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戒厳令の君(四)



 田崎(のぞむ)の願い通りの悲劇は起きなかった。悪運の強い奴と、残酷に田崎は騎道の笑みに苛立った。

「大丈夫。ちょうど、寝返りを打って、腕を上げてた所に落ちてきたから。重みで自分の腕で、鼻を打っただけ」

 そう騎道は笑ったのだ。

「難しそうな本を読んでるんだね。『同会』? 結合する相互の気的感応によって事実を発生すること、か。巡り合わせという意味かな?」

 開いたページを読み上げるくらい、余裕綽々だ。打ち所が悪ければ、大怪我しかねなかったというのに。

 偶然手が滑った、という田崎の釈明も鵜呑みにして。

 悪友は、とっとと逃げ出していた。何しろ相手は、あざみ姫の意中の人だ。平凡な生徒は関わりたくないだろう。

「眼鏡、大丈夫だったんですか?」

「ああ。眠っている時は、外しているから」

 してたら、痣ぐらいは出来ていたかも知れない。狙いもしないのに、偶然で頭の上に落ちたぐらいだから。

 騎道は立ち上がり、田崎に本を手渡した。田崎からは少し見下ろす背の高さ。騎道は穏やかな目をしている。

 熟睡できるだけあって、ここの木陰は静かで涼しい風が抜けてゆく。それでも、田崎の心は収まらなかった。

『二年B組の騎道若伴さん。至急、グラウンド、南西のベンチまでお出で下さい』

 呼び出しのアナウンスが校内中に広がった。相手は三橋だ。特大ホームランを飛ばして以来、連日、三橋からこうやって助っ人を要請されるのだ。

 気安く、というか騎道自身振り切れたものがあるのか、喜んで登場し、期待通りのパフォーマンスを遂げてみせる。地味に大人しくの以前からすれば、大した変化だった。

「僕、田崎臨といいます。まだ一年生ですが」

 別れようとする騎道に、田崎は言い放った。思い詰めた気配に、騎道は振り返って、視線を上げた。

「佐倉千秋さんのことが好きなんです。

 だから、手を引いてくれませんか?」

 顔立ちが変わる。田崎自身、自分でも感じていた。この人には負けたくなかった。

「何のことか、わからないな」

 陰り一つみせず、騎道は素直に答えた。

「僕、知ってます……。もう四日も佐倉さんの手弁当を受け取ってる。飛鷹さんを通して、知られないように……」

 行きがかり上、彩子が仲介することになっていた。

「ほんとに、わかんないんですか? 

