第3章 ②
微妙な沈黙に耐えられず、リアラは困惑して口を開いた。
「あのー」
だが、レイヴィンはリアラに話しているくせに、リアラの存在を無視して、謎の剣幕で話を進めていった。
「…………恋人なんていないのだ。いると見せかけているだけで、実際に存在なんてしていない」
「そうなんですか?」
レイヴィンの激しい勢いに、リアラは後ろにのけぞるしかなかった。
(別にどうだっていいんだけど……)
リアラにとっては、レイヴィンに恋人がいようが、妻がいようが、双子がいようが、関係なかった。
……なのに。レイヴィンは気まずそうに寝台の上に正座で座り、肩をすくめている。
(何で?)
「縁談を断るために、どうしても架空の恋人が必要となったのだ。付け焼刃であったが、仕方ないことだった」
あっけなく告白されて、リアラは面食らった。
確かに、言われてみれば、王子の「彼女」という女性の気配は一切なかったような気がするが。
「……何だ。そうなんですか。了解です。まあ、王子はおモテになるから、いつでも簡単に恋人なんてできますよ。大丈夫です」
「何が大丈夫なんだ? 今の熱さと目の輝きは何処にいったんだろうな?」
「……熱かったですか?」
「一瞬、この私が、……この女、めちゃくちゃにしてやろうかと本気で思ったくらいだ」
「それは、失礼しました」
彼が本気だと悟って、リアラは恭しく頭を下げた。
しかし、再び静かになったレイヴィンを見下ろしていると、彼は怒っているというより、拗ねているようにも見えた。わずかに唇を尖らせている。
「いくらその場限りの「恋人役」とはいえ、男を立てるほど酔狂ではないぞ。……私は」
「……恋人はいなくて、恋人役はいるのですか?」
「ああ。恋人ではないが、恋人役ならちゃんと実在しているのだ」
「それはすごい。王子も準備が良いですね」
にっこり笑うと、レイヴィンは震える手でリアラの頬を軽くひねった。
「………………君に、決まっているだろう」
「はっ?」
「………………君だ」
「何が?」
「だから、今は、君が私の「恋人役」なのだ」
あまりにも、彼の滑舌が良かったせいで、リアラは自分の耳を心配した。
とうとう、幻聴が聞こえるようになってしまったのか?
レイヴィンの私的な事情なんかより、その一言がリアラにとって、最重要で大切なことだった。
「………………王子、今、何ておっしゃいました?」
「君は今まで一度も、自分が私と「恋人」っぽいことをしているという自覚を持っていなかったのか?」
「あれはネタですよね?」
「小説のネタとしても、恋人として内外に宣伝するのにも、私にとっては都合が良かったのだ。君が私の恋人だと、密かに雑誌社や新聞社に情報を流してある。表沙汰にはならないようにひっそりとだが、まことしやかな感じで噂を流しておいた」
「………………う、嘘ですよね? ははっ。嫌だな。そんなに裸を見られたのが屈辱だったんですか? それとも、イファンさんが好きだと言い当てられたのが悔しかった……とか」
「いまだに、奴と私を疑っているのだったら、侮辱罪で告発するからな。それとこれとは別問題だ。今更、告白するのも卑怯で申し訳ないが、これに関しては、許してほしい」
「……本当に、本当なんですか?」
「事が終わるまで黙っているつもりだったが、君にイファンとの仲を疑われるくらいなら、すべて白状した方が楽だと思ったのだ。最低なことをしているという自覚はもちろん持っている。だからこそ、報酬はきちんと支払うし、君の名誉も身の安全も、ちゃんと守るから、安心して欲しい」
「…………安心って?」
(嘘……よね?)
今まで結構なことがリアラの身の回りで発生したが、今回ばかりは、そのどれも越えていた。
(まだ、愛人の方が良かったわよ)
レイヴィンとリアラが「恋人」という設定は、絶対にありえないこととして、リアラの妄想の種にもならなかった。
現実世界では、そう簡単に狼狽をしない自信があるリアラでも、今回の件は、吐き気をおぼえるほどの衝撃力だった。
……なのに。
レイヴィンの口調は腹が立つほど穏やかだった。
「だからな、君は私の恋人なのだ。当面、私たちがいちゃくつくことは大切なことなのだ」
(何それ……?)
