平謝りの母
年上の少年と戦った日の夜、俺は何事も無かった様な顔をして
母親と晩御飯の食卓に向かっていた。蹴られた脇腹が疼いたが極力
そんな素振りは見せない様にした。
食卓とは言っても、2人用の丸い小さな「ちゃぶ台」である。
そのちゃぶ台には、コロッケと千切キャベツ、味噌汁とご飯
質素な食卓だ。しかし俺にとって母親の作ったコロッケは格別なのだ。
店で売っているコロッケとは比べ物にならない。
俺は、ホクホクとしたコロッケを頬張って居た。
その時
乱暴に清風荘の引き戸を開ける者が有った。
「おい!氷室って奴居るか!!」
大きな怒鳴り声である。
母親を見ると
「え!なんなの?」言葉を発し、手にしていた茶碗と箸を、ちゃぶ台に置くと
母親は反射的にドアに向い、恐る恐るドアを開けた。
薄いドアを開けると、板敷の廊下が有り、右に視線を移すと
共同玄関には昼間、顔面にパンチを叩き込んでやったリーダー各の少年と
「怒りの形相」を隠しもしない父親と思しき人物が立って居た。
相手の少年は大きめのマスクで顔面を半分程、覆っていたが顔が「赤黒く」
腫れあがっているのは明らかだった。
少年の父親はまっすぐに右腕を伸ばし、母親を指さし
「おまえがこの坊主の母親かい?」と怒鳴った。
「俺の息子の顔を、こんなにしやがって」
「一体、どうしてくれるんだ!」
清風荘全体どころか、外の通りまで響く様な、怒鳴り声だ。
一番、面食らっのは母親であろう。
当然である。目の前で起こっている事が一切、理解できないで居るのだから。
母親は俺の方を向き
「達也、あんたこの子と喧嘩したの?怪我までさせて!」
俺の肩を両手で掴み揺さぶりながら「何て乱暴な事を!」
殆ど半泣きである。土下座する様な勢いで何度も相手の父親に頭を下げていた。
相手の父親は益々、勢いづいて毒づく口調はエスカレートした。
俺は、あまりにも激しい光景を目の前にして気が動転し、言い訳をする
事も出来なかった。
「人んちの玄関で何を騒いでるんだい!」
勢い良く管理人室のドアが開いた。
イヨさんである。
一瞬、沈黙し少年の父親は怪訝な目付きで、イヨさんを眺めた。
「婆あには、用がね~んだ、引っ込んでろ!」
「ふん、随分とご挨拶だね~」。
「たった独りの年下の子相手に、3人掛りで小突き廻したのは何処のどいつだい!!」
イヨさんの啖呵が炸裂した。
相手の父親の表情が怯んだのが解った。
いつの間にか、タカさんと、テツさんも騒ぎを聞きつけて
玄関に集まって来た。タカさんは「ボクシングを教えたのは、この俺よ」
「弱いもの苛めをする奴は許せね~」と凄んだ。いくら駆け出しとは言え
タカさんはプロボクサーだ。父親がいくらハッタリをかました処で
ビビる筈が無い。
テツさんは「オヤジいい度胸してんな」と言いながら、俺の真後ろに立ち
父親に向かい「喧嘩売りに来たのか?あ!」とこれも凄んだ。
テツさんは、日頃から肉体労働で鍛えているせいでゴツイ身体をしている。
口の頗る悪いイヨさんと、凶暴な雰囲気を全身に漲らせている男2人の前では
相手の父親も「分が悪い」と思ったのか
「覚えてろよ!」と捨て台詞を吐くのがやっとだったらしく
また乱暴に玄関の引き戸を閉めて、帰って行った。
その後ろ姿を見送りながら、母親はヘナヘナと崩れるようにその場に
へたり込んでしまった。
全くの放心状態である。
イヨさんは、優しく母親に
「たー坊は全く悪くないんだよ」
「かえって良く頑張ったって褒めてやりたい位さ」。
と声をかけてくれた。
みんな安心したのか、それぞれの部屋に戻って行った。
部屋に戻った後が大変だった、正気に戻った母親は
「もう2度と喧嘩なんかしないで!」
「もし達也が怪我をしたら、母さんどうしたらいいの!」
延々と、1時間は説教をされただろうか
2度と喧嘩をしない約束をさせられて、やっと解放された。
それにしても、今回の一件で改めて、清風荘の住人達に感謝の
気持ちを持った。
それ以来、例の少年達は二度と俺に「ちょっかい」は出さなくなった。
余程、俺を庇ってくれた、面倒な住人達に懲りたのだろう。