 あの人の気持ちを、あなたこれからも無視するつもりなんですか? そんなの虫が良すぎると思わないんですか?」

 もう一度、呼び出される。焦れた三橋のダミ声だった。

「悪いけど、急ぐから」

 微かに、騎道の頬が強張っていることを田崎は見逃した。だから、本気で、奴を憎めた。

「卑怯です」

 拳が震えていた。優しい印象しか残らない騎道は、頼りなげで、軟弱で卑怯で、男らしくない。

「……わかってる」

 初めて出した明確な答えに、田崎は耳を疑った。

 何を考えてるのか、わからない奴だ。だが、男らしくないというのは撤回する。でも譲らない。そう決めた。




「……珍しいこともあるわね」

 2ストライクで、次の球は腰を浮かせながらも、ファールで三振だけは逃れた。ホームベースのバッターは、いつも通り黒い野球帽を深くかぶっている。

 三橋に呼び出された騎道だった。連続五日、特大のホームランを打ち、さっさと引き上げるのがこの所の常になっていた。

 彩子は自分の教室で、遠くのそれを眺めていた。何か余計な考え事でもしているのか、騎道のバッティングにいつもの冴えはない。

「彩子。話しがあるの、少し付き合って」

背後から声が掛けられた。彩子は一呼吸、騎道がバッターボックスに戻るのを待った。でも、騎道は集中できずに帽子のつばを気にしている。

 振り返って、後について教室を出た。

 いずれこうなると予想していたのだ。逃げる気もない。アルトの声の女生徒は、椎野鈴子。冷淡な背中を見せ、ついてきているのかすら確かめようとしない。

 教室から二人の姿が消えた頃。ようやく三橋待望の追加点が観衆を沸かせた。当然、場外ホームランだ。




 水飲み場の大理石に似せたコンクリートに水飛沫が上がった。ネクタイをワイシャツの第二ボタンと第三ボタンの間に差し込み、騎道は顔に水を浴びる。

 眼鏡を掛けたまま。蛇口を締め、水滴を払うが、タオルの持ち合わせはない。この日和だ、すぐに乾いてしまうとシャツに広がる滴も気に止めない。

 さすがに長めの前髪からの滴は振り払った。

 そこに、一人の女生徒が走り込んできた。

「来て下さい。彩子さんと鈴ちゃんが、大喧嘩して。

 私じゃ、止められない……」

 息を切らして、佐倉は騎道の顔を見るなり、涙を込み上げさせた。

「二人で喧嘩って、何があったの?」

「私のせいです。私が、私が……!」

 無意識の動作で、騎道はじっと視線を向けていた。

 私が、騎道さんを好きだから……。飛び出そうとした声を飲み込んで、コクリと佐倉はうつむいた。

「……そんなに、見ないで下さい……」

「え? あ、ごめん……」

 もの言いたげに震える肩に、騎道は動転した。

「とにかく、二人を止めなくちゃね。どこ?」

 言葉がもつれた。一瞬、彼女の思考が頭をかすめたようで、想いの熱さが騎道の胸を突いたからだ。




『だって、騎道さん寂しい目をしているから』

 佐倉千秋は、彩子と椎野の前でそう言った。

『彩子さん、やっぱり気付いていないんですね。

 授業中、騎道さんよく窓の外を眺めているんです。ぼんやりと。まるで、ここが自分の居るべき場所じゃないって悲しんでいるみたいに、寂しい目をするんです。

 だから、私でも、ほんの少しでもそんな目をさせずにできるなら、なんでも。騎道さんの為なら。そう望んでくれるなら、かなえて上げたかった。

 でも、そんな勇気もなくて、ただ、見つめて祈っているだけで良かった』

『ただ、憧れているだけでいいって言うの?』

『ええ……、そうです。第一、誰も無理です。あんな目をする人を、受け止めてあげられるのは神様にしか出来ません。

 ……本当は、騎道さん気付いているんです。私のこと。

 私の、勝手な思い込みの我が儘にうなずいてくれただけ。特別な誰かになんて、誰もなれない人なんです』

『わからないわね。どうして彩子、こんなことに頭を突っ込んだりしたの? 私に隠れてこそこそと。つまらない同情で、余計な迷惑を持ち込んで。

 今度の相手は藤井香瑠なのよ。あなたこの決着をつけれるの? 無責任なままじゃすまさないわよ?』

 椎野鈴子の手加減無しの追及は、個人的な痛みに及んだ。彩子の怒りはそれに火を付けられた。

『賀嶋君とうまくいっていないのは同情するわ。だからって、千秋の感情にお節介するのは……』

 佐倉に、二人の激しい口論を止める術はなかった。誰かに頼るしかなかった。誰に? 思い付けるのはたった一人。




「ほんとうよ。あの人の目、尋常じゃなかった」

「だからって、椎野」

 お互い、二人きりにされて、本来の主題を思い起こした。さすがに女の醜い罵りあいを続けるほど、二人とも愚かでも不器用でもなかった。双方とも、掴み合いだけはしなかったわ、が最後のプライドだった。

「まだわからないの? あいつはまともな人間じゃないの。他の男子みたいに、悩んで生活して、いい大学に入ろうとして、女の子が気になって、そこそこの大学に入って、就職活動を真面目に仕上げよう。なんていう考えはないわ。

 普通じゃない。ただ居るだけよ」 

 マスメディアの王道を行く新聞部部長の読みだった。椎野は冷静さを取り戻し、騎道という存在の不快さに熱くなっていた。

「私に言わせれば、あいつはこれ以上大人になんかなれない。ずっと学生のままよ。十七歳を一生続けるの。

 何も見ない、誰も求めない、どんな心も認めない。どこを見ているのか計り知れないわ。男の子にしては優しい目をしているわよ、でも、その奥ではここじゃない別のものを探しているの。そんな飢えた目をしているのよ。

