ある男の一生
50歳~60歳 花なら蕾
70歳~80歳 花、盛り
90歳 越えれば実になって
100歳 過ぎれば大地に帰る
人生まだまだこれからだ
●
大正十五年三月十九日(十五日に出生したが、届出をしたのが十九日だった)、樺太(現サハリン)泊居郡久春内村字牛毛(戸数約三十戸)の寒村に四男三女の三男(下から二番目)として産まれる。
村はじほとんど漁業7、農業3の割合で生計をたてていた。
昭和七年四月、小学校に入学、同年四月九日母病死、兄嫁に育てられる。
昭和十三年小学校卒業、家事の手伝いをする。
昭和十九年、海軍に志願する。同年五月二十七日、武山海兵団に入団、同年九月中旬に同海兵団卒業、一等水兵に進級、卒業と同時に第三十三戦隊第三監視艇豊栄丸へ配属になる。
豊栄丸(約百トンの木造船)は民間の漁船で、乗組員九名は軍属として私たち兵隊と同じく行動していた。
兵隊は艇長以下十八名、計二十七名。同年十月二十日頃と思う、第三監視艇約二十隻が基地横浜港を目的地に向けて出撃。
一夜明けると呂栄丸という僚船と二隻だけ。他の艇はそれぞれおの目的地に向かって航行しているのだろう。四昼夜くらい航行して、ようやく目的地に着いたようだ。
豊栄丸および呂栄丸の任務は、硫黄島から日本本土へ爆撃に向かうB-29爆撃機の飛来をいち早く本土へ知らせる役目だとのこと。哨戒区域に着いてから五日目の午後四時ころと思う、総員戦闘配置につけとの号令により、みなそれぞれの部署につく。
上空を見上げるとB-29爆撃機二十機くらいが編隊を組んで日本に向かっていた。その中にB-29の護衛のため、P-51陸上戦闘機七、八機が一緒に飛んでいた。
その中の二機が豊栄丸、呂栄丸に攻撃してきた。
豊栄丸も負けずと対空射撃で応戦したが、P-51戦闘機が小型爆弾を投下、豊栄丸の艦尾付近に命中、ものすごい音、また震動がした。一瞬、気を失ったようだ。
気が付いたときは海中で、浮遊物にしっかりつかまっていた。
死の恐怖は不思議と無かった。ただぼんやりとしていたように思われる。やがて、呂栄丸が救助に来た。その時になって助かりたい一心で大声を張り上げて助けをもとめたのをはっきりと覚えている。
哨戒区域に着いてから僅か四日目である。
救助されたのは十一名。うち三名は重傷である。
呂栄丸はすぐ本土に向けて帰港の途につく。
二日目、重傷のうち二名が亡くなる。
伊豆諸島の神津島沖に来たとき、富士山がはっきりと空に浮かんで見えたとき、思わず涙がでた。
昭和十九年十月二十七日は、私にとって生涯忘れえぬ日であり、思い出の日でもある。
横浜に帰港してから約二週間ほど三十三戦隊本部で待機、山下公園内で防空壕掘りをなどしていた。
十一月二十日ころ、盛勇丸に豊栄丸の生き残りの戦友四名と乗船。(豊栄丸とほとんど同じ百トンの木造船)
十二月初旬、また豊栄丸と同じ哨戒区域に向かって出撃。昭和二十年の元旦は太平洋上で初日の出を迎えた。
三、四日おきくらいにB-29が日本に向かって上空を飛んでいく。この回は一度だけP-51戦闘機が攻撃してきた。また、潜水艦にも一度攻撃された。豊栄丸でのことが頭をよぎる。やっぱり体が震え、怯えを感ずる。
昭和二十年一月中旬横浜港に帰港。同年二月中旬、また同じ哨戒区域に向け、横浜港を出撃。だんだんとB-29の温度に向かう飛来が激しくなる。
三月半ば。明日、日本に帰れると下士官に言われたときは嬉しかった。だがその日の夕方(午後三時頃)、P-51戦闘機が攻撃してきた。盛勇丸には艦首甲板に短五センチ砲一基、船橋前には二十五ミリ機関銃一基、船橋上には十三ミリ機関銃一基、ボート甲板に七.七ミリ機銃一基、艦尾甲板には二十五ミリ機銃一基装備されていた。
