で護ろうとしているのだ。
「殿下! 早く、お逃げて下さい!!」
イファンが声を枯らして、叫ぶ。
だが、レイヴィンは一歩退くのみで、立ち去る気配はない。不遜に言ってのけた。
「私は逃げないぞ。イファン。法に触れることをしたわけでもないのだからな。まあ、確かにリアラ。君には悪いことをしているとは思っているが……」
「いや、その……」
リアラが返答に困っているうちに、レイヴィンは青年に向かって怒声を張り上げた。
「おい! アイゼル! いい加減にやめろ。一体何のつもりだ」
「貴方がそこの人を諦めるまで、やり続けます」
何処からともなく、激情を隠した静かな声が返ってきた。
「無駄なことをするな。馬鹿が! 少しは私の話を聞いたらどうなんだ?」
―――――と。ふいに、風がやんだ。
今までの出来事が、幻だったかのように……。
辺りを森閑が支配し、皆が全員、人形のように、動きを止めたのだった。