 その上、あのデリカシーのなさ。そんな奴に、千秋は譲れないわ」

「……鈴ちゃん!」

 悲鳴のような咎める一言に、顔を上げた椎野は青ざめた。同時に、飛鷹彩子も顔色を無くした。

「どういう話しなのかはわからないんですが……。

 僕、そんな、ひどい目をしてました?」

 眼鏡に指を当てて、騎道は揺れる視線を少し隠した。

 背後で、佐倉千秋は顔を覆っている。

「そうよ」

 青ざめたまま、椎野は気丈に告げた。

「まるで自覚していないから、僕にはどうしたらいいのか……」

 更に読み取られることを拒むのか顔を上げない。

「考えることはないと思うわ。本当に、君自身にはどうすることも出来ないんでしょうから。

 何かを手に入れるまではね。

 言い過ぎたかもしれないけれど、そういうことなの」

 あくまでも椎野は豪傑な態度を崩さない。そういうことだからと念を押したのは、佐倉の為だ。

 パタパタとその場を逃げ出した佐倉の後を、椎野は足早に追いかけていった。

 ぐいっと、少し湿っているワイシャツを彩子は握り締めて引っ張った。

「なんで、なんでよっ。どうして君がここに出てくるのっ」

 こちらの感情は支離滅裂だった。元は自分のお節介とはいえ、状況は自分のせいだけではなくなってきた。それがやたらと悔しいのだ。

 ぐしぐしと当たり散らされても、騎道は困ったように眉根を寄せるだけだった。

「佐倉さんに頼まれたから。いやとは言えないよ。

 あなたたち仲悪いから、取っ組み合いの喧嘩でもやっているのかと思った……」

「そうしていればよかったわ。

 あんたって、ほんっとに救いようがないんだからっ」

 ブンブンと首を振って、天然のウェーブの癖っ毛をバサバサに振り散らかした。

「彩子さん……」

「元はと言えば、君が悪いっ。どうしてあんな美人をフッたの? きれいさっぱり潔く。あんた男じゃないわよっ」

「どうしてって、……言われても」

「ごまかさないで、はっきり答えて。迷惑かかったのよ?」

 随分な物言いだ。それでも騎道は、困ったように少し笑った。

「ん……。あざみ姫よりも、綺麗で最高の女性に魅かれています。僕は誰にも心を動かされることはありません」

 照れながら、彩子の要求通りきっぱりと宣言した。

 ある種、これも彼特有のおとぼけなのかもしれない。聞かなければ良かったかなと、頭が痛くなってきた。

「こういう気持ちって、誰でも持っているでしょう?

 たった一人だけでなければ、とか。これじゃなくちゃ、みたいな。でも、本当。あばたも笑窪じゃないですよ。

 ほんとうに、すばらしい人です」

 最後の言葉。一抹の寂しさも含んだ、純粋な視線を少し遊ばせた。その瞳に、彩子の頭も少し冷えた。

「そう、よね……」

「解りますよね? 余計な話しになるけど。あれでも三橋、必死なんですよ。ふざけてばっかりで、こっちも頭抱えてるんですけど。わりと、本気ですよ」

「……わかってるわよ。それは」

「なら良かった」

 逆に、ペースに乗せられる。

「で、……でも、私にも居るから……。遠くだけど」

「僕の想い人もすっごい遠く。当分会えそうにもないんだ」

 何もてらいもなく騎道は言い切った。

「そうか……。あいつ、知っているの?」

「知ってるわよ。去年一年散々張り合って、しっかり釘さされてもまだ懲りてないんだもの」

 ぽっかり穴の開いた気持ちを、三橋は引っ掻き回して、少し彩子には救いになった部分もあったのだ。

「三橋らしいな、それって」

 同情しながらも、笑わずにはいられない。情けなさに。

「理由はそれだけ? 結構、騎道って堅物なのね?」

 たった一人、遠くの彼女の為に。幸せな彼女だ。

「いや……、もう一つ。飛鷹さんは知っている人間の一人だって、三橋が言ってたけど。言わなきゃいけない?」

 まさか、と嫌な予感が彩子を襲った。

「最大、秋津会長と、三橋、飛鷹さんまでは、周知のメンバーなんじゃないの?」

「ちょっと! 一体誰から聞いたの? いっくらおバカでも、あの三橋が話したわけじゃないんでしょ? まさか、誰かにバラしてはいないでしょうね! 

