掟
俺は30分程も公園のベンチに座っていただろうか、周囲を見渡すと
日が大きく傾き、夕日が射していた。俺は肌寒さを覚えベンチから立ちあがり
公園を後にした。
15分程大通りを歩き、右に折れ、一本裏の路地に入った。
暫く歩くと、大通りの騒々しさとはまるで別世界になる。
洒落た建物は殆ど無く、人通りも多くは無い。
大通りに立ち並ぶ様な、洒落た雰囲気の店は無いが
落ち着いた年季を感じさせる、店を見つける事が出来る。
いよいよ夕闇が迫り、路地には疎らに街灯が点き、通り沿いの店にも明かりが灯り始めた。
俺は迷う事無く、ある店のドアを押した。
店の看板には「Billy」と書かれている。
ドアを開けると、マスターは俺に一瞥をくれただけで、特に愛想を言うわけでも無く
グラスを布で、黙々と磨き続けて居た。
6~7人が腰かけられるカウンターと、4人掛けのテーブルが2つ
客は未だ居ない。
俺は、いつも座る一番奥のカウンターに腰を落ち着けた。
店内は照明が落とし気味にしてあり、壁やカウンターもスツールも
全て、茶系で統一され、静かにジャズが流れている。
凝った調度品は無いが、ウッドのスツールもカウンターも
徹底的に磨き上げられ、照明を照り返している。
マスターは既に60を超す年齢だと思うが、詳しく年齢を聞いた事は無い。
俺の目の前に、ウィスキーを満たしたロックグラスが差し出され、その傍らに
ヴァランタイン21年物のボトルが置かれた。
数年前に初めて、気まぐれに「この店」を訪れ、銘柄に迷っているとマスターが
勧めてくれたものだ。
マスター曰く、スコッチの老舗であり名門のメーカーだと言う。
その時以来、この「ヴァランタイン」以外この店で飲んだ事は無い。
グラスには、マスターがアイスピックで整形した氷が使われている。
決して「製氷機」の角ばった氷をそのまま客に出さない所に
マスターの頑固さを伺わせる。
たまに店で顔を合わす常連客の話だと、マスターは若い頃に
有名な老舗店で「バーテンダー」の修行をかなり厳しく仕込まれたらしい。
成程、身のこなしや、シェイカーを扱う手付きは鮮やかなものだ。
その客の話によると、20年程前に、勤めていた老舗店から独立し
以来、この店を続けているらしい。
しかし俺は、よくこの店が続くものだと感心する。
確かに店の雰囲気は良く、拘った営業スタイルは好感が持てる。
だが、流行りのスタイルでは無く、また愛想や色気と言ったものも全く無いのだ。
店で客の応対をするのは、何時も不愛想なマスター一人。
たぶん、開店当初から、20年間この雰囲気は変わっていないと思われる。
また、これから10年先も変わる事は無いだろう。
「しばらくだったな」
物静かにマスターが呟いて来た。
この店を訪れたのは20日ぶり位か、、、。
「仕事が忙しかったものでね」
と俺は答えた。
マスターは微かに頷いた様だった。
と、言っても俺の本当の仕事を知るわけも無い。
俺は普段、週2日程はこの店に訪れる。
確かに仕事が忙しかったのは事実だ。
仕事を請け負うと、その仕事が終わるまで、一滴も酒を口にしない。
何故ならその間中、感覚を研ぎ澄ましているからだ。
その期間は、1週間の時も有れば、1ヶ月に及ぶ事も有る。
先ず、須田から仕事を持ちかけられると、依頼者から告げられた標的に
関する情報を聞き出し、その場で出来るかどうか判断をする。
気が向かなければ、当然断る事も有る訳だ。
仕事を請け負ったら、須田から得た情報を基に、標的の下調べを自分でする。
依頼者からの情報は、必ずしも正しくは無いからだ。
その情報を鵜呑みにして動くと、こちらの命が危なくなる。
俺は、供されたグラスを右手で持ち、一口喉に流し込んだ。
程良く、氷と溶け合った「ウィスキー」が喉を通り過ぎていく。
その瞬間、微かに喉が焼ける感覚が有るが、間を置かず豊かなスモーキー・フレーバーと
モルトの味わいが、口中に満ちてくる。
店内には「マル・ウォルドロン」のジャズピアノ。
曲名は「恋を知らない貴方」
マスターは、俺がこの曲が好きなのを知っていて
さりげなくレコードをかける
軽く、酔いが周り
俺はピアノの旋律にを耳を傾け続けた。
胸中にまた、過去が思い出される。
俺は1度、標的以外の人間を巻き添えにしてしまった。
俺は「殺し屋」だ
しかし、自分自身に課した「掟」が有る。
「女」と「子供」は絶対殺らない。
それは守って来た。
ただ1度ミスを犯した
標的以外は殺らない。
これを俺は、犯した。
「殺し」の、巻き添えにしてしまった男
その男には妻は無く
ただ独り「娘」が有った。
その「娘」を俺は孤児にしてまった。
その娘には身寄りは無く
俺が、その男を巻き添えに「殺って」しまった後
その娘は、養護施設に引き取られた。
俺は傍らに置いた「リュック」を引き寄せ
その娘の事を思った。