異国の本
ユリは異国から来た女の子だった。
白い肌と金色の髪を持ち、ふわふわのワンピースを着たお人形のような女の子。
初めて顔を合わせたのは、ミチルの家にユリの家族が挨拶に来たときだ。ある日ミチルの家の隣に、異国から海を渡ってひとつの家族が引っ越してきた。それがユリたちだった。
ミチルは、自分達とは瞳の色も髪の色も違うユリたち家族に、最初はひどく戸惑った。仲良くしても良いのかどうか、なんて声をかけたら良いのか、わからなかった。
けれどユリの方にはそんな戸惑いはなかったようで、突然ミチルの手を握って「よろしくね、ミチル」と言った。年齢の近い友達からはいつも「ミチルちゃん」と呼ばれているミチルにとって、それはとても――もしかしたらユリの目と髪の色のことよりも――衝撃的だった。そしていっぺんに、心を持っていかれた。この女の子と絶対に仲良くなりたいと、そう思った。
家が隣同士ということもあって、すぐにふたりは一緒に遊ぶようになった。通う学校は別々だったけれど、放課後やお休みの日にはいつもユリの家の庭で一緒に過ごした。
ユリの家はミチルの家とは全然違う、初めて見るような西洋風の建物で、一面芝生の広い庭に囲まれていた。その一角にある、木でできたベンチのブランコに並んで座って、ユリはよく異国のおもしろい物語をミチルに話して聞かせてくれた。素敵なお城や可愛いお姫様、うっとりするような生活に、ちょっぴり怖いモンスターや不思議な生き物……。そこには、ミチルがいままで知らなかったキラキラと眩しい世界が広がっていた。
「それで、その後どうなったの、ユリちゃん?」
「今日はここでおしまいよ、ミチル」
「そんなこと言わないで、話して。ねえ、お姫様はどうなったの? 王子様は?」
「だあめ。続きはまた明日」
いくら続きをせがんでも「だめ」と言ったら「だめ」なのだ。ユリはためらいもせず、ぱたんと本を閉じて「はい、今日はおしまい」。そんなときミチルはすこしむっとするけれど、何も言わずに我慢した。ユリが機嫌を損ねて「じゃあ、もうお話してあげない」と言い出したらそちらのほうが困るから。ユリが話してくれなければ、ミチルは続きを聞くことができない。
ユリが持っている本は、まるで大人が読むような、表紙が皮でできた分厚くて立派なものだった。ミチルに物語を聞かせてくれるとき、ユリは決まってこの本を開く。
「この本はね、わたしの宝物なのよ」と、ユリは得意そうに言った。
「パパとママが、わたしのバースディにくれたの。ここにはね、素敵な物語がたくさん書かれているのよ。特別にミチルにも聞かせてあげるわ」
その本は、ミチルの目にはまるで、きらきら光る宝石がたくさん詰まった宝箱みたいに映った。ああ、あの本を自分で読めたなら、どんなに楽しいだろう。あの本が自分のものだったなら、どんなに素敵だろう。
「わたしにも、その本読ませて。ユリちゃん」
ミチルがそう頼むと、ユリはすこし意地悪で蠱惑的な顔で微笑んだ。
「ミチルには、読めないでしょう?」
*
ある日いつものように庭で遊んでいたら、家の中からユリを呼ぶ声が聞こえてきた。
「あっ、ママが呼んでいるみたい。ちょっと待っていて、ミチル」
そう言って、ユリは家の方へかけて行った。さっきまでユリが座っていた場所には、ぽつんと「宝物」の本だけが残される。
――ミチルには、読めないでしょう?
前にユリに言われた言葉が、突然頭の中に聞こえてきた。
――ミチルには、読めないでしょう?
ミチルは恐る恐る、本に手を伸ばした。心臓がどきどきした。手が震えた。すごく、どきどきした。体が熱かった。
本をひらく。
わからない異国の文字が、魔法の呪文のように並んでいた。眺めていると、くらくらと眩暈がした。重たい本を膝の上に乗せ、書かれている文字ひとつひとつをひたすら目で追った。ページをめくる。文字を追う。ページをめくる。文字を追う。ページをめくる。
――ミチルには、読めないでしょう?
「わたしにだって、読めるもん」
ミチルは文字を目で追いながら、想像する。素敵なお姫様を、わくわくする冒険を、頭の中に思い描く。ユリがいつもそうしているように、異国の文字列を指でなぞりながら。
わたしにだって。
わたしにだって、読める。
「おもしろいでしょう、ユリ?」
誰も座っていない、ベンチの隣に向かって、ミチルは話しかけた。ユリの口調を真似しながら、口元に微笑を浮かべて。
本を閉じる。ユリがこちらに向かって走ってくる。ミチルは「ユリ」と名前を呼ぶ。「ユリちゃん」ではなく「ユリ」と呼ぶ。
《了》