 あなた、広まったら、今のままじゃ済まないわよっ」

 騎道、ほとんど仰け反り状態でホールドアップ。女の子なのに彩子は、騎道の襟首を締め上げていた。

「話してない。嘘付いてない。誰からも聞いてない。

 あの時。呼び出されて真近に合った時、気付いただけ」

「ウソっ! あれが見破られるもの?」

 切ない溜め息一つついて、

「最上の女性の中の女性を見慣れていると、見破れるものなの。綺麗で文句も出ないけど、違うんだ。あの人とは、少し違う」

 まるで女神か女王様みたいな崇拝の仕方に、同じ女性の端くれとして、彩子は苛々してきた。

「じゃあ、そうじゃなかったら、OKしていたわけなの?」

「それで僕の日常の平穏が保てればね。この時期、余計な騒ぎは起したくなかったし。少しは……」

「人の恋心を何だと思ってるの? 何がこの時期よ」

「だから、ほんの少し考えただけ。悪かったと思ってるよ。

 でもね。僕はどんなに綺麗でかわいそうでも、男は願い下げ。脅されたって、付き合いたくない!」

「…………………」

 暗い過去がありそうな位、徹底した拒絶反応に、彩子は感心して言葉は無い。性格はズレていても、最低限のところは目一杯ノーマルな男であるということだ。

「彼女に同情は禁じえないよ。女性上位の風潮に添わされて、人生を後ろ向きに転換させられているんだから」

「そんな事、思ってなんかいないわよ。あざみ姫は」

 彩子は断言した。

「本人は十分に女の人生を謳歌してるじゃない。私も同情していた時期もあったけど、バカらしいわよ。

 あの人、楽しんでいるんだもの。姉妹の中でも最高の美貌を持って、最高の礼儀作法を叩き込まれて、磨かれる価値も地位も生まれながらに手にしていたじゃない。

 かしずかれて褒めそやされて、それが当然のことで。

 少女たちのトップに君臨して、まだ恋まで手に入れようとしているんだから。

 彼はそうなる為に生まれてきたのよ。当人だって、よく解っているわ」

 藤井香瑠は歴史が造りだした妖華だ。守り抜かれてきた血が、女性以上に美しい全てを贈ることが出来たのだ。

 たとえこの事実を知っても、眩む男はいるだろうに。あざみ姫は選ぶ相手を、哀れにも間違えたのだ。

 園子に頼まれた通り、ミーハー根性を出して早めに聞き出しておくべきだった。彩子は脱力感を覚えていた。

 誰が誰を好きになろうが、全くの自由だ。自由だからこそ、時にはただの一方通行が確定してしまう事もある。

「ただ、彼の方に同情しているだけじゃないんだ。一個の人間として、つらいだろうなって。これでも、かなり悩んだよ? 自分だってフラれ兼ねないのに、おこがましくも同じ痛みを与えられるのかって」