これらの機関銃で一斉に対空射撃すると、百トン足らずの木造船盛勇丸は、大地震にでも遭ったかのように今にもばらばらになるのではないかと思われるほど激しく震動する。
この間、僅か十五、六分くらい。
我々には一時間以上も戦ったように思いる。
P-51の機銃掃射により、我が盛勇丸も相当の被害が出た。負傷者八名(私も右足すねに)機銃弾がかすめ、かすり傷程度の負傷をした。
船体にも無数の機銃弾の穴持に。船腹を打ち抜かれた穴からは、船倉内の飲料水、食料、燃料油などに海水が浸入すると大変なことになり、また負傷者も多数居るので早急に本土へ向かった。
船腹の穴は、総員で木栓を打ち、仮修理をする。
横浜に帰ってから4月末、本部の命令により船体修理、機関整備のため名古屋の熱田同然所に廻航した。
名古屋も毎日のように空襲のため、船体修理もはかどらない。
五月一日付けで上等水兵に進級。
我々には何もすることがないので一日置き二日置きに外出もでき、けっこう楽しく過ごした。
八月十五日終戦。
私の故郷樺太はソ連領になり、帰るところもないので思案の末、我が家の祖先である富山県下新川郡旭町(元泊町)宮崎に行く。
親戚の家に厄介になり、富山市の戦災復興の土木作業をして暮らした。
姉また叔父が函館に居ると知り、昭和二十一年一月七日函館に来る。
同年一月十五日、叔父の世話で三井近海機船株式会社に入社。叔父が船長をしていた第三太平丸に乗船(甲板員)、叔父が同年三月末に定年退職、代わりの船長がくる。
四月末、利尻島よりニシンを満載して秋田県土崎(現秋田)港に向かって航行、あと四、五時間で土崎港に到着するところで急に霧のため視界が悪くなり、秋田県の男鹿半島入道岬沖に座礁、浸水、沈没(五月三日午前1時半ころ)。乗組員九名、荷主二名、十一名が伝馬船に乗り、午前四時ころようやく入道岬灯台下に上陸。灯台近くに鱈漁の番屋があり、漁師さんに大変お世話になり、おにぎり等をもらい、着の身着のまま乞食か浮浪者の集団のような格好で男鹿市船川町まで歩いた。
当時は船舶電話も無線もなく、会社との連絡は郵便局から電話していた。
寝具は私物となっており、私も軍隊から貰った毛布等、靴、服等私の全財産を船とともに海中に没した。
本当に悲しかった。船川町で会社から僅かな衣服が支給された。
六月一日付けで第四朝日丸に乗船。昭和二十二年九月、二十一歳六ヶ月で甲板長に抜擢された。三井近海機船は百トンから百五十トンが貨物船を日本全国で五十隻くらい所有していた。
乗組員も七百名おりましたが二十一歳の若い甲板長は私だけでした。二十代後半の人は三名いたそうですが、ほとんどが三十代後半から四十代だそうです。
毎年七月二十日の海の記念日にその年の優秀船員の表彰式があり、昭和二十三年の海の記念日には、東京本社、神戸支店、室蘭、小樽、塩釜各営業所から一名ずつ表彰され、函館支店からは二名、そのうちの一人に私が選ばれた。
なんで私なんかにと不思議に思った。
同年九月末にちょっとしたトラブルがあった。
そのトラブルも大きくなり、新聞沙汰にもなり、船長、機関長も不在のときで結局責任は私がとり、当時の函館新聞に悪質船員として書かれていた。
七月に優秀船員として表彰され、僅か二ヵ月で悪質船員になった。
会社でも放っておけず、甲板長から操舵手に降格され、第六多聞丸に転船させられる。
昭和二十四年二月に第四朝日丸遭難、乗組員全員絶望と聞く。
同年三月十五日に結婚。
昭和二十四年六月に南貿汽船所有の高千穂丸(千トン、乗組員二十三名、三井機船のチャーター船)にそう舵手として転船した。