かすかにレイヴィンの目が笑っているのは、嫌がらせのつもりなのだろうか?
すべてを告白して、一人楽になったとでも言うのか……。
「大体、恋人でもないのに、王宮内に一般人は呼べない。いろんな面でまずいだろう」
「まずいですね。でも、私、知らなかったんです」
「そうだろうな。私も今、初めて話したのだから。しかし、私が話さなかったら、君は一生知りもせずにいたんだろう。悔しいほど、のほほんと本の妄想に耽っていたのだろう。……そんなの許せるはずがないだろう」
「よく分かりませんが、それは腹いせですか? でも……、王子は恋愛に興味がない妄想痴女が大歓迎だと仰っていたじゃないですか。こんな危険ブツが恋人なんて、嘘だったとしても、王子の沽券がですね……。というより、この国の未来が……」
「沽券? 何だそれは。君一人の存在で、国が揺らぐほど、我が国は、脆弱ではない。大体、君は現実には興味ないんだろう。だったら、ちょっとの間くらい、名前を借りたって良いじゃないか?」
「ちょっとの間って……」
リアラは、倒れそうになるのを懸命に堪えた。
……大変なことをしでかしてくれたものだ。腹黒王子め……。
(私が、王子の恋人なんて……ふりであっても)
――有り得んわっっ!!
机があったら、リアラは激しく、ひっくり返していたことだろう。
(でも、そうか……)
そうだとしたら、、リアラが狙われた理由も簡単だ。
――こんな女が恋人だなんて……。
(王国の民が、根こそぎ私を倒しにやって来るわ)
ボヤ騒ぎで落着したのは、不幸中の幸いだと感謝するべきである。
リアラの両親の死なんて、まったく関係なかった。心配したリアラが馬鹿だった。
「王子はご乱心気味なのですか?」
リアラの真面目な質問に、レイヴィンは目をすがめた。
「私は見てのとおり、いたって正気だ。もう良いではないか? たまたま、恋人役について、イファンと話していたところに、君がパンをくわえて私の前から逃げて行ったのだ。こんな偶然ないと、普通思うだろう?」
「普通が何なのか分かりませんが、人選にはもう少し、慎重になるべきだと思います」
「君はイファンと同じことを言う。でも、許してくれ。私はどうしても、急いでいたのだ」
「許すも許さないも……」
そういう問題ではない。
リアラが王子の恋人役というのには、どうしたって無理があるのだ。
何が悲しくて、妄想変態娘を恋人役にしなければならないのか……。
リアラが真っ当な男だったら、そこは絶対に避けようとする選択だろう。
(想像以上の人だわ……)
しかし、もう遅い。今更何を口にしたところで、どうにもならないことは分かっていた。嫌だと突っぱねたくても、前金でもらった金の一部はすでに本代に消えているのだ。……ならば。
「それは、その……、一定期間みたいなものが過ぎたら、終わるんですよね? あくまでも、王子には至急恋人役が必要だったってわけで?」
「…………ああ。近日中に目的を達成する予定だから、君も自由になるだろう」
「何だ。だったら、先に言って下さい。本当、一国民として恐ろしい暴挙なんですからね」
「だが、最初から私の恋人役だと正直に話したら、君は絶対に引き受けなかっただろう?」
「…………それは、まあ。今だって、相応しい人がいると思っていますし。相応しい人がいたのなら、とっとと交代しようって気持ちでいっぱいですけど……」
「つまらん女だな」
レイヴィンは、不機嫌に呟いた。
何を怒っているのだろうか……。意味が分からない。ともかく、利用するのも大概にしろ……と、リアラが怒鳴らないだけマシだと思って欲しかった。
「ところで、リアラ」
「……はあ? 私のことですよね?」
「君以外誰がいるんだ?」
「……ですね」
唐突に名前で呼ばれて、一瞬リアラは放心した。何しろ、今まで、「君」としか呼ばれたことがなかったのに、いきなりちょっと不機嫌な感じで、呼び捨てである。
「リアラ。今の告白ついでに、これも話しておきたいのだが……。私自身にも理由がさっぱり分からないのだが、先ほどから、君が風呂上がりだと知って、石鹸の香りを嗅いでしまった頃から……、なんか、こう、私の気持ちがおかしな方向に向かっていってしまったようなのだが……?」
「おや。それは大変ですね。王子に分からないのなら、私にも分からないでしょう? おかしな気持ち……ですか? 具体的にどんな?」
「君のその格好は、少し………。扇情的だ。さっき警告はしていたぞ」
「戦場ですか?」
「多分、違う」
否定と共に、特大な溜息が返ってきた。
リアラは何度も首をかしげながら、ぼろぼろのナイトドレスを見返した。
まあ、付き合いの長いナイトドレスだから、首の辺りがよれて、少しだらしない風情だが、それが一体なんだというのだろうか?