 彩子は耳を疑って、まじまじと見返した。

「……本当に好きなんだ。あの人の事しか考えられない。

向こうは知らないだろうけどね。最高の強敵が一人居るし、こっちは一つだけ年下だし。血の繋がらない姉弟だし。

 僕も、宇宙を隔てるくらい壮大な片想いをしてるわけ」

 と、極楽の如く、ニッコリ笑った。椎野のデリカシーがないといった言葉に、彩子は盛大な賛同を覚えた。




「ごめん……、千秋。さすがに言い過ぎた」

「いいの……。わかってたから、いいの」

 知識の宝庫の図書館。今は、悲しみと動揺で一杯の二人を隠す、秘密の小部屋に変わった。

 本棚の隙間から、図書館司書の動向を伺う。

「本ばっかり読んでたと思ったら、いつの間にか恋なんかしちゃってさ。大人になったよね、千秋」

「鈴ちゃんの方こそ。密かに失恋なんかして、髪切ったじゃない、去年の春。知ってるんだから」

 照れ隠しの笑いを椎野は浮かべる。

 佐倉は、よく知っていた。こんな風に無邪気な表情は、佐倉以外の誰にも見せたりしないということを。唯一、椎野鈴子に髪を切らせた男だけ、目にしただろうことを。

「千秋には、あんな思いさせたくなかったんだけどな」

「私は、鈴ちゃんの気持ちがわかってよかったと思ってるよ?」

「言うよーになったわね。千秋と立場、全然違うのよ?」

 ガラス窓を、人影が横切る。声を落としてやり過ごす。

「でも、結果は同じだもの。

 ……もう、お弁当なんか作らないもの……」

 ドアから廊下に出ていった足音がこちらに届いた。ほぉーっと、緊張が解放された溜め息を付き合った。

 五時限目は二人揃ってエスケープである。真面目そのものだった二人には、初めての体験だった。

「別に……、いーんじゃない?

 千秋、ボランティア好きだし。恵まれない人に愛の手を、だと思えば。

 もう、子供じゃないんだし、自分で決めなさい。

 そうしたいんでしょ?」

「……うん……。

 ありがと、鈴ちゃん」




 飛鷹彩子の気は重い。清々しい朝からこれなのだ。今日一日が、思いやられてたまらない。

 これまた重量を増やしたような学生カバンを両手に抱え、とぼとぼと学園までの道を辿る。

 原因は、昨日の椎野との口論だ。それと騎道の片想い発言。やり過ぎだった佐倉への肩入れ。

 それは、椎野がズバッと断言した通り、佐倉の姿に自分を重ねていたに過ぎないのだ。

 自分だと思っていた佐倉は、見守っているだけで良かったと身を引き、賀嶋だと思い込んでいた騎道は、誰にも譲れない誰かが他に居た。まるで彩子は道化者だ。信じられないくらい、センチメンタルな自分だった。

「……それはいいのよ、自分のことなんかどうだっていい。

 要は千秋なのよ。あたしが掻き混ぜちゃったから、あざみ姫の不興を買って。あー、いやだー。憂鬱」

 え? っと、彩子は正面の一点を見つめて立ち止まった。

 見覚えのある姿が彩子を待っていた。思わず、何を言われてもいい覚悟で身構えた。

「佐倉さん……、どうしたの?」

「おはようございます、彩子さん。勿論、これです」

 佐倉は、お弁当の入っているはずの袋を差し出した。

 きょとんと、巾着から視線の離れない彩子。佐倉は、くすくすっと声を立てた。

「鈴ちゃんが、やりたければ続けなさいって。ボランティアですって、ひどい言い方でしょ?」

 佐倉の声は弾んで、彩子の手の中に包みを受け取った。

「私、白楼会の退会は気にしてませんから。鈴ちゃんには、前々から早く抜けなさいって言われてましたし、会に居なくても、ボランティアは出来ますもの」

 先に離れていこうとする佐倉を、引き止めた。

「ね、これ、どう説明したらいい? 騎道に。

 あいつ、もうダメだって嘆いてたのよ?」

 幸せそうな表情を浮かべた。くすりと、笑って答えた。

「大好きだから、ボランティアなんです」

 ぱたぱたぱたと、駆けて行った。あの日、保健室を逃げ出したような大疾走だった。

「……なるほど、ボランティアね。ま、当人同士が納得していれば、外野なんかどうでもいいのよね。

 幸せだわ。そんな考え方って……」

 あたしには無理だけど……。付け加えながら、足を速めていた。騎道若伴はどんな顔で受け止めるだろう?

 いつまでも、季節は夏のままではいられない。別れの挨拶をする真夏の空のように、ひらめく笑みを浮かべるだろうか? 


『戒厳令の君 完』




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