同年九月中旬ころ、第六多聞丸が遭難、全員救助されたと聞く。
十一月末に高千穂丸チャーター解除となり下船、三井機船にもどる。
十二月初旬、室蘭港に積荷中の第八多聞丸に乗船を命じされる。十二月七日ころと思う。
朝早く函館を出発。昼頃第八多聞丸に乗船、夕方四時頃積荷を終え、街の銭湯にいく。銭湯で大火傷(子供に熱湯をかけられた)をする。
すぐ近くの外科病院に入院。十日ほど入院して船長に退船願を出し、函館の病院にて療養。十二月末に会社を依願退職する。
昭和二十五年一月末に第八多聞丸行方不明、全員絶望と聞く。
これで私が乗った船全船が遭難した。
昭和二十五年一月中旬ころ、北冷蔵株式会社所有の冷凍運搬船、第三大北丸に甲板員として採用され乗船する。
昭和二十五年十月十九日、長女生まれる。
昭和二十六年四月に甲板長になる。
昭和二十七年四月末、船長病気で入院。臨時船長が来る。
同年五月五日午前二時、利尻島に向けて函館港を出港。途中、霧のため視界が悪くなる。
同日午後五時頃、松前町白神岬沖にて座礁。海上保安庁の巡視艇に曳航され函館に帰港。今のようにレーダーでもあればと思う。
社長および専務にお前がしっかりしていれば、こんな事にはならないと大変な叱りように私もカッとなって会社を退職する。その後、第三大北丸はフィリピン方面にマグロの仲積運搬船になるとの事。私も乗っていればフィリピンに行けたのになぁと残念に思った。
下船後、失業保険を貰い、もっぱら休養する。
七月に大北丸から連絡無し、無線の応答も無し、海上保安庁も広範囲に捜索しているが手がかり無しとの事。
遭難確実になった。(インド洋に向かう途中、伊豆諸島付近らしい)
六年間船乗りをして六隻の船に乗り、健在なのは高千穂丸一隻だけである。私の下船したあと、ほとんど遭難している。何か恐ろしい気もする。
これで船乗りから足を洗う決心がついた。
七月末に石黒組(砕石業)に就職した。大変な重労働で再三のぎっくり腰には参った。
それでも一生懸命働いたので、結構良い待遇された。
昭和二十七年十一月二十五日、長男が産まれる。(長女、長男ともに大変な難産だった)
同年十二月二十三日、父が死去する。
昭和二十八年暮れに知人から今働いている小さな会社より、大きな会社に入れば将来も安定するのではないか、函館ドックにでも入る気があれば世話をしてくれるとのことでお願いする。
昭和二十九年一月十五日に函館ドック株式会社鋼具工場に臨時工として採用される。
驚いたことに昭和二十四年以降、正社員は一人も採用されず全部臨時工ばかりとのこと。
臨時工も各職場合わせると七、八十名くらいもいるとのこと。会社の景気が良くなれば、このうちから何名かが正社員に採用されるかも知れないとのこと。
せっかく臨時工にでも入れたのだから何とか頑張ってみようと思った。ただ日給が安く、日曜祝日も休まず毎日夜八時九時まで残業しても生活は苦しかった。
昭和三十年暮れ、年が明ければ何名かを正社員に採用するようだとの噂があり、私なんか一番の新顔だからと諦めていた。
年が明け、一月に噂どおり十名くらい採用になるとのこと。その中に私の名前もあるとのこと。今回見送られても次の機会にはと望みもでてきた。
昭和三十一年二月十五日付けで八名が正社員になり、私もその中の一人に選ばれた。
本当に嬉しかった。
これで生活も安定する、万歳と叫びたくなったくらいだ。
昭和三十六年四月に伍長になり、四十二年には班長(組長)にもなれた。
昭和四十六年には、現在地に家も新築した。
ただ、腰痛には随分と悩まされた。