風呂上りの石鹸の香りが、着古したドレスの臭いに勝っていて、助かったと感謝こそすれ、リアラ自身、自分のどこが扇情的なのか、まったく見当もつかなかった。
「つまり、ぼろいから、脱げと?」
「…………脱いでくれるのか?」
「なぜ、ここで?」
お互いに黙り込んでから、レイヴィンが心底困った風情で口を開いた。
「このまま、この手を君の首元に回して、寝台に引きずり込んでしまおうと、心身ともに企みはじめてしまったのだが、一体、私はどうしてしまったのだろうな。何やら、こないだから、しょっちゅう、こんな感じなのだ」
「口にすると、とんでもない企みですね。王子は媚薬でも盛られたんですか?」
「そんなものは、君がやっていないなら、盛られてないと思うが? ……とりあえず、君をこちらに引っ張り込んでも良いか?」
「いやっ、それは駄目でしょう。その企みは本能という魔物です。意識を引っ張られたら、最後ですよ。王子、神に誓って私には手を出さないと言った言葉をもう一度思い出して下さい」
「しかし、君があまりに強情で、夢見がちで、変態で、現実の王子よりも紙の王子が好きだとか、公言しやがって、私なんてどうでも良いという、この国の国民としてあり得ない態度で、腹が立って、めちゃくちゃにしてやりたいという欲求は何処にいけば良いのだ?」
ああ、目がすわっている。やはり、媚薬か? 酒か?
リアラはそそくさと部屋から退出しようとしたが、レイヴィンはリアラの腕を掴んでいた。離すつもりはないらしい。
「ああっ、もう!」
リアラは急いで寝台に回って枕をひったくり、レイヴィン目がけて投げた。
「落ち着いて下さい! 王子!」
「落ち着くのは、君だろう?」
そして、起き上がったレイヴィンが床に落ちた枕を拾って、こちらに投げ返してくる。
胸元で枕を受け止めたリアラは
「私は、常に冷静ですよ? だって、そうでしょう? 王子が私をいくら利用しようとしたって、私は平生そのものじゃないですか。冷静の鏡です」
叫びながら、おもいっきり投げた。
「何が冷静だ。冷静なのは現実を見てないからだろう! 冷静と諦念は違う。いつまで夢を見ているんだ。君は十八歳だろう!? 現実に負けるな。立ち向かえ!」
しかし、レイヴィンは枕を正確に捕えていて、再びこちらに投げて寄越した。
いつの間にか、その繰り返しになっていた。
「ちょっ! 意味が分かりません。夢見て何が悪いんですか!?」
「夢見がちの変態が!」
「王子だって、変態じゃないですか! 今のは何ですか? その夢見がちな変態の新人類にまで、手を伸ばそうとしたのなら、立派な変態ですからね!」
「意味が分からん! ただ、むしゃくしゃして、欲しくなってしまっただけではないか」
「すごい変態です。魔が差すにしても、よりにもよって私ですよ! 血迷ったんですか! 頭に何かわいてしまったんですか!」
「だから、私にも分からないと言っているだろうが!」
――――――そうして、二人の間で、延々と枕は飛び交い続け……、
気が付いたら、夜が明けていた。