昭和五十一年十一月、十二月にかけて五十日間、腰痛のため湯川町の福徳病院に入院した。
昭和五十二年四月に作業長の辞令が出たが腰痛のためと辞退した。
会社も不況になり、昭和五十三年一月に希望退職者を募集した。私も募集に応じ、一月十五日付けで退職した。
退職後は腰の治療に専念する。
毎日病院に通院した。
同年四月に有限会社宮建設に大工さんの手伝いとしてお世話になる。
昭和五十六年二月に青森県の五所川原市で自動車運転免許を取得する。
同年四月、有限会社山内造船所の社長に誘われて入社する。
昭和六十一年一月に北洋鮭鱒漁もなくなり、山内造船も不況に陥り倒産する。
同年四月に函館職業訓練校土木科に入校。
翌年三月末に卒業。
厚生年金も貰えるようになり、腰に負担がかからないような港湾作業にアルバイトとして働いた。
やっぱり腰痛に悩んだ。
平成五年七月十三日に函館五稜郭病院で精密検査を受ける。
結果は腰椎の骨2箇所が変色しており、骨の老朽化と診断された。
木でいえば枯れ木と同じように癒しようがないとのこと。一生付き合っていかねばならないとのこと。
涙がでた。
それ以後、仕事もきっぱりやめ、月五、六回程度生計外科病院に通院している。
平成七年に長男と力を合わせ、家を二世帯住宅に建て替えた。
平成十一年三月十五日、結婚五十周年を迎えた。(金婚式)
平成十四年六月末。胃の具合が悪く、医師会病院に入院。七月五日に胃癌と宣告される。
七月十二日に手術。胃の六十パーセントを摘出される。
八月八日退院。その後、順調に回復にむかっている。
平成十五年三月十九日、満七十七歳の誕生日を迎える。
日本人男性の平均寿命は七十七.二歳とのこと。
私も平均寿命まで生き延びた。
現代は高齢化社会といわれ、七、八十歳はまだまだ若い方とのこと。
私は病のデパートと言われるくらい数多くの病を体の中に抱えている。
良くここまで生き延びたと不思議に思うくらいだ。
七十七年という年月は、随分と永いようだが何だかあっというまに過ぎ去ったようにも思える。
顧みれば十八歳で当時の海軍に志願して、勇ましく故郷樺太を歓喜の声に送られて出征し戦争もした。
終戦後の混乱時代、また船乗り、石黒組、函館ドック、山内造船、宮建設といろいろな会社にもお世話になtる。
七十七年の道程にはいろいろな思い出もたくさんある。
一番の思い出は、戦争で船が撃沈され、海に投げ出されて九死に一生を得たこと。
また、船乗り第一船目で座礁沈没、全財産を失ったとき。
第四朝日丸のときは、悪質船員と新聞にも出され第六多聞丸に転船され、一ヶ月後、第四朝日丸が遭難、全員絶望と聞いた。また、第八多聞丸は私が足に火傷をして入院後、自宅療養中遭難、全員不明。第三大北丸は座礁海上保安庁にお世話になり、その責任は私がとらされ退船した二ヵ月後、フィリピンに向け航行中に行方不明。全員絶望と噂もきく。
私が降りたあと、全船遭難三十人の仲間が犠牲になり、私一人が生き延び、悪運が強いというか、悪魔が取り憑いているのか空恐ろしくも感じた。
犠牲になった三十人の御霊が一人だけ生き延びた私の背後から覆いかぶさり、私がその御霊を背負う格好になり、そのための腰痛ではないかと思うこともあった。
病院の話では、あまりにも自分の体を酷使したため、早く老化が進んだとのこと。
いずれにしても諦めざるを得ない。
これからは体調に合わせ行動をする。
家族に迷惑をかけずに余生を送りたい。
高齢化時代、これからだ。
七十七年の愛月を振り返っての懐古から
平成十五年五月十日
平成二十五年一月十六日 十四時十七分 没
享年